梅雨の雨が途切れた夕べの楽しみとして、蛍狩りは最適でした。近代文学なら、谷崎潤一郎の「細雪」の一場面や宮本輝の「螢川」があります。闇の中を音もなく、いくつもの小さな黄色い光が浮遊する幻想的な情景は、時代を越えて人々を魅了します。今回は、平安文学の蛍、そして和歌で詠まれた蛍を紹介します。

伊勢物語の蛍と中国古典

まず、伊勢物語の中から蛍が扱われている二カ所を採り上げてみます。

最初は三十九段です。簡単に内容を追うと、西院の帝(淳和天皇)の皇女の葬儀を、ある男が目立たないように、女の乗る牛車で見物に行ったところ、色好みで名高い源至(みなもとのいたる)という人が、女の車と見て蛍を捕って入れたが、乗っていた男が、照らされないようにしようとする内容の和歌を詠み、至も返しの歌を詠むといった内容です。

つまり蛍を明かり代わりとするものですが、これは、中国の歴史書「晋書」の「車胤伝」に拠るとされます。その話の要点を紹介すると、古代中国の晋にいた車胤(しゃいん)は、貧しくて明かりにする油が買えず、夏には数十匹の蛍を集めて練り絹の袋に入れ、その光で夜も読書をしたという話です。かつて卒業式で定番だった唱歌“蛍の光”で歌った、いわゆる「蛍雪の功」の前半です。ただ、この話の主眼は車胤が努力家だった点ですが、三十九段では、蛍を明かりとしたことだけが注目されています。

伊勢物語のもう一つの話は四十五段です。ある男に一人の娘が思いを寄せますが、病で亡くなる直前に男への思いを親に打ち明けます。親がそれを男に話し、すぐに男も駆けつけますが間に合わず、喪に服す夏の末の夜更けごろ、飛ぶ蛍を見て男が歌を詠みます。

〈ゆく蛍雲の上まで去(い)ぬべくは 秋風吹くと雁に告げこせ〉

蛍は夏の虫、雁は秋に渡って来る鳥で、蛍が雲の上まで飛び去るなら、秋風が吹くと雁に告げてくれ、といった内容です。ここでの蛍については典拠を含めて諸説ありますが、筆者は亡き娘の魂、または化身とする説に拠りたいと思います。この歌は、季節の交代を告げる役を蛍に託している内容ですが、間接的に男から女への別れの歌とみなすべきなのだと思います。

ここでの蛍については、白居易による「長恨歌」の一節が関わっていると考えます。長恨歌は、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋が全体の内容で、源氏物語の始発にも大きな影響を与えたとされます。その中の楊貴妃の死後に玄宗が悲しんでいる場面で、和漢朗詠集にも入れられた、

〈夕殿に蛍飛んで思ひ悄然たり 秋燈を挑(かか)げ尽くしていまだ眠ること能(あた)はず〉

という句の前半で、夜の御殿に飛ぶ蛍を見て、亡き楊貴妃を偲んで深く憂いに沈む、という箇所が四十五段での蛍に関わると思うのです。

そのように思う根拠は、伊勢物語より少し後ですが、平安時代中頃の藤原高遠という歌人の私家集にある、この「夕殿蛍飛思悄然」を歌題とする次の和歌が参考になります。

〈思ひあまり恋しき君が魂と かける蛍をよそへてぞ見る〉

筆者なりの解釈を示すと、玄宗皇帝が亡き楊貴妃を深く思うあまり、飛ぶ蛍を恋しい彼女の魂なのだと、重ねて見たのだという内容と思います。そして、この和歌と同じような、蛍を魂と重ねて見る理解は、なお遡って行われていたのではないか、それが「ゆく蛍……」の歌にも反映されているのだろうと考えるのです。

源氏物語の蛍

源氏物語で蛍が話題にされている箇所は10例ほどあります。その中にも拠り所を伊勢物語と同じ中国の古典にするものがあります。その一つに少女の巻の次の場面があります。

〈……かゝる高き家に生まれ給ひて、世界の栄花にのみたはぶれ給ふべき御身をもちて、窓の蛍を睦び、枝の雪を馴らしたまふ志のすぐれたるよしを、よろづのことによそへなづらひて心々に作り集めたる……〉

これは、光源氏の息子夕霧が大学に入学する準備を物語る中で、光源氏という申し分ない家に生まれながら、学問に励む夕霧を学者達が漢詩に作り讃えたことを述べる部分です。まさに本来の「蛍雪の功」の内容意図そのままの引用です。

次は蛍の巻で、巻名のもとになった場面です。源氏が我が娘のようにしている玉蔓(たまかずら)を彼女目当てで訪れる貴公子に蛍の光で見せようとする場面です。

〈……御几帳(きちょう)の帷子(かたびら)を一重うちかけたまふに合はせて、さと光るもの、紙燭をさし出でたるかと、あきれたり。蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光を包み隠したまへりけるを、……〉

几帳という、室内の仕切りにする移動可能なカーテンの布を、支えの横木に掛けた時に光る物があって、灯火を差し出したのかと玉蔓は驚くが、それは蛍をたくさん薄い布に包んでおいて、光を隠しておいたものだったというのです。これも「蛍雪の功」を本とする場面です。夕霧の巻の生真面目な若者の夕霧についてと、中年の父親の源氏とで、同じ蛍を用いながら対照的に描かれています。

三番目は、幻の巻です。この巻は、源氏が最愛の妻・紫の上を亡くした悲しみの中で過ごす一年間の日々を描いています。その夏の一日、源氏は昼に池の蓮の花を見、夕暮れに蜩の声を聞き、撫子の夕映えを見ても慰められない思いを確認した後、

〈蛍のいと多う飛びかふも、「夕殿に蛍飛んで」と、例の、古言もかかる筋にのみ口馴れたまへり。〉

と、飛び交う蛍に長恨歌の一節を思い出します。まさに玄宗皇帝が亡き楊貴妃の魂を蛍に見るように、源氏も蛍に紫の上の魂を見て、悲しみを更に深めているのだろうと思います。

中国の有名な古典二つと結びつく蛍の例を伊勢物語と源氏物語で見てきました。そうした古典は他にもありますが、特に今見た二つは重要と思われて採り上げてみました。

蛍を詠む和歌

四季の変化を目にして、日本の人々は昔から折々に楽しんできましたが、目にし耳にする景物は、期間の短い春秋が豊かで、長くて寒い冬と暑い夏は貧弱です。そうした中で、蛍は昔から夏に欠かせない風物だったのでしょう。

以下では、八代集の和歌を中心に、蛍がどのように詠まれたかを見てゆきます。

〈明けたてば蝉のをりはへ泣き暮らし 夜は蛍の燃えこそわたれ〉

これは、古今集の恋歌です。繰り返される「の」は「のように」で、恋する人の昼と夜を蝉と蛍に喩えて詠んだものです。つまり、日中は蝉のように日暮れまで泣き、夜は蛍のように恋の思いで燃えています、という恋する人の気持ちを詠んでいます。

ここでは、蛍の光は火が燃えて光っていると見なされています。蛍は虫の仲間ですが、鳴き声は立てず、光ることが注目されて、他の虫にない情趣が詠まれます。

〈音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ 鳴く虫よりもあはれなりけれ〉

この一首は、後拾遺集の夏の歌ですが、「思ひ」の「ひ」を「火」の掛詞として、「思いの火」で燃えているのが蛍だと詠み、上の歌と合わせて蛍は燃えるものということが一つの定型だとわかります。そして、そのために他の声を出して鳴く虫よりも「あはれ」が強いとされています。虫の中でひたすら声を頼りに訴えるものより、無言で燃えて光る方が内に秘めた思いが深く重いと評した内容の歌です。

〈鳴く声も聞こえぬものの悲しきは 忍びに燃ゆる蛍なりけり〉

これは、歌合で初めての蛍題が出された、寛和二年(986)催行の花山天皇による内裏歌合での出詠歌です。この歌も蛍と他の虫との違いを前提にして、声がなく燃えて光ることに、忍んでいる深い思いを感じ取った一首です。

和泉式部の蛍の和歌

多くの蛍を詠む歌の中でも注目されるのが、後拾遺集にある和泉式部の一首です。詠まれた事情は、詞書で、「男に忘られけて侍りけるころ、貴船に詣りて、みたらし川に蛍の飛び侍りけるを見て詠める」とあって、失恋による傷心の身で、京都市左京区鞍馬貴船町にある貴船川の辺にある貴船神社に詣でた時、近くの川を飛び交う蛍を見ての一首とわかります。

〈物思へば沢の蛍も我が身より あくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る〉

失った恋への諦めも整理もつかずに、心を悩ませたまま訪れた神社の前の沢には、水の上を幾筋もの蛍の光がゆらぎながら無音の舞を舞っていて、それはまさに我が身を離れて浮遊する我が魂かと見るというのです。この歌には、

〈奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばかり物な思ひそ〉

という、和泉の激しい心をなだめようとする返歌があり、これは貴船明神によるもので、男の声で和泉には聞こえたとの左注が付いています。

和泉の歌については、源氏物語の葵の巻に見える、葵上(あおいのうえ)に取り憑いた物の怪の言葉、「……物思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」 を引用し、遊離魂からの説明が多くされます。しかし、なお見つめ直して、「物思ひ」のために「魂」が身から抜け出して、それが蛍になって光っているという点に注目したいと思います。「物思ひ」の「ひ」が「火」を掛けて、蛍を燃える火と捉えることは、すでに見た古今集以来の蛍の歌にありました。なお例を挙げれば、後撰集の夏にあって、和漢朗詠集で蛍に部類されている、

〈包めども隠れぬものは夏虫の 身よりあまれる思ひなりけり〉

も、そうしたもののひとつです。ここでは夏虫が蛍のことで、それは「思ひ」の「火」だというのです。こうした蛍の詠み方に対して、和泉の「物思へば……」は、どこに差があるのかというと、蛍を魂だと決めた点です。この蛍を魂と見る発想は、前に掲げた高遠の歌にあるものでした。二首の先後関係は、同時代の人なのではっきりしません。しかし、なおその本には、長恨歌の「夕殿蛍飛……」があって、すでに述べたように、これこそが発想の出発地ではないかと思います。

その意味で、和泉の歌は伊勢物語四十五段の「行く蛍……」と根を同じくすると言えます。ただ、なお和泉が非凡なのは、長恨歌も、その解釈を示した高遠歌や伊勢物語、源氏物語も、蛍を大切ではあるが自分以外の死者の魂と見ているのに、和泉は自分自身の魂を見ているところにあると思います。和泉の和歌には、まさに自身の遊離魂を詠んだ、

〈人はいさ我が魂ははかもなき 宵の夢路にあくがれにけり 和泉式部集続集〉

という歌もあります。和泉は物思う自分自身を客観化して見つめていて、その点にこそ和泉の歌人としての意識の奥深さが認められるといえるでしょう。

最後に和泉式部の和歌へのオマージュと言うべきか、「物思へば……」を本として作られた影響歌を列挙します。

〈涙にも消えぬ思ひの身をつめば 沢の蛍もあらはれにけり 相模集〉

〈是やさはあくがれにける魂(たま)かとて ながめし沢の蛍なるらん 林葉集(俊恵) 題「社頭蛍火」〉

〈あくがるる魂(たま)と見えけむ夏虫の 思ひは今ぞ思ひ知りぬる 嘉応二年(1170)住吉社歌合〉

〈沢水に蛍の影の数ぞ添ふ 我が魂(たましい)や行きて具すらむ 聞書集(西行)〉

〈おぼえぬを誰が魂(たましい)の来たるらむと 思へば軒に蛍飛び交ふ 同〉

近世の俗謡にまで、“鳴く蝉よりも鳴かぬ螢が身を焦がす”とありますが、“ホ、ホ、ホタル来い、……”、“ホタルの宿は、川端柳……”などの歌で、幼い日から親しんだ蛍です。本物をぜひ、今年も見たいですね。

参照文献

王朝びとの四季  西村亨 著(講談社学術文庫)

歌ことば歌枕大辞典   久保田淳・馬場あき子 編(角川書店)

伊勢物語・源氏物語(小学館 新編日本古典文学全集)

和泉式部が蛍の歌を詠んだと言われる、貴船神社の蛍岩周辺
和泉式部が蛍の歌を詠んだと言われる、貴船神社の蛍岩周辺