四月に入り桜に気を取られていると、空っぽだった木々の枝には薄緑色の若い芽が、あちこちと吹き出しているのに気づき驚かされます。大地にも緑がふえ始めています。名前はわからずとも見慣れた草花がそこここと色とりどりに花をつけています。中には「雑草」として排除してしまう草でも個性をもった「植物」として見ていく。そんな目を持ち生涯かけて採集・分類し、研究し続けた植物学者「牧野富太郎」はこの四月の生まれ。今年生誕160年を迎えます。身のまわりのあらゆる場所に見えるどんな植物も、きっと牧野博士の目によって見極められ、分類されていることでしょう。

ところで、牧野博士ってどんな人? さあ、繙いていきましょう!

「成功の種」を持って生まれた少年!

「私は植物の愛人としてこの世に生まれた」また「草木の精かもしれん」と生まれながらに植物が好きだったことを明かしています。理屈もなにもなく、心の底から湧き上がる植物に対する強い思いが、原動力になっているとわかります。しじゅう山野に出て歩きまわり、植物を観察して採集をしていく、それが何より楽しく幸せだったのです。正に天賦の才といえるでしょう。

ところが富太郎にはもう一つ、天賦の才がありました。それは「抜群に絵が上手かった!」ということです。採集してきた植物を記録として正確に写し取る画力がありました。植物の特徴をありのままに精細に描く力です。全体像だけでなく、花を分解し一つ一つがどのようにしてその植物を構成しているか、時には切り分け内部まで微に入り細にわたり描写した正確な図表が研究を支えました。

天から二物を与えられた富太郎には「財力」もあったのです。生家は造り酒屋で広く商売を営む地元の名家。このような裕福な家庭に育った富太郎は、高価な本でも顕微鏡でも自分が欲しい、自分の勉強に必要と思ったものは手に入れることができました。朝起きてから夜寝るまですべてが自分の自由時間。思う存分に好きなことに没頭できたのです。

「牧野富太郎」は今から160年前、江戸時代が終わりに近づく1862(文久2)年4月24日、四国は土佐の高知県で生まれました。

牧野記念庭園 (練馬区東大泉)
牧野記念庭園 (練馬区東大泉)

幕末から明治へ! 旧きを学び出会った科学は「植物学」

富太郎が生まれるひと月前に、坂本龍馬が土佐藩を脱藩した、と知ると時代の慌ただしさを実感することができます。富太郎は裕福な子供時代を過ごしますが、親との縁には恵まれませんでした。3歳で父、5歳で母、6歳で祖父が亡くなります。残った祖母が家業を切り盛りして跡取りの富太郎を育てました。ひとり山野を歩きまわり植物を愛したのは、両親との早すぎる別れがあったからかもしれません。

幼い富太郎が受けた教育は時代の流れの中、江戸時代の古い教育と明治の近代教育の二つがありました。10歳の頃寺子屋で読み書きを習い、次に藩校であった名教館(めいこうかん)へ移り、儒学や英語・地理・物理・天文など、新しい欧米の知識を吸収します。明治政府の小学校制が始まると明教館は閉鎖され、13歳で小学校へ通うことになります。在学中に唯一富太郎の心に深く残り、たいそう気に入ったものに文部省の「博物図」があります。しかし名教館で学問を身につけていた富太郎にとって、小学校にはそれ以上に興味を引くものはなく、2年で退学をしてしまいます。その後は自分で野山を駆けまわり草木を観察して過ごしながら、好奇心の赴くままに自らの学問を広げていきました。

植物に関して江戸時代の学問は「本草学」でした。中国で発達した薬物学で薬となる植物・動物・鉱物を研究するものです。富太郎は中国の本草書『本草綱目』の解説書である、小野蘭山が著した『重訂本草綱目啓蒙』48巻20冊を祖母にねだり買って貰い、採集してきた植物の名前を片っ端から調べて夢中で過ごしたということです。これが後の研究の土台となっていったようです。

やがて西洋の学問、植物を生物として科学的に捉える「植物学」に出会います。その中でも「分類学」は特徴によってグループに分けていく学問で、このような整理がなされると植物の世界全体が理解しやすくなります。子供の頃からずっとひとりで、植物を観察しながら生きてきた富太郎にとって「植物学」との出会いは、自ら積み上げてきた経験が学問と結びついた瞬間だった、と言えるのではないでしょうか。

江戸から明治へ、教育制度が定まらない中だからこそ、富太郎は自分の興味を真っ直ぐに追いかけることができたのかもしれません。

文部省『博物図』左:第1図、右:第4図 (国立公文書館)
文部省『博物図』左:第1図、右:第4図 (国立公文書館)

「植物図鑑」は富太郎最大の功績!

誰しも子供の頃に「植物図鑑」を、一度は開いているのではないでしょうか。ページをめくりながら、手にした植物がどれなのか、ワクワクしながら探した方も多いことでしょう。夏休みの宿題と図鑑は切っても切り離せないくらい身近です。知らないものが明らかになる瞬間の喜びと楽しさは、好奇心溢れる子供にとっては充実感そのものです。

富太郎が子供の頃から続けてきた、植物を採集して細かく絵に描き起こす作業は、正に図鑑作りだったといえるでしょう。日本の「植物図鑑」のさきがけを作り出しました。

代表作は『牧野日本植物図鑑』です。刊行されたのは1940(昭和15)年、富太郎78歳の時でした。掲載された図版は3000種を大きく超えていました。それまでも多くの「植物誌」や「植物図誌」を出版してきましたが、これが富太郎の研究の集大成となったのです。刊行後も常に机に置いて訂正と追加を書き込み続けたそうです。改訂、増補と版を重ねていき晩年のライフワークとなりました。多くのカラー写真が溢れる現在の図鑑の中にあっても、その価値が色褪せることは決してありません。

1957(昭和32)年94歳で亡くなるまでに富太郎が発見した植物、また命名した植物は1500種類を超えるそうです。子供の頃から植物と親しみ観察し精密に描き記録し続け、日本の植物分類学の基礎を築いた「牧野富太郎」は草木と一体、「草木の精」だったのかもしれません。

参考:

著:清水洋美、絵:里見和彦『牧野富太郎【日本植物学の父】』汐文社、2020年

コロナ・ブックス編集部 編『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』平凡社、2017年

富太郎が発見、命名した植物は1500種類を超えます
富太郎が発見、命名した植物は1500種類を超えます