藤原定家によって編纂された「百人一首」の和歌が、どのような基準で選ばれたのかは興味ある問題です。和歌内容が読者に対して強い説得力のあることや深い共感性のあることなどは当然です。しかし、実際に入っている和歌を見るとそれだけではないように思います。今回は、和歌が詠まれた状況への興味や評価が「百人一首」に選ばれた大きな理由かと考えられる作品をいくつか紹介したいと思います。

平兼盛の和歌から名づけられたバラ「しのぶれど」
平兼盛の和歌から名づけられたバラ「しのぶれど」

忍ぶ恋の和歌を競う

〈忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで〉
平兼盛(40番)

〈恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか〉
壬生忠見(41番)

この二首の出典は「拾遺集」の恋一ですが、「天暦御時歌合」の詞書で「百人一首」とは逆に忠見・兼盛の順で連続して収められています。
この「天暦御時歌合」とは、通称で「天徳内裏歌合」と言われるもので、天徳四年(960)三月三〇日に村上天皇が主催した、晴(ハレ、公式)の歌合(うたあわせ)の典型とされるものです。歌合とは、一番ごとに左方と右方から出された各一首の和歌の優劣を競う平安時代に発展した遊びです。この歌合は全体が一二題二〇番でした。二人の歌は、歌合最後の二〇番で「恋」を題とし、忠見の歌が左方、兼盛の歌が右方から出されました。

二首の内容を確認してみましょう。まず兼盛の歌です。
「隠していたのに外見でわかってしまいました、私の恋は。恋をしているのですかと人が問うぐらいに」。
一方、忠見の歌は、
「恋をしているという私の評判は早くも立ってしまいました。人に知られないようにと恋し始めたのに」。
二首とも、秘めていた恋心を図らずも人に知られたという状況を詠んでいます。あえて差を求めれば、兼盛の歌は、「色に出でにけり」とあることで、抑えても抑えきれない言葉やそぶりに恋する人特有の雰囲気を想像させます。忠見の歌は、恋心を秘めていたにもかかわらず、評判になってしまったことへの初々しいとまどいが伝わります。

二首ともに恋歌の類型としての恋の初期を象徴する「忍ぶ恋」の典型的な和歌です。しかし、歌合の記録によれば、左方代表で、勝負を決める役割の判者だった左大臣の藤原実頼は、左右の歌がどちらも優美で勝敗が決められず、天皇に訴えたところ天皇も同感で、右方筆頭の大納言源高明にも意見を求めますが、返事はありません。
一方、歌合の場では左右それぞれが我が方の勝ちを促すように和歌を読み上げています。実頼が困り果てていたところ、天皇が小声で右歌を口ずさむのを聞きます。高明も天皇の意向は右かと言い、これによって右方の「忍ぶれど」が勝ちとなったというのです。

この二首の勝敗決着が話題となり、多くの書で引かれています。早いものでは、応徳三年(1086)に成立した第四勅撰集「後拾遺和歌集」を、当時和歌界の重鎮だった源経信が直後に批判して著されたとされる「難後拾遺」の中で、兼盛の「物や思ふ」の表現が、当時は古歌に同じ表現のあることが知られていなかったため賞されたという指摘があります。
経信は、その後催された「高陽院七番歌合」でも同じことを繰り返していますが、1150年前後に書かれた「和歌童蒙抄」という歌学書にも記載があります。それだけこの二首には話題性があったということでしょう。

また、少し後に成立した歌学書の「袋草紙」には、兼盛が当日には衣冠を正して参上し、勝を知るや拝舞して他の勝敗は気にもせず退出したとのこと、一方の忠見は困窮した田舎者で、歌合に召されて朱雀門付属の建物で過ごし、みすぼらしい柿色の小袴を肩に掛けた姿だったと書かれています。
そして、十三世紀末近くに成立した仏教説話集の「沙石集」では、負けを知った忠見は胸が塞がって物を食べられなくなってしまい、兼盛の見舞いにも快復せず、その後ついに命を落としたが、二人ともに名歌として「拾遺集」に入れられたと書かれています。話が時代を追うに従い成長してゆくようです。

二首が秀歌であることは「拾遺集」への入集で確認できますが、その時点で勝敗について優劣の差が決められなかったことまで含めて評価の対象にされたのではないかと思います。「袋草紙」までは平安時代の成立で、「沙石集」の説話は後の創作でしょう。「拾遺集」入集の基準は歌合記録の範囲にとどまるでしょうが、「百人一首」は「袋草紙」より後の成立ですから、そこまでの話題を含めて評価し、選び入れられたのだろうと思います。

歌合とは、和歌を詠むための特殊な空間です。本来、和歌は人々の実生活上での会話のように意志を表してやりとりする手段として、あるいは格別な神などに思いを述べる場合に詠まれたものなどです。
恋の和歌は恋する者どうしの会話だったのですが、それを虚構の空間で詠むのが歌合です。和歌の勝負など実生活とはかけ離れた遊戯であり、遊戯だからこそ、勝負が伯仲することで、いっそう面白さも増して盛り上がるのです。それは、実生活での切実な思いを詠む和歌とは別の面白さがあるとも言えます。

和歌で交わす恋のかけひき

そのような実生活と離れた虚構の面白さを楽しむ恋歌を、なお二首紹介します。

〈春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ〉
周防内侍(すおうのないし)(67番)

〈音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ〉
祐子内親王家紀伊(72番)

67番は「千載集」の雑上、72番は「金葉集」の恋下が出典です。
67番は、「千載集」の詞書によると、二月の月明の夜、遅くまで男女の貴族・女房たちが話をしていたのですが、作者が横になって、ふと枕がほしいとつぶやいたのを大納言の藤原忠家が聞いて、これを枕にどうぞと、腕を御簾の下から差し入れたので、詠んだとあります。
「春の夜の夢のように短くはかない情けの腕枕を借りたために、実る甲斐がなく立つことになる私の恋の評判が惜しいので、ご遠慮します」という内容です。「かいな」の音で男から差し出された「腕」と、「甲斐無」の意を表した掛詞が冴えている一首です。

72番は、康和四年(1102)閏五月に催された「堀河院艶書合(ほりかわいんけそうぶみあわせ)」という個性的な歌合に出されたものです。「艶書(けそうぶみ)」とは恋文のことで、この歌合は男性貴族が宮仕えする女房に贈る歌を先に詠み、贈られた女房が返歌をするということを、作者を交代しながら何組も繰り返すという歌合です。「金葉集」にも一緒に入っている藤原俊忠が詠んだ次の歌、

〈人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ〉

「人に知られない恋心が私にはあります。だから、荒磯の浦風で波が打ち寄せる夜には打ち明けたいものです」への返歌が72番です。「有りそ」と「荒磯」、「寄る」と「夜」の掛詞に工夫がある一首です。
そして、72番は「名高い高師の浜に寄せて返す波のように、すぐに去ってしまうあなたの情けはお断りします。波ではなく悲しみの涙で袖を濡らすのは嫌です」、という内容です。「高師の浜」は、大阪府堺市にかつてあった名所で、贈歌が「荒磯の浦風に波の寄る」と詠んだので、それに合わせて名所の浜に寄せて返事の主張を詠んだのです。

この二首は、男の誘いの言葉や和歌に応じて詠まれた虚構の戯れの恋歌です。しかし、その即応性と演技性の見事さが称えられたのでしょう。
この二首に定家が惹きつけられたきっかけは、なおもう一つあります。それは正に私情そのものですが、作者二人の相手であった藤原忠家と俊忠は、定家の曾祖父と祖父です。親族の二人がそれぞれの名歌を詠ませたと自賛して評価することもできます。この一事でも、二首と定家との縁の深さが知られます。

冒頭で問題とした、「百人一首」に選ばれた和歌の基準を一律に確定することは、なかなか困難なように思います。今回は和歌の主張の一途さとか切実さとは異なる、虚構の恋歌が詠まれた場合の、優劣決めがたい伯仲した状況、機転の利いた即応力の見事さといった面を重んじて選ばれたかと思われる和歌について紹介しました。
大きく言えば、これらの和歌と、その詠まれた空間そのものが王朝文化の華やかで豊かな実りであって、それを時代が下って失われた地点で哀惜する心から「百人一首」は編纂されたのだろうと考えます。

《参照文献》
百人一首研究必携  吉海直人 編(桜楓社)
平安朝歌合大成  萩谷 朴 著(同朋社)
歌合集 日本古典文学大系(岩波書店)
袋草紙考証 雑談篇  藤岡忠美 他 著(和泉書院)