今年も桜の季節がやってきました。「花冷え」「花曇り」といった、この時期ならではの美しい季語もありますね。俳句では「花」は「桜」を指しており、古来、桜は花の代名詞でした。

今回は、お花見の起源につながりのある歴史上の事件と、「花疲れ」という季語にみる日本人と桜の深い関係についてご紹介します。

梅から桜へ。日本独自の文化が開花

『万葉集』が成立した奈良時代から平安時代初期までは、花といえば桜より梅をあらわしていました。梅は中国からもたらされ、宮中の行事や酒宴でも用いられており、人々は衣服に飾りとしてつけていたそうです。当時は遣唐使の時代。教養ある貴族たちは唐風文化を積極的に取り入れ、中国文学で主要な位置を占めていた梅が、日本でも詩歌の題材に多く登場することになったのです。

ところが、平安時代初期に起こったある事件をきっかけに、花の主役は梅から桜へと変化します。そこから現在に至るまで、桜を花の代名詞とする習慣が詩歌などを通じて育まれてきました。

1200年前に遡る!お花見の起源となった行事と事件

お花見の起源は、812年に嵯峨天皇(786〜842年)が京都の神泉苑で桜の花を観賞した「花宴の節」といわれています。それまでの平安貴族にとっての花見は梅でしたが、嵯峨天皇以後は桜の花見が主流になったのです。お花見は貴族の間で大変な人気を呼び、宮中では天皇主催の行事として行われるようになりました。桜のお花見の風習は、平安時代から長きにわたって受け継がれてきた日本独自の風習なのです。

嵯峨天皇が桜の花を愛でるようになったきっかけは、地主神社で目にした桜でした。境内に咲く花の美しさに、牛車を二度、三度と引き返させて眺めたと伝えられています。地主神社の桜は、やがて「御車返しの桜」と呼ばれるようになり、今も変わらず美しい花を咲かせているそうです。

「花宴の節」には、京の都の安寧を願う気持ちが込められていたといわれています。 地主神社行幸の前年にあたる810年、政権をゆるがす事件「平城太上天皇の変(へいぜいだいじょうてんのうのへん)」が起こります。実の兄との争い、人命が奪われる事態に心を痛めた嵯峨天皇は、桜の花を観賞する宴を催すことで、都の平安や心の平穏への願いを託したのかもしれません。

季語の「花疲れ」とは?「春愁」につながるもの悲しさの意味

お花見に出かけた後の疲れをあらわす「花疲れ」。人出の多いなかを歩き回る疲れや、「花冷え」「花曇り」の天候で体調を崩す可能性もありますね。桜の美しさに夢中になった後、ふと我に返って感じる疲労感。たしかに思い当たる節もありますが、「花に疲れる」という言葉の奥には、どのような意味が込められているのでしょうか。

花疲れ眠れる人に凭り眠る 高浜虚子

桜は開花から散るまでの期間がわずか2週間ほど。そのため、咲きはじめの頃や散り際はもちろん、今がまさに満開という時も、美しさのなかに儚さを秘めています。春の季語には、「春愁(しゅんしゅう)」「春かなし」という言葉もあり、明るい陽射しや咲く花の華やかさのなかに、人々はそこはかとない寂しさを感じとってきたことが伺えます。「花疲れ」は「春愁」にも似て、桜は人の心を美で満たすだけではなく、もの思いに誘って心をかき乱す花でもあるのですね。

さまざまの事おもひ出す桜かな 松尾芭蕉

「花」は「桜」を指す季語ですが、同時に、栄華、美しさ、明るさ、儚さ、愁い、気怠さ、非日常といった意味合いも含まれています。嵯峨天皇も、咲き誇る桜の花に湧き上がるさまざまな思いを重ねたのでしょうか。

はるか古より人々の心を捉えてきた桜。「花便り」「初花」「若桜」「朝桜」「夕桜」「夜桜」「花影」「花の雲」「落花」「花吹雪」「花衣」など、季語も豊富で、桜の季節は俳句をはじめるのにうってつけです。思いを言葉にのせて、春の風物詩を味わってみるのも一興ではないでしょうか。

・参考文献

大野林火監修/俳句文学館編『入門歳時記』角川学芸出版、KADOKAWA

・参考サイト

地主神社ホームページ

神泉苑ホームページ