ご飯のお供のチャンピオン。「辛子明太子」に二つの記念日があるのはなぜでしょう? 〈tenki.jp〉|AERA dot. (アエラドット)

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ご飯のお供のチャンピオン。「辛子明太子」に二つの記念日があるのはなぜでしょう?

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何杯でもいける?ご飯と相性抜群の辛子明太子

何杯でもいける?ご飯と相性抜群の辛子明太子

明太子発祥の地・山口県下関。今でも明太子文化が息づいています

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九州最大の歓楽街・博多中洲の裏路地には今も戦後の香りが

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あぶってもまた一段と美味しい!

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明太子は和食だけではなく今やスパゲッティでも定番メニュー

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近年の「好きなご飯のお供は?」という質問で必ず上位にランクされ、1位を取ることも珍しくない人気の惣菜「辛子明太子(からしめんたいこ)」。辛子明太子といえば博多、博多といえば明太子、とも言われるほど、福岡県博多の代名詞的名産品です。先日1月10日の「明太子の日」は、いわば「博多明太子の日」と言ってもいいもので、中洲の食料品店「ふくや」が昭和24(1949)年のこの日、自主開発した辛子明太子を店頭に初めて並べた日として制定された記念日です。しかしこれとは別に、明太子には12月12日にもう一つの「明太子の日」があります。この二つの記念日には、とあるいわれがありました。


「明太子」の発祥地は、博多ではなく下関だった!

辛子明太子は、スケソウダラ(助惣鱈 ※スケトウダラ/介党鱈とも言い、こちらが正式和名ですが、本稿では市場流通名のスケソウダラで統一します)の腹子(卵巣)を昆布などの調味液と粉末唐辛子に漬け込んだもの。スケソウダラ(Theragra chalcogramma )は、タラ目タラ科スケトウダラ属、北太平洋広域に分布。日本近海では日本海側の山口県以北、太平洋側の千葉県以北に分布する寒流系の魚で、主要な産地は北海道と東北、北陸です。成魚は体長40~80cmほどで1mは越えず、白子や鍋料理でおなじみのマダラ(真鱈 Gadus macrocephalus)と比較すると、やや小型で、体型も細身です。

近代以前は鮮度の劣化がきわめて早いこと、また海底深くに棲むために主要な漁獲対象にならず、獲れても漁師の身内などで処理する程度でしたが、明治時代後期、干物や白子、肝油などで利用価値の高かったマダラが乱獲により漁獲量が減少すると、その不足を補う形でスケソウダラ漁が本格的に操業され、全国に流通し始めます。特に真子(卵巣)は味がよく、加工に適していたために食品としての利用が始まりました。

20世紀初頭、日本は日清・日露戦争の勝利を足がかりに大規模な大陸進出を展開します。日本領土の一部となった朝鮮半島と日本本土との輸送交易船は激増し、山口県下関と朝鮮半島の釜山間に関釜連絡船が就航。さらに釜山~京城間の鉄道も敷設され、東京-下関-釜山-京城交通網の構築によって、朝鮮には多くの日本人が移住しました。そんな移住者の一人に樋口伊都羽(いづは)という人物がいました。伊都羽は明治40(1907)年、朝鮮の郷土食であるスケソウダラの卵巣をキムチ漬けにした「明魚漬」をもとにした「明太子」の製造卸しを手がけ始めます。製造卸問屋「樋口商店」を開業し、釜山を拠点にして、日本本土、中国、台湾にも販路を広げます。日本での販路拠点は関釜連絡船を利用した山口県の下関でした。大正3(1924)年12月12日の山口県の地方紙「関門日日新聞」に「朝鮮明太子(常用)」の商品名として「明太子」の名前が初めて掲載されます。この日を明太子名づけの日として制定されたのが、12月12日の「明太子の日」。

昭和9(1934)年の記録では、日本国内に1500t以上もの「朝鮮明太子」が輸送され、消費されていたといいますから、相当な量であることが分かります。その85%以上の取り扱いは下関でした。昭和14(1939)年頃には国内消費もピークを迎え、朝鮮漁業団体は下関に明太子専用の大倉庫建造を計画・申請するほどの活況を呈しました。

辛子明太子は、下関こそが名実とも国内の本場であり、発祥地だったのです。


敗戦による関釜明太子ルートの壊滅と「博多明太子」の登場

しかし昭和16(1941)年、状況は一変します。日米戦争の開戦で、大陸と日本本土の輸送経路は次第に制約され、明太子事業は急速に先細りとなっていきます。戦争末期には、もはや明太子どころではなく、樋口伊都羽もなすすべがなく、昭和20(1945)年には日本本土への引揚げと同時に明太子事業からは手を引いてしまいました。

戦後、韓国からの引揚者の中に、釜山で生まれ育った川原俊夫氏がいました。川原は入植が始まったばかりの博多中洲に昭和23(1948)年食料品店「ふくや」を構え、商売を始めます。今のような繁華な場所ではなかったため何とか生き残るために試行錯誤するうちに、生まれ育った釜山で食べていた明卵漬(ミンランギョ)、つまりは樋口商店のヒット商品・辛子明太子を自分なりに自作して売り出してみようと考えたと言われます。

「ふくや」創業者・川原俊夫夫人でともに店を支えた千鶴子氏は、ふくや社長時代のインタビューで、「私は釜山のタラコの味が忘れられませんから、あれをとりよせればきっと評判になると思って。主人に手をまわしてもらって韓国から仕入れたのです。ところがそれが全然舌に合いません。私たちがなじんでいた明太子は日本人向けにつくられていたんですね。そんなら自分でつくろうと思いましてね。」(※「明太子」誕生物語りより引用転載)

と述べています。千鶴子氏によれば、この試作明太子が初めて「ふくや」の店頭に並んだのが、昭和24(1949)年の1月10日であり(ただし証言者により諸説あり)、「明太子の日」として記念日となっているのです。韓国伝統の「タラコのキムチ漬け」と、日本人入植者が戦前釜山で食べていた「明太子」が別物であったこと、しかもそれをそうとは知らなかった(韓国にもともとある味だと思い込んでいた)ことなどが分かり、入植地の日本人の生活史としても非常に面白い部分です。

そしてまた、博多の元祖明太子は、戦前に樋口商店を筆頭とした明太子製造卸業者が釜山を中心に製造し、日本で販路を広げた明太子の味をもとにして再現されたものだったことも分かります。戦禍で一度失われたはずの明太子は、博多中洲の「ふくや」で再度命を得て復活した、といえるでしょう。「ふくや」が製法を惜しみなく仲間に教えたこともあり、博多では相次いで明太子製造会社が登場。さらに山陽新幹線の博多への乗り入れ(昭和50(1975)年)により、瞬く間に全国に広がったのです。


メイタイでもなくミョウタイでもなくメンタイ?明太読みの不思議

漢字の音読みには漢音・呉音・唐音があるため、ご存知の通り一つの文字に読み方が何種類もあります。「明」は、漢音が「メイ」、呉音が「ミョウ」、唐音が「ミン」ですが、「メン」とは読みません。にもかかわらず「明太子」は「メイタイコ」でも「ミンタイコ」でもなくメンタイコ。もともとはメイタイコあるいはミンタイコと言っていたのが次第に訛って変化したのかとも考えられますが、それはありえません。というのも、大正11(1922)年には、すでにカタカナで「メンタイ」と記載されている記事があり、明太子が初めから「メンタイコ」という呼称であったことが分かるからです。

そもそも「明太」というのは中国語圏でのスケソウダラの名前「明太鱼(míngtàiyú ミンタイユー)から来ています。ロシア語でも「минтаи(ミンタイ)」、韓国語では「명태(ミョンテ)」で、北東ユーラシア一帯で共有されている呼び名であったことが分かります。

日本の大陸進出にともない、大々的にスケソウダラ、その腹子の資源利用が促進される過程で、樋口伊都羽ら日本の事業者、仲買人、釜山近辺の漁業者らが、新しく売り出す商品にふさわしい新鮮でインパクトのある「メンタイコ」という名前を共同で考え出したのではないでしょうか。

サケの魚卵・イクラも、その変わった名前はロシア語の「красная икра(クラースナヤ イクラ)」(赤い卵)から来ています。日本人はサケの魚卵を膜を取り除かない筋子としてしか消費していませんでしたが、大正時代、サハリン(樺太)でロシア人からサケの魚卵をもんでばらばらの粒(バラ子)にし、塩漬けにする製法が伝わったことにより、今や寿司だね、おかずとして明太子に劣らぬ人気を得ています。

明治~昭和初期にかけての日本の大陸進出は、異文化との出会いによる化学変化、ダイナミズムをもたらし、戦後の日本の食文化に辛子明太子とイクラというスターを生み出したのです。

参照

明太子.jp 客観的資料に基づく明太子の歴史


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