旧暦十一月中に冬至は必ず訪れ(王朝時代には十一月朔日に冬至があたると、『朔旦冬至』と呼び、縁起のよいものとして祝われました)、したがって十一月は十二支を月にあてはめた十二月建では筆頭の子月となります。新暦(グレゴリオ暦)に生きる私たちには11月は立冬を迎えるものの、まだまだ秋の行楽シーズンにあたりますが、旧暦時代はもっとも太陽の光が遠のき、夜が長くなる冬の底の季節であるとともに、再び太陽が北半球へと戻るサイクルに入る始まりの月でもあったのです。古代中国の王朝・周(B.C.1046年頃~B.C.256年)では、建子月=十一月を正月としていました(建子月をはじまりの月とする暦を周正といいます)。その特徴をもとに、「霜月」について考えてみましょう。

川「カミ」から流れてきた水は、川「シモ」へと流れ着く
川「カミ」から流れてきた水は、川「シモ」へと流れ着く

十一月の異称の数々は、冬至を反映している

旧暦十一月には霜月のほかにもさまざまな異名があり、「竜潜月」「露隠(つごもり)月」「神帰月」「日凍」「天泉」など印象的なものが多く見られると同時に、「陽復」「新陽」「天正月(てんしょうがつ)」「一陽来復」など、冬至に関わる名称も見られます。

「霜月」の意味については、和風月名の中でも「長月」と並んで異論諸説がもっとも少なく、「霜が多く降りる月だから」という説が定着している感があります。『古今要覧稿(ここんようらんこう) 』(屋代弘賢 1821~1842年にかけて成立)では『和訓栞』を引き、

此月霜降故月の名とせるは、四月を卯月といふも、卯の花盛にひらくる故、卯月といふがごとし

と、もっぱらその季節の自然現象の代表的なものをそのまま名前にしたのですよ、と解説しています。ですが、卯月については、卯の花(ウツギ)の名は卯月に咲く花だから、という堂々巡りの語源説があり、これでは何ひとつ説明できていない、と以前のコラムに書きましたが、霜についてはさすがに「霜月に盛んに起きる現象だからシモという」という説はないものの、霜をなぜ「しも」というのかについてはさまざまな解釈はされていますがはっきりしていません。

「しも」といえば、「下」の文字を当てられ、同じ文字の異訓「した」が「うえ」とセットになるのに対して、「しも」は「かみ」とセットになります。舞台の上手(かみて)と下手(しもて)、宴席の上座と下座、風上(かざかみ)と風下(かざしも)、川上と川下、現在の群馬県・栃木県にあたる古い国名である上毛野国(かみつけのくに)と下毛野国(しもつけのくに)、現在の千葉県にあたる上総(かみつふさ)と下総(しもふさ)、施政者である「お上」と一般市民の「下々」など。

霜(しも)月の直前が神(かみ)無月ですから、「カミ(上)とシモ(下)」の並びが偶然なのか関連があるのか気になるところです。

冬至の頃、北斗七星の柄杓の柄にあたる「斗柄(とへい)」は垂直に建ち(建子)ます
冬至の頃、北斗七星の柄杓の柄にあたる「斗柄(とへい)」は垂直に建ち(建子)ます

凍りつき静まりかえる世界。そして地平の彼方で再び光が生じる

「し」には、古くは息をあらわす意味があり、他にも「知る」「死」「四(し)」などの漢語由来の意味もあります。「しも」の「し」はそれらと語源が異なり、「尻(しり)」や「後ろ(うしろ)」「下(した)」また母音が転じた「背(せ)」などの言葉と同様、末端末尾にあたる部分や方向を意味する音から来ています。川下の果てにある河口、さらにその先の海の沖に浮かぶ陸地「島(しま)」も同源の言葉です。

この「し」は言語の伝播をたどっていくと、たとえば英語のsit(座る)とも関連しており、連続する事象や物体が下方に「沈み」こむ様子をあらわす言葉でした。これに「根本(ねもと)」や「手元」「足下」「火の元」などの「もと」が合成し、「し+もと」で「しも」となったと考えられます。

「うえ」と「した」の組み合わせは能力や価値の優劣、単純に重なったものの上下の順番や順位をあらわしますが、「かみ」と「しも」は優劣の差をあらわしておらず、基本同等の価値を持ちます。なぜならどちらにも物事事象の根源というニュアンスがあり、中間地点である人間社会をはさんで円環をなして往還しているのです。東から上った太陽が西に沈んでまた再び東から上るように。

旧暦五月「皐月(さつき)」の考察で、皐月の「さ」とは古語で言えば「さばえる」、つまり「さわがしい」「ざわめく」「さざめく」などの意味から来ているのであろう、という説を提示しました。五月の対極にあたる半年後の十一月の「しも」には、「沈(しず)む」「沁みる」「静(しず)か」「凍(しじ)む」「静寂(しじま)」「締(し)まる」などの意味が込められているのではないでしょうか。生命活動に活気を与えてきた「カミ」が十月に山奥に隠れ(神無月)、自然のエレメントは活気を失い地や水に「しず」み、「滲み(しみ)」こんで凍てつきます。こうした時期を「しも月」と呼び、また「霜」という言葉をうんだのかもしれません。

太陽は冬至に一年の旅路を終え、はるか水平線のかなたに遠ざかります。そして、その日を境に南回帰線から北に向かってまた戻ってくるのです。十一月の異称には「辜」という月名もあり、これは「罪・咎」「背く」「はりつけ」などの意味です。日本神話の国生み・神生み神話で、イザナギ・イザナミが最初に生んだ子「蛭子(ひるこ)」は理由は不明ですが不吉だとして二神はこの子を葦舟に乗せて流してしまいます。「辜」の意味は、この「太陽の御子」であったともされる蛭子にかぶります。そして川下から大海原へと吸い込まれ、消え去った蛭子は、後世、福の神「恵比寿」となって海のかなたから戻ってくるのです。十一月は終焉とはじまりの月。自然界の新たなサイクルが、ひっそりとはじまるのです。

陽の光が遠のき、天地の交わりが途絶え、地上は凍りつきます
陽の光が遠のき、天地の交わりが途絶え、地上は凍りつきます

晩秋の紅葉狩りで出くわしてもあわてないで。スズメバチの意外な側面とは

さて11月に入ると、いよいよ全国の多くの地域の平地や低山で順次本格的な紅葉のシーズンとなります。紅葉狩りにお出かけになる機会もあることでしょう。野山や自然公園ではまだまだ多くの昆虫たちを見かけます。そうした中には多くの人が恐れているスズメバチ(Vespinae)の仲間を見かけることがあるかと思います。特に、世界最大の蜂であるオオスズメバチ(Vespa mandarinia japonica)に出くわすと、成人男性でもひるんでしまうもの。

近年ではテレビで繰り返しスズメバチの巣の駆除活動が特集され、今の日本人はスズメバチに対して過剰に恐怖心を抱いているかもしれません。確かに、スズメバチによる人の咬害死亡例は毒蛇よりも多く、危険な生物であることは間違いないのですが、スズメバチが攻撃的になり、人を刺す時期というのは夏から秋の前半、10月中旬ごろまで。この時期幼虫が次々に羽化して働き蜂になると同時に、次世代の女王バチと王バチが生まれる繁殖期にあたり、餌を確保するためと巣を守るために働き蜂は殊に凶暴になるのです。

でも、その時期が過ぎると多くの働き蜂は寿命を終え、攻撃性は影を潜めます。11月ごろ羽化した女王バチとオスバチは単独でさまよい出て、パートナーを探すようになります。彼らは人間に危害を加える気はさらさらありません。晩秋に咲く小さな集合花の蜜を舐め、交尾を達成するとオスバチは静かに横たわって命を終え、女王バチは春になるまで過ごす場所を探して冬眠に入ります。オスバチにはそもそも毒針すらないので、人間に危害を加えることはありません。

スズメバチというと、他の昆虫を襲って食べる獰猛な肉食昆虫と思われがちですが、彼らが獲物を狩るのは幼虫に与えるためで、成虫の主食は幼虫が蜜腺から出す甘い液体で、それ以外には花の蜜や樹液、きのこなどを食べるのみの草食性の生き物なのです。スズメバチの成虫同士は吸った蜜や樹液を仲間に口移しで分け与えるシェア行動をおこなう仲間思いのかわいらしい一面も。

また、人間にとってもスズメバチは、作物の葉を食い荒らすコガネムシの類やスズメガの幼虫などをせっせと捕獲してくれる益虫でもあるのです。オオスズメバチは、身体は小さいものの人間への攻撃性は随一で、刺傷被害がもっとも多い危険なキイロスズメバチ(Vespa simillima xanthoptera)のコロニーを狩り、全滅させます。

住宅地や都市部にスズメバチが進出して巣を構えることが多くなったのも、それだけ彼らの住処である森林を人間が減少させ圧迫しているからです。紅葉狩りの折に彼らに出会っても、パニックにならず、静かに見守ってあげてください。

ヤブカラシの花に吸蜜に訪れたスズメバチ。危険なイメージですが益虫なのです
ヤブカラシの花に吸蜜に訪れたスズメバチ。危険なイメージですが益虫なのです

参考・参照

日本の昆虫 旺文社

古今要覧稿

 冬至を境に太陽はよみがえり、再び南から近づいてきます
冬至を境に太陽はよみがえり、再び南から近づいてきます