古典文学の中で、もっともポピュラーと言える「百人一首」。当コラムでは「百人一首」の成立について、現在知られていることを解説しています。前回は、承久の乱後に島流しとなった後鳥羽院と順徳院の和歌が「百人一首」に加えられたこと、しかし後鳥羽院と「百人一首」の編者として有力な藤原定家の関係がきわめて微妙なものであったことに触れました。ではなぜ、定家は後鳥羽院の和歌を「百人一首」に加えたのでしょうか?

今回は、「百人一首」の背景として、後鳥羽院と藤原定家、この二人の関係に焦点を当ててみたいと思います。

☆あわせて読みたい!

百人一首成立の謎に迫る!意外と知らない百人一首の世界を探求〈3〉

藤原定家が愛したと言われるテイカカズラの花
藤原定家が愛したと言われるテイカカズラの花

後鳥羽院に重用される定家

まずは、後鳥羽院と藤原定家の関係について見ていきましょう。

後鳥羽院が和歌に興味を抱き始めて催した最初の正治二(1200)年、「院初度百首」で、定家の父・俊成が強く推し作者の一人に加わったのが、定家が後鳥羽院に関わった初めとされています。

定家は39歳、後鳥羽院は21歳でした。定家の実力はただちに認められ、以後の院が関わる歌合・歌会に頻繁に参加することになり、建仁元(1201)年には和歌所寄人となって、「新古今集」撰者の一人として、最も力を尽くすことになります。

しかし、「新古今集」撰歌編纂は、定家を含めた五人の撰者とともに、院みずからが積極的に関わり、形式上成立した元久二(1205)年三月二六日の竟宴(きょうえん・終了の宴)後も、新たな資料を加えて、数回におよぶ改訂切継の作業が続きます。

このように後鳥羽院に重用された定家ですが、院の熱心さが逆に歌人としての定家を苦しめることになりました。

『最勝四天王院障子和歌』での不協和音

「新古今集」の切継作業段階だった承元元(1207)年に、後鳥羽院によって建立された最勝四天王院という寺院の障子に全国から46の名所を絵に描き、それに院、定家を含む歌人10名が各名所の和歌を詠み(「最勝四天王院障子和歌」と言われます)、その中から名所ごとに一首を選んで障子絵に添えるという催しが行われました。その中で定家が「生田の森」を詠んだ、

〈秋とだに 吹きあへぬ風に 色変はる 生田の森の 露の下草〉

(訳:秋らしくは十分に吹いていない風で色付き変わった生田の森の露の置いた下草よ)

について、後鳥羽院の著「後鳥羽院御口伝」で詳しく語られています。この歌は、「生田の森」の撰に漏れましたが、そのことについて定家が、

〈……所々にして嘲りそしる、あまつさへ種々の過言(言い誤り)、かへりて己が放逸(気まま)を知らず……〉

と、歌人としての自信のあまりに傲慢な振る舞いをしていると、院は厳しく叱責しており、二人の互いに譲らない激しい感情のぶつかり合いまでが露わにみえます。

院は定家の歌風については、

〈…心あるやうなるをば庶幾(請い願い)せず、ただ詞・姿の艶に優しきを本躰とする。……定家は生得(生まれつき)の上手にてこそ、心何となけれども、美しく言ひつづけたれば、殊勝(ことに優れている)の者にてあれ〉

と、「心」より「詞・姿」を重んじて、表現が巧みであることを生来の天才としつつも、「心」の欠如を指摘します。その上で、「秋とだに~」の一首について、「上下相兼ねて、優なる歌の本躰と見ゆ」と、一首全体が優美さの典型だと賞賛します。しかし、本音は以下にあるようです。

〈詞の優しく艶なるほか、心も面影も、いたく(特に)は無きなり。森の下に少し枯れたる草のあるほかは、気色(けしき)も理(ことわり)も無けれども、言ひ流したる詞つづきのいみじき(素晴らしい)にてこそあれ。……〉

用語の意味が難しいのですが、無いとされる「心も面影も」とは、歌に詠まれるほどの内容や映像とされ、「気色も理も」は、情緒も納得させることも、といったことのようです。それらがなくて、実際にあるのは森の下に枯れ草が少しあるだけなのを言葉巧みに表現しただけ、というのが批判の中心と思えます。

言い換えると、院は景色の実体を「森の下に少し枯れたる草のある」だけだとし、それでは和歌にするまでもないと言いたいようです。

しかし、定家はそういう景色の中に思いを巡らし、微細な風の変化が新たな季節の到来を導き、色付いた下草に早くも秋のきざしが示されていることを指摘しようとしたのでしょう。そこには多分に思念を先立てた上での観察も巡らされていて、アルチザンと言うべき定家らしさがあるとも言えますが、後鳥羽院の好みではなかったのでしょう。

生田の森
生田の森

後鳥羽院の和歌と定家の和歌

二人の和歌への思いの差を手短かに説明することは至難ですが、一例に春の霞を詠んだ歌で比較してみます。

〈見渡せば 山本かすむ 水無瀬川 夕べは秋と 何思ひけむ〉

(訳 春の夕暮れに見渡すと、離れた山の麓から霞がかかる水無瀬川が趣き深いことよ。どうして夕暮れというと秋が良いとばかり思ってきたのだろうか)

〈大空は 梅のにほひに 霞みつつ 曇りもはてぬ 春の夜の月〉

(訳 大空は梅の匂いをこめて霞んでいて、すっかり曇らずにぼやけて見える春の夜の月だよ)

二首ともに「新古今集」で春上にある歌で、一首目が院の、二首目が定家の作品です。

一首目にある「水無瀬川」は、大阪府三島郡を流れ淀川に注ぐ川で、院の離宮が設けられ歌会なども行われました。遠景の山の麓から続いて薄墨のようなぼかしがかかる霞に静まる川辺の春の夕暮れを描き、その情趣は「枕草子」以来の伝統とされる秋の夕暮れにまさると宣言した歌です。歌の後半は帝王ぶりとも言える決断を示しています。

二首目の定家の和歌は、春の夜の梅の香が空に満ちて、香りを含んだ霞の中に薄曇る月を詠んでいます。ここで読む者は月を薄く覆う霞にまで梅の香を感じ、視覚美に重なる香りを味わうことが要請されます。見えている景だけでなく、その微細な隠れた味わいにまで思いを深めることが求められているとも言えます。特に「曇りもはてぬ春の夜の月」には、「生田の森」の歌の「秋とだに 吹きあへぬ風」と共通する繊細で厳密な限定によって微妙な美を追求しようとする定家らしさも感じられます。後鳥羽院だったら、もっとゆったりとおおらかな美を求めたかもしれません。

二人の訣別

後鳥羽院と定家の決定的な衝突は、「院初度百首」から20年後、承久二(1220)年二月一三日の順徳院による内裏歌会の折でした。その歌会に「野外柳」題で出された定家の歌、

〈道のべの 野原の柳 下もえぬ あはれ嘆きの 煙くらべに〉

(訳 道の辺の野原に立つ柳が春間近で下から芽が萌え出て煙るようです、ああ私の嘆きの火が燃えて昇る煙と比べるように。)

が、禁忌を犯したとして後鳥羽院の勘気に触れたのです。定家の家集「拾遺愚草」によると、この歌会の当日は定家の母の忌日だったため、参加を見合わせていたにもかかわらず、出席を繰り返し要請され、やむなく出向いたとのことでした。家集から見れば定家の亡き母を追悼する思いは明らかでしょう。

この歌中で「嘆き」とあるのは、当日のことを記録する「順徳院御記」では、「定家述懐歌」とあり、定家の詠んだ下句が後鳥羽院の逆鱗に触れ、しばらく閉門とされたとあります。院の怒りを買ったのは、「嘆きの煙」が火葬の煙を連想し、晴の会に相応しくないと判断されたためです。しかし、それは定家自身にも予想できたことと思われます。「新古今集」切継時の「生田の森」の歌での定家の憤懣は、そのこと・その時だけではなかったのだとも推測できます。以後、定家は後鳥羽院に直に会うことはありませんでした。

しかし、この別れは単純な隔絶で終わりませんでした。二人は和歌を深く思うという点では同じだったからです。

「時代不同歌合」と「百人一首」

定家が後鳥羽院の勘気を受けた翌年の承久三(1221)年、後鳥羽院は、鎌倉幕府の倒滅を図りつつ敗れた承久の乱の結果、隠岐に配流になります。この時、院は42歳、定家は60歳でした。しかし、院は隠岐に移された後も、「新古今集」の精選だけでなく、いくつもの和歌についての営為を残しています。

そのひとつが「時代不同歌合」です。平安時代の三代集時代までの歌人50人と以後の時代から50人を決め、各人の秀歌3首を選び、左が古い歌人の歌、右が新しい歌人の歌を配して歌合形式で番(つが)わせたものです。つまり冒頭で示せば、一~三番の左は柿本人麻呂の歌、同じく右は源経信の歌で、各3首が対になり、四~六番は、山部赤人と藤原忠通となっています。和歌総数は300首ですが、「百人一首」との相違を見ると、歌人は64人が一致し、そのうち36人は歌も一致するものを含みます。

定家の和歌も「百人一首」のものとは違いますが選ばれており、元良親王と対になっています。それについて、

〈元良親王といふ歌読みのおはしける事初めて知りたる……家隆は小野小町につがふ、……〉

と、番いになった元良親王という歌人を初めて知った、自分と同程度の家隆は有名な小野小町と番いなのに、と定家が不満を言ったという伝えが「井蛙抄(せいあしょう)」という歌論書に見えます。しかし、元良親王は、陽成院の皇子で親子とも「百人一首」に歌が入っていて、定家が知らないという伝えは信頼できません。また、定家に並ぶ歌人の家隆が小野小町と対になっているのが不満だったようですが、後鳥羽院が村上天皇の皇子の具平親王と対になっていることに匹敵するとしたら、むしろ編者の院は定家を重んじていたと見るべきだともされます。

「百人一首」の歌人や和歌には、平安時代以来の秀歌撰と呼ばれるものとの一致もありますが、「時代不同歌合」との一致は特に注目されます。後鳥羽院によるこの作品を定家が見て、互いに人生で和歌を重んじてきた身として、おおいに刺激を受けたと見る妥当性は小さくないように思えます。

後鳥羽院と定家の関わりについて見てきましたが、前回示したように、時代状況としては後鳥羽院の歌を「百人一首」に含むことは不都合なことで、しかも院とは譲り合えない心を持つに至った定家が「百人一首」に院の歌を入れた編者だとすることは単純には成り立ちがたいとも言えます。

しかし、定家の院に対する、和歌詠作の局面や日常での振る舞いなどでの反発は大きいにせよ、院が「新古今集」編纂以来の和歌世界における未曾有の変革に大きな力になったことと、それ以前の和歌史を重ねた時、晩年に至った定家の思いとしては、あえて院の歌を「百人一首」の最奥に据えようとしたという可能性は棄てがたいように思います。

なお、「百人一首」での後鳥羽院の重要性については、当コラム2回目(百人一首には順番があった?)をご参照ください。

《参照文献》

百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰 寺島恒世 著(平凡社)

藤原定家『明月記』の世界 村井康彦 著(岩波新書)

王朝の歌人9 乱世に華あり 藤原定家 久保田淳 著(集英社)

訳注 藤原定家全歌集 上下 久保田淳 著(河出書房新社)

後鳥羽院御口伝・井蛙抄 歌論歌学集成(三弥井書店)

最勝四天王院障子和歌全釈 渡邉裕美子 著(風間書房)