今日、7月7日から二十四節気「小暑」。7月7日には「そうめんの日」「ゆかたの日」などの記念日があり、夏の本格的な始まりにあたる時期といえます。しかしなんと言っても7月7日といえば七夕。牽牛(彦星)と織女(織姫)が天の川を渡って年に一度の邂逅をするロマンチックな伝説は、説明の必要も無いでしょう。七夕の笹飾りは華やかで涼しげで、筆者も大好きです。しかし七夕の深層には、表にあらわれない悲しい物語が秘められているかもしれないのです。

ロマンチックな七夕の二星聚会伝説は今も人気ですが、意外な背景も
ロマンチックな七夕の二星聚会伝説は今も人気ですが、意外な背景も

飛鳥~平安時代に定着した二星聚会伝説

「七夕」は、飛鳥時代ごろ隋唐から伝わり、平安王朝で「乞巧奠」(きっこうでん きこうでん)として祝われました。

江戸時代には五節供のひとつとして現在の七夕に近い形のお祭りが定着しましたが、人日の節供(1月7日)、桃の節供(3月3日)、端午の節供(5月5日)、重陽の節供(9月9日)と比べると、それらにもそれぞれ説話や伝説はありますが、七夕の織姫(ベガ)彦星(アルタイル)伝説は、もっとも有名でしょう。

牽牛織女神話の成立は、古代中国の『詩経』(BC12~6世紀)の小雅の大東篇の中に牽牛織女星の記述があり、中国南北朝時代(5~6世紀)の『文選』(もんぜん 昭明太子編纂)の古詩「迢迢牽牛星」には、

迢迢牽牛星、皎皎河漢女。

纖纖擢素手、札札弄機杼。

とあり、天の川の対岸で引き裂かれた恋人同士という構図や、織女(河漢女)が機織女であるという設定がすでに出来上がっていたことがわかります。

そしてやはり南北朝時代の月令『荊楚歳時記』(けいそさいじき 宗懍)には、

七月七日、爲牽牛織女聚曾之夜。

と、川の対岸で引き裂かれた牽牛と織女が7月7日に一年に一度の逢瀬(聚会)をするという伝説が、この当時すでに出来ていたとわかります。『荊楚歳時記』ではさらに、その7月7日の宵に婦女たちは針に五色の糸を通し、瓜の実を庭に並べ、裁縫の腕が上がるようにと織女に祈りを捧げたと記述しています。そしてもし瓜に蜘蛛が巣をかければ願いは叶うとする信仰がある、としています。

これが原型となって隋唐の時代には、手仕事や技能が上達するよう(巧くなるよう)「乞い願う」奠=供え物をするお祭り、つまり乞巧奠として定着し、日本にも遣隋使・遣唐使を通じて伝播しました。平安時代の宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物をして、琴や琵琶などの楽器や筆や裁縫道具などを備え、その上達を願いました。帝は庭に出て夜通し香をたき、二星会合を祈ったと伝わります。『万葉集』には130首余もの七夕関連の長歌・短歌が掲載されています。

天漢(天の川)を挟んで向かい合うベガ(織女星)とアルタイル(牽牛星)
天漢(天の川)を挟んで向かい合うベガ(織女星)とアルタイル(牽牛星)

七夕=たなばた訓みからあらわれた謎の「タナバタツメ」

ところでどうして「七夕」と書いて「たなばた」と読み下すのでしょうか。もともとは、七夕伝説が伝わった当初の日本では「七夕」は「ななよ」「なぬかよ」(七日の夜の意)と読まれていましたが、『万葉集』には、

天の河 棚橋渡せ 織女(たなばた)の い渡らさむに 棚橋渡せ (巻十 2081)

という歌があり、「織女」を「たなばた」と読ませています。さらに『古事類苑』には、

七夕ハ古ハ、ナヌカノヨト呼ビシガ、後ニタナバタト云フ、棚機(タナバタ)ツ女ノ省言ニテ、織女ヲ云フナリ

とあり、「たなばた」とは機織機のことで、ここから機織をする女性そのものを「たなばた」あるいは「たなばたつめ」と呼ぶようになり、織女が主役のこの祭りを「織女祭」=タナバタマツリと呼ぶようになって、やがて「七夕」に「たなばた」の読みが結びついたことがわかります。

『うつほ物語』でも「織女」の文字を「たなばた」と読ませています。

こうした読みの転化は普通に理解出来るのですが、柳田國男の高弟で、歌人・小説家でもあった民俗学者・折口信夫(1887~1953年)が、著書『水の女』の「たなばたつめ」の章で、龍神に仕える斎女(いつきめ)が斎戒ののち7月6日の夜から水辺に面した懸造(かけづくり)の機家に篭り、龍神に捧げる和布を織りながら神を待ち、その神を歓待して共同体に福徳をもたらすという行事が日本では古くから行われていて、それが中国から伝わった七夕行事と習合したという説を唱えます。

折口は有名な民俗学者ですから、この説はたちまちに民俗学の定説となり、歳時記では必ず掲載される「七夕の由来・薀蓄」として流布されることとなりました。

しかし、そのような祭りが行われていたという口伝や資料は実はまったくなく、この説は折口の文学的才の飛躍によって作られた想像にすぎません。

沖縄など南島の各地には7月7日ではありませんが、収穫祭の一環として、女性神官が海辺の浜や岩に立って、海のかなたのニライカナイからの来訪神を出迎えるという神事が行われてきたことは事実です。古宇利島では、海神を迎える「ウンジャミ」がお盆の直後の亥の日に行われます。取りしきるのは6人の女性神役と2人の男性神役です。

また鹿児島県の奄美大島や徳之島にも、海辺の岩棚(平瀬)に女神官たちが並び、踊りを捧げて神を迎える「平瀬マンカイ」が知られています。折口は『水の女』執筆に先駆けて、沖縄を巡って民俗行事の採集をしていますから、この南島での体験がその空想の裏づけとなっていると推察されます。

しかしそれらのどれひとつとして、懸造りの小屋にこもって機を織りながら神を迎えるという神事はありませんし、日付けも7月7日のものはありません。

醍醐天皇の御世の延長五(927)年の「延喜式祝詞」で成文化が見られる神社祭儀の際に唱えられる「大祓祝詞(おおはらえののりと)」の六月晦大祓(みなづきつごもりのおおはらえ)の文言の中に、

速川の瀬に坐す瀬織津比売(せおりつひめ)といふ神 大海原に持ち出でなむ

とあり、旧暦六月の夏越の祓では川の神であり機織の神でもある姫神が海に出てゆくという記述が見られます。『日本書紀』巻第二の神代下・第九段の一書第六には、

天孫、又問ひて曰(のたま)はく、「其の秀起(さきた)つる浪穂の上に、八尋殿を起てて、手玉も玲瓏(もゆら)に、機経(はたを)る少女(おとめ)は、是誰が子女(むすめ)ぞ」とのたまふ。

とあり、大山祇神の娘の姫神たちが、海上の巨大な神殿の中で機織をしている描写があります。折口の中で、これら上代の神話と、南島で見た女神官たちによる渚の神迎えとが渾然となって、「七日夜に一人機屋にこもり神の妻となる乙女」というファンタジーが出来上がったのかもしれません。

しかしながら、むしろや粗い草で織った簡素素朴な織物ならともかく、神に捧げる和衣(にぎたえ)は細かな絹織物ですから、とうてい一晩で織りあげられるものではないでしょう。高度な大陸の機織機が伝わったのと七夕伝説が伝わったのは同じような時代とされていますから、七夕伝説に先駆けた太古の日本で、そのような「タナバタツメ」による機織り神迎えが行われていたというのは、やはり無理があるように感じます。

「タナバタツメが懸造りの機屋にこもり神を迎えた」と言われるのですが…
「タナバタツメが懸造りの機屋にこもり神を迎えた」と言われるのですが…

瓜子織姫、そして供犠の牛馬…七夕は生贄への供養の祭りだった?

ただし、折口がその豊かな想像力で幻視した「機織女と龍神の一夜婚」は、古代日本でというよりも、文明が黎明を告げる前の先史人類のコミュニティにおいて、それに相似した神事が行われていて、折口がそれを直感したのではないか、という推測は成り立ちます。

「機織」というわざには糸と糸を拠り合わせる行為であり、『運命をつむぐ』という表現があるように、呪術行為とイメージ的関連が深く、それを象徴していると考えられます。

ヨーロッパの古いメルヒェン(伝承)を基にした「いばら姫」では、糸つむぎの紡錘が姫を長い眠りにつかせる呪いのアイテムとなります。だから巫術的な祭祀が海辺、川辺で行われたということはあったかもしれませんし、その際、神と一夜をともにするという乙女は、八岐大蛇(やまたのおろち)の生贄に捧げられた櫛名田比売(くしなだひめ)の神話のように、恐ろしい力をもつ自然神を慰撫するために共同体から捧げものとして差し出された無垢なる子羊=スケープゴートだったのかもしれません。

事実私たちは、古くから日本に伝わる昔話に、犠牲となる織姫の物語をもち、語り継いでいます。「瓜子織姫(瓜子姫)」がそれです。「瓜子織姫」は、人類の農耕の起源譚として世界中に類似の神話・伝承が伝わる、生贄となった少女の死体からさまざまな作物が生まれ出たとされるハイヌウェレ型神話を色濃く反映していると言えます。

桃太郎の女の子版ともいえる「瓜子織姫」。流れてきた瓜から生まれた瓜子姫はおじいさんとおばあさんに育てられて、歌と織物(技芸)に秀でた美しい娘に成長します。しかしあるとき、一人で留守番をしている隙をついて悪神である天邪鬼(天邪鬼の正体は、中つ国平定の際に高天原から派遣されたものの裏切って国つ神側についた天若日子とも、その従者の天探女=あめのさぐめの零落した姿とも言われます)に殺されて埋められてしまいます。姫の血で蕎麦や粟や陸稲などの作物の根が紅くなったとする由来譚が語られます。

バイオレンスな内容が、時代が下って人々の意識や価値観が変わっていくごとに次第にマイルドに書き換えられていきますが、今もなお東日本などの昔話では、原型が保たれて伝承されていますし、近年では「怖い話」として多くの二次創作を生み出しています。

中国では織女が舟を漕いで牽牛のもとに川を渡るのに、なぜか日本では彦星(牽牛)が織姫のもとへと川を渡る歌が多く作られたのも、王朝時代の日本人は、すでに文明化が進み神話のエッセンスが失われた中華風の七夕の物語から、古い時代の原型的神話としての「水辺で一人神を待つ生贄の織姫=タナバタツメ=ハイヌウェレ」を半ば無意識で直感想起し、作り変えてしまったのかもしれません。

さらに言うなら中国でも、古くから乞巧奠では瓜(!)を飾り、その瓜にくもの巣が張ることを吉兆としていたのですから、もしかすると七夕神話の深層には、もともとハイヌウェレ神話が隠れ埋もれていた可能性も考えられます。

もうひとつ指摘しておきたいのは、織姫の相方、彦星すなわち牽牛についてです。実は、牽牛の「牽」の文字には「生贄の動物」の意味があります。

古来、人々は旱魃に際し、大切な家畜である牛馬を生贄として雨乞いをする習俗がありました。祈る対象は当然ながら水神です。『日本書紀』には、垂仁七年七月七日に、「野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや) の桷力(すもう) 」の記述が見られ、この史上初の相撲が7月7日に行われたことから、8世紀から12世紀ごろまで、宮中では七夕には相撲が行われ「相撲節会」とも呼ばれていたのです。

水神とも言われる河童は、相撲をことのほか好むとされます。全国に「河童と相撲をとった」と大真面目で体験談を語る人は実は今でも多いそうです。

人の世の秩序を守るために生贄とされた乙女と牛馬。彼らの御霊を弔うための儀式が七夕だったのかもしれないと思うと、少し悲しい気持ちになりますね。

星伝説の深層には御霊信仰が?
星伝説の深層には御霊信仰が?

(参考・参照)

日本書紀 日本古典文学大系 岩波書店

水の女 折口信夫

古事類苑データベース(http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/)

平瀬マンカイ

野見宿禰と当麻蹶速の捔力に関する一考察 竹村匡弥

中国では織女が、日本では彦星が川を渡ります
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