寒い日が続きます。この週末は各地で積雪も見られましたね。

さて、本コラムの前編でご紹介したように、雪は人々の生活に困難をもたらすものというよりは、美しさを愛で、冬という季節の楽しみとされており、多くの和歌に詠まれていました。

後編ではさらに、和歌から範囲を広げて、雪についてご紹介したいと思います。

☆あわせて読みたい!

白い雪の美しさに親しむ~平安文学に見られる雪~(前編)

雪国で愛でられるシマエナガ
雪国で愛でられるシマエナガ

雪は愛でて楽しむもの

前編では、『万葉集』から、雪で岩山を彫刻して造花を挿し、和歌を詠んだ例を紹介しましたが、似た例は平安和歌にもあります。まずは、『拾遺和歌集』の例です。

〈雪を島々のかたに作りて見侍りけるに、やうやう消え侍りければ

わたつみも雪げの水はまさりけりをちの島々見えずなりゆく〉

箱庭のような中に、固めた雪をいくつかの島に見立てて並べ入れ、それが徐々に溶けたてきた様子を、海(わたつみ)でも雪解けの水量が増して遠く(をち)の島々が沈んで見えなくなると、詠んでいます。

次にご紹介する歌は『詞花和歌集』にあるものです。

〈太皇太后宮、賀茂の斎院(いつき)ときこえ給ける時、人人参りて鞠つかうまつりけるに、硯の箱の蓋に雪を入れて出だされて侍りける敷紙に書きつけて侍りける

桜花散り敷く庭を払はねば 消えせぬ雪となりにけるかな〉

これは、『後二条師通記』という漢文日記に、康和元年(1099)三月一七日の記事にのせられていたもので、白河院皇女令子内親王が斎院(未婚の内親王で賀茂神社に仕える役割)だった頃、桜が散る中で蹴鞠(けまり)が催された時に詠まれた歌です。

同じ日の出来事が、『古今著聞集』の蹴鞠の話の中にも見られ、童が「蒔絵の手箱の蓋(ふた)に薄様(うすよう)敷きて雪を多く盛り」と紹介されています。薄様とは薄い紙で、和歌はそれに書かれたのでしょう。ここでの雪は春下旬の暑さしのぎに用意されて出されたようです。

庭の桜と紙に乗せられた雪から発想して、桜の花が散り敷いた庭を払わないので、そこは消えない雪になったよと詠まれています。ここでは、桜と雪をともに愛でようとしていることがわかります。

二つの例は、内容も面白いですが、雪そのものの扱いまで興味深く、まさに雪を楽しんでいると思われます。

枕草子の雪―雪山を作る

平安の人々が雪を楽しみにしたことを知る好例は『枕草子』です。枕草子で雪に触れている箇所をいくつか挙げてみましょう。

冒頭から、「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず」と、冬の早朝の雪を挙げていますが、

他にも、「あて(上品)なるもの……梅の花に雪の降りかかりたる」、「めでたきもの……広き庭に雪の厚く降り敷きたる」とあり、さらに繊細な感性を示したものには、

〈雪は、桧皮葺(ひはだぶき)、いとめでたし。すこし消え方になりたるほど。また、いと多うも降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒う丸(まろ)に見えたる、いとをかし〉

があります。

桧皮葺とは、桧(ひのき)の皮で屋根を葺いたもので、貴族の邸宅に用いられ、現在の京都御所などに見られます。瓦葺きと別にそれぞれ屋根に付いた雪への趣味を示していることから、清少納言が雪に対して並々ならぬ趣の深さを感じていたことがわかります。

枕草子全体を代表する有名な一話は、「雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて」で始まるものでしょう。

清少納言が一条天皇の中宮(后) 定子にお仕えしていたある日、外は雪深く積もっているのを、珍しく仕切りの戸の格子を閉ざしていて、と始まります。

そこに御主人の定子が「少納言よ、香炉峯(こうろほう)の雪いかならん」と言葉をかけ、清少納言が、「御格子あげさせて、御簾を高くあげ」るのですが、それは「香炉峯の雪は簾をかかげて看る」という「白氏文集」の詩句そのままの動作で、定子の一言に清少納言が即座に応じたことが一座の大きな感興を得るというものでした。

この話は清少納言の漢学の教養や、定子との打てば響く関係という面ばかりが注目されがちですが、発端は折角の美しい雪景色を閉ざしていることを定子が惜しんだのだということも留意すべきでしょう。

こうした雪が関わる話の中で、白眉とも言える話が、雪山を作るという話です。

ある年(長徳四年(998)とされます)の「師走の十余日」が大雪になり、清少納言ら仕える者は、御主人定子のもとで、「庭にまことの山を作らせん」ということになり、邸の庭に雪の山を作ります。完成後、定子に「これ何時までありなむ」と問われて、他の者は年内ぐらいとするところ、清少納言だけが逆らって、「正月の十余日」と答えます。その後、雨が降ったり、物乞いの女が山に上ったりしながら、新年を迎えます。元旦の夜に大雪になりますが、定子の指示で新たな雪は取り除かれてしまいます。雪山は日を経て黒く汚れながらも保ちつづけ、清少納言は十五日まであればと期待します。その後、定子が内裏に入るのに従ったり、清少納言も実家に帰るので、庭番にあとを任せますが、雪山が気がかりで人を見に送ったりします。十日になり期待は高まる一方、またも十四日夜に雨が降り不安で迎えた翌朝、定子に献上するために人を送って雪を取らせようとしたところ、何と雪山はかき消すようになくなったとの報告を受けます。雪に添える歌の用意も無駄かと落胆する清少納言は、定子からの問いかけにも、誰か私を憎む人が雪を捨ててしまいました、と返事を伝えます。

数日後、清少納言は雪の山への並々でない思いを定子に語りますが、何と雪山を破壊させたのは定子だと明かされます。そして、「今は、かく言ひあらはしつれば、同じ事、勝ちたるなり」と、最初の清少納言の見通しが正しかったと認められて、お話は決着します。

この話は、定子の中関白家が政争に敗れて苦境にあった時代のこととされて、様々に問題視されていますが、それらは省略し、なぜ定子が雪山を破壊させたかのみ考えてみたいと思います。

代表的な説明は、清少納言の予測が正しかったとなると、女房社会で目立ち過ぎるので、定子がそれを避けるために雪山を崩したというものです。枕草子には、香炉峯の雪の話も含めて清少納言の自賛談が目立つとはよく言われることです。周囲の反感は想像可能なことで、清少納言を特に大事にしていた定子なら取り得る判断だとされます。

しかし、筆者は、定子はそのようなやり方で清少納言と周囲との関係悪化を避けようとするだろうか?と疑問に思います。

むしろ、類似した話として、清少納言の初宮仕えの話が連想されます。定子の許に初めて参上した夜、清少納言は緊張して、少しでも早くその場から去りたいと思いました。しかし、夜明けになって外部との仕切りの蔀(しとみ)を上げる時刻にもかかわらず、定子はそれを差し止めて清少納言を離さず、しばらくそのまま話した後にやっと解放するのです。

そこも「ゐざり隠るるや遅きと、(御格子を)上げ散らしたるに、雪降りにけり」と、清少納言が膝を突いたまま退くやいなや、暗い室内が開け放たれて、一挙に雪の白さに照らし出されるという印象的な場面です。結果的に初お目見えから、清少納言は定子のお気に入りとなります。

この時の定子の、いわば相手を厳しくぎりぎりまで追い込んでおいて、そこで深い慈しみを示すという方法が、雪山の話も同じではないかと思うのです。

元旦に降った雪を除かせ、最後は日限まで姿のあった雪山を大胆にも消滅させて、清少納言の自信も期待も一挙に奪い、失望落胆の淵に追い込んで、しかし、「実は私が犯人で、勝ちは清少納言だよ」と言った時、清少納言は初め何やら整理がつかず混乱します。

本文では居合わせた帝が、勝ちと言われて喜ぶでもない清少納言を定子のお気に入りらしくないと言ったり、定子が雪を棄てさせたりしたのは、ただ賭けで清少納言に勝たせたくなかったからだろう、などという、軽い揶揄で終わっています。

しかし、時が経つにつれて、清少納言は「……勝ちたるなり」の言葉を繰り返し反芻することで、賭けに勝った喜びが湧いてくると同時に、ここまですべてが定子の演出であって、そのように筋道を作った定子の自分に寄せる思いの深さがわかり、大きな感激が心に満ち溢れるようになって、それがこの話を書く発端だったのではないかと思います。

初宮仕えの段も雪山の段も、清少納言の記述した意図は、そうした定子の愛情への礼賛こそが大きいのではないでしょうか。定子は、まさにこのような清少納言の反応をも予測して事を進めたというのが、筆者の考えです。

雪山作りは、『源氏物語』の朝顔の巻にも見え、少し後の順徳院の著した『禁秘抄』という故実書にもありますが、「大略一条院御時以後也、清少納言ガ記ニ其ノ子細在り」とあって、枕草子の話が特記されています。

雪について、ごく限られたことのみの紹介になりましたが、機会を見て別のことも紹介したいものです。冬の寒さは、もう少し続きそうですが、寒く外出もままならないなりに楽しみをさがしたいものですね。

〇参照文献

金葉和歌集/詞花和歌集  錦仁・柏木由夫 校注(明治書院 和歌文学大系)

古今著聞集  西尾光一・小林保治 校注(新潮社 新潮日本古典集成)

枕草子  松尾聰・永井和子 校注・訳(小学館 新編日本古典文学全集)