暦では、もはや冬。秋の終わりから冬の初めにかけて、季節を知らせるものとして時雨があります。冷たい風が吹き、肌寒くなる日々に、寂しさや人恋しさを促すように降る時雨は、古典和歌での重要なモチーフです。今回は平安和歌の世界を中心に、時雨をどのように詠んできたか紹介します。

万葉集の時雨

万葉集では、時雨が30数首で詠まれています。そのうち2/3は、紅葉(万葉集の表記は黄葉。音は「もみち」)を、濡らしたり、色づけたり、そして散らすと詠まれています。例えば、

〈長月の時雨の雨に濡れ通り 春日の山は色付きにけり〉

〈時雨の雨 間(ま)無くな降りそ 紅ににほへる山の散らまく惜しも〉

つまり、秋の終わりの九月に降る時雨で、すっかり濡れて、春日山は紅葉に色付いたよというものと、時雨の雨よ、間断なく降り続けるな、紅に美しく色付いた山の紅葉が散るのが惜しいから、という二首です。「な~そ」は禁止の意で、「にほへる」は、紅葉の美しく照り映える様子を意味します。

紅葉以外では、

〈時雨降る 暁月夜 ひも解かず 恋ふらむ君と 居らましものを〉

などがあります。これは男の歌に答えた女の歌で、時雨が降る夜明け前、くつろいで衣の紐を解くこともせずに私を恋しく思っている貴方と一緒にいられたら良かったのにと思いますという恋歌です。

平安和歌の時雨、[降る]と[古る]

古今集から新古今集までの八代集で、時雨は170首ほどの和歌に詠まれています。その中でも時代が下る第七番目と八番目の千載集と新古今集での歌数を合わせると100首弱となり、中世に近づくに従って、時雨が和歌の題材として好まれるようになっていると知られます。

万葉集以来の時雨が紅葉と結び付く詠み方は受け継がれますが、なお時雨の降り方も、「かき曇り」降るとか、「降りみ降らずみ定めな」く降る、あるいは「山めぐりする」などと細やかになり多彩に表現されます。

以下では、万葉集にはなかった新たな詠み方に注目して、代表的ないくつかの詠み方を紹介します。

まず「時雨が降る」の「降る」が、掛詞として表現されている場合です。例えば、古今集で小野小町の作ですが、

〈今はとてわが身時雨にふりぬれば 言の葉さへに移ろひにけり〉

は、今は二人の仲は終わりだと、我が身が時雨が降るように古びてしまったので、時雨で木の葉の色が変わるように、貴方の言葉までも以前と変わってしまいました、という内容です。ここでは「降り」と「古り」の掛詞になっています。同じ技法のものを下に二首出します。

〈時雨つつふりにし宿の言の葉は かき集むれどとまらざりけり〉

〈もろともに山めぐりする時雨かな ふるに甲斐なき身とは知らずや〉

一首目は拾遺集の歌で、中務(なかつかさ)という女流歌人が作者です。母親が古今集の頃に小野小町に次ぐ有名歌人の伊勢で、亡き母の歌集を当時の村上天皇に献上する時に添えた歌です。時雨が降り続き古びた家の和歌は、時雨で散った木の葉を掻き集めるように、書き集めましたが、たいしたものは残りませんでした、という謙遜の歌です。これに対して、天皇は返事で「昔より名高き宿」と伊勢を讃える歌を詠んでいます。

二首目は、詞花集にある藤原道雅という人物が作者の歌です。京都東山の寺巡りをした時に時雨に遭って詠んだ歌です。私と一緒に山巡りをする時雨だよ、私に降っても、私を人生の時を過ごすのに甲斐のない身だとは知らないのかという内容です。この歌は、「降る」に「経る」の掛詞とも言えます。作者は清少納言が仕えた中関白家の御曹司ですが、その家とは平安時代に最強だった藤原道長に権力を奪われた家柄です。道雅には「荒三位」という呼称も伝わり、粗暴な行いが多かったと伝えられます。家の状況が彼の心を荒ませたのかもしれません。この歌の後半には、そうした雰囲気が反映しているようにも読めます。

平安和歌の時雨、袖と時雨

時雨が降ることと、衣の袖、または袂を共に詠む和歌も少なくありません。

〈神無月時雨に濡るる紅葉葉は ただ侘び人の袂なりけり〉

古今集の撰者の一人、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が母の死にあった時に詠んだ歌です。冬の初めの十月に降る時雨で濡れる紅葉の葉は、ひたすら悲しんでいる人の袂と同じだという内容ですが、この袂は悲しみのあまりに流れた紅涙(血の涙)で染まって、紅葉とは同じだと気づいたというのです。同様の例を二首挙げます。

〈木の葉散る時雨や紛ふ 我が袖に もろき涙の色とみるまで〉

〈眺めつついくたび袖に曇るらむ 時雨に更くる有明の月〉

一首目は、新古今集の歌で、作者は藤原通具という人物です。木の葉が散っている時雨が紛れ込んでいるのだろうか、私の袖に心弱く落ちた悲しい恋による紅涙の色と見るまでに、という内容です。この歌は歌合(うたあわせ)で披露され、藤原定家によって、「袖に紛へる時雨、心ことに妖艶なり」と評されました。

二首目も新古今集で、作者が藤原家隆の歌です。袖の涙に映る美しい月の像を眺めながら、何回時雨で曇るのだろうか、時雨が降るとともに更けてゆく有明の月は、という内容です。これらは時雨と、袖に落ちる涙を重ねた趣向による歌ですが、特に新古今集の歌は繊細さと巧みさが秀でていると感じられます。そして、これらでなお確認すべきことは、前提として時雨には涙を催す悲哀感が本来的に感じられているということです。

平安和歌の時雨、音と時雨

最後に時雨について、音に注目して詠んでいる和歌を紹介します。

〈木の葉散る宿は聞き分くことぞなき 時雨する夜も時雨せぬ夜も〉

この歌は後拾遺集にある源頼実という歌人の作品です。この後拾遺集の頃は和歌を偏愛する風潮が中流貴族の中に生じ、その代表が和歌六人党と呼ばれる人々ですが、頼実はそのメンバーの一人です。歌学書の「袋草紙」や歴史物語の「今鏡」には、作者が住吉明神に命と引き替えに願って得たのが、この歌だと書かれています。この歌は、「落葉雨の如し」という唐の白居易の詩句を本に詠まれたもので、間近に落葉樹がある家では、木の葉の散る音が時雨が降る音と紛らわしく、暗い夜には時雨が降っている音か、木の葉が散っている音かわからないと詠んでいます。侘しい中で季節の音を楽しんでいる趣もあります。以下に同巧の和歌を二首挙げてみます。

〈音にさへ袂を濡らす時雨かな 真木の板屋の夜半の寝覚めに〉

〈真木の屋に時雨の音の変はるかな 紅葉や深く散り積もるらむ〉

両首ともに「真木の(板)屋」とありますが、真木は杉や檜などの立派な木で、和歌では冬のわび住まいを表すことが多い言葉のようです。一首目は、千載集にある源定信という人物の作品で、真木の板屋で夜更けに目覚めた時に、屋外からの時雨の音だけで、侘しさを感じて落ちた涙で袂を濡らすという内容です。この歌は歌合で読まれ、源俊頼によって、「音を聞くに袂濡ると詠める、いとをかし」と、この歌を魅力ある物と評されています。

二首目は、新古今集にある藤原実房という人の作です。この歌は、真木の屋の外に積もった木の葉の深さの差で、落ちる時雨の音に変化があると気づいたことに注目した歌です。これらは、どれも深閑とした夜更け、室外の時雨に耳を澄まし、寂しさや侘しさを感じつつも情趣をじっくりと味わっていると感じられます。

和歌での時雨は平安時代も末になるに従って多く詠まれますが、この後の中世で主流になる“わび”“さび”の文化を代表する一つにもなり、連歌の宗祇、俳諧の芭蕉へと受け継がれ、なお変化発展してゆくもので、今回はその始発期を確認したことになります。

灰色の空と冷え冷えとした外気に身をすくめる冬の到来に、昔の人も侘しさや寂しさを感じていましたが、そのようなマイナスの感情をも含めて大きく肯定していたようにも思います。冬は、人の心の大きさ強さを学ぶ季節かもしれません。

参照文献

歌ことば歌枕大辞典 久保田淳・馬場あき子 編 (角川書店)