早いもので今日からいよいよ一年最後の月・十二月です。和風月名で言えば十二月は師走(

(しわす)。あわただしい年の瀬(もっとも最近は一年中あわただしい気もしますが)。歳時記等では、師走の意味としてもっとも有名で古い説である「師(僧侶)が各所で読経をあげるために走り回るほど忙しいから師走、というのは後世の当て字で俗説です」と書かれているものを多く見かけます。

この説、決め手に欠けるのは確かですが、本当に根拠がないのでしょうか。「和風月名」全体も含めしばし考察してみたいと思います。

歴史上も学者たちを悩ませてきた「しわす」という言葉

「しわす(しはす)」という言葉自体は、日本の最初の正史『日本書紀(720年)』に既に登場している、と一般的には言われています。たとえば「巻第三神日本磐余彦天皇 神武天皇」の章の

十有二月癸巳朔丙申、皇師遂撃長髄彥

などがそれですが、見ればわかるとおり十二月は「しわす」ではなく「十有二月」となっています。「十有二月」を「しわす」と訓(よ)んでいたかの真偽は実はわかりません。

根拠は室町時代など後世の写本に書き加えられた訓み下し註なのです。『万葉集』にも十二月は「十有二月」という表記で登場しますが、これに今のテキストで「しわす/しはす」とルビがつくのも後世の訓み下し。奈良時代に十有二月が「しわす」と音読されていた確実な証拠はありません。

ただし、少なくとも平安時代には十二月は「しわす(しはす)」とも呼ばれていたようです。平安末期の辞書『色葉字類抄(橘忠兼)』では「臘月(ろうげつ)シハス、十二月同俗云師馳有釈」と、「シハス」ともいうのは「師が馳せる」の意味として俗に解釈されているとしています。

『奥義抄(藤原清輔  1124~1144年頃)』や『名語記(経尊 1268~1275年頃)』など、鎌倉時代頃の文献からも十二月を「シハス」というのは「師馳」との意味であるとされていたことがうかがえます。

「師馳」は江戸時代頃になると「師走」という表記に変化していきます。

別の解釈もあります。『和爾雅(わじが/貝原好古 1694年)』巻二・十二月の項目では、しはすとは「四極」のこととし、「豊後の国に四極山、別名四波津(しはつ)山なる山がある」とし、四極=しはすの根拠としています。実際一年の四季のめぐりをかつては「四時(しじ)」とも言ったので、「四時が果てる(終了する)」=「四・果つ」→しはす、というわけです。『和爾雅』では続けて「此月他事忽忙」であるため「師趨」であるとの説もあると「師走」説も併記しています。

『紫門和語類集(菅泰翁纂 江戸時代後期頃)』では、「成終月(ナシハツルツキ)」がシハスへと転じたものとしています。

どれにも一定の説得力はあるものの決め手に欠け、平安期以降、どの時代を通じても「しわす」という言葉の意味がどうもよくわからず諸説乱立していたことが見えてきます。

シハス=師走説には根拠がないわけではない?

数々ある十二月の異名の中に「涂月」があります。漢文学者の白川静(1910~2006年)は、この涂という文字は「塗る」という意味で、「余」という大きな針(鍬か槍のようなものでしょうか)を道に刺し地下の悪霊を祓う呪術を「途」と言い、中でも川や水路など水上の通路(もしかしたら橋もそうでしょうか)の水底の下に刺すことを特に涂と言った、というのです。

道の厄除けのために針を刺す、などという呪術が本当にあるのでしょうか。まさに旧暦の師走の末頃、新暦で言うと概ね一月の末頃、道を祓う信仰習俗は実際にあります。「辻切り」「道切り」と呼ばれる行事で、村に通じる道の境界の辻々に、藁を綯(な)って作った蛇や注連縄、わらじやリース状の飾りなどを道脇の木につるし渡し、災厄の浸入を封じる民間習俗です。その際、道を横断するように地面に五穀を掘って埋める地域もあるのです。白川静の言う「途」に通じるものがあるように思います。

中国最古の語釈辞典『爾雅(じが)』の釋天の項には、

正月為陬、二月為如、三月為寎、四月為余、五月為皋、六月為且、七月為相、八月為壯、九月為玄、十月為陽、十一月為辜、十二月為涂

と各月の性質を列挙した一文があり、十二月をあらわす涂月という異名はここから来ています。ちなみに如月(きさらぎ)もこの文言から来ていますし、「弥生」の「やよい」という呼び名も、「三月為寎」の寎(病)を「やまい」と訓んだものが変化したものとも考えられます。

「師走」も、なぜ「しはす」という呼称を「師・馳」と解釈しようとしたのか。新年を前にして道や水路に厄除の祈祷祭祀を行う月だから祭祀者が忙しく立ち働く時期である、ととらえると、涂月と師走の関係に一筋の関連性が出てきます。橘忠兼や藤原清輔らが、「師、馳せる」と考えた理由が見えてくるのです。

師走の風物詩、羽子板市
師走の風物詩、羽子板市

本当に旧暦時代のスタンダードだったの?「和風月名」の謎

旧暦時代は暦月を数字ではなく、「昔の人は暦月を睦月如月弥生卯月…と古くから伝わる風情ある名で呼んでいた」と説明される「和風月名」。

ところが、旧暦(太陽太陰暦)時代の暦を見ても、和風月名などは一切記載されていません。もちろん全てを確認したわけではないので、もしかしたら記載されている暦もあるかもしれませんが、少なくとも一般的ではないのです。もちろん、「一月」と書かれていたら「むつき」と訓むなどの符丁自体は存在したのでしょうが、むしろ旧暦時代の暦で一般的だったのは、暦月それぞれに十二支が当てられた十二支月で、必ず暦に記載されていました。北斗七星の柄杓の柄が真北を向く旧暦十一月が基点の子(ね・ねずみ)となる「ねづき/ねのつき/しげつ」。以降十二月=丑月(ちゅうげつ)、正月=寅月(いんげつ)、二月=卯月(ぼうげつ)…と続きます。

そもそも「昔の人は旧暦の月を、和風月名で呼んでいた」と断言するなら、どうしてこうまで暦月には異名が多いのでしょうか。そして「いちがつ、にがつ、さんがつ…」とは本当に呼んでいなかったのでしょうか。松尾芭蕉の句を紐解くと、江戸時代、暦月を数字読みしていたことがわかります。たとえば六月の句。

六月や 峯に雲置くあらし山 松尾芭蕉

この句の読みは「みなづき」ではなく「ろくがつ」です。小林一茶は六月を季題に十三句詠んでいますが、このうち「六月」表記が十二句で、「水無月」表記は一句のみです。月名の数字呼びは、近代に始まった習慣ではなく昔からずっと使用されてきたのがわかります。

「和風月名」はどうして「○○月」で統一されず、「弥生」や「師走」そして表記上では月がつくとはいえ、訓みではつかない「如月」などの呼び名がなぜ混じるのか。本当に和風月名は十二ヶ月セットでの呼び名として成立していたのか。などなど、現代常識化されている和風月名には多くの不明な点があります。

もしかしたら「和風月名」がより一般化されたのは、むしろ新暦以降の近現代になってからなのではないでしょうか? 師走の語源だけにとどまらず、和風月名というものがどのようにして成り立ったものなのか、改めて考えてみるべきことのように思います。

新訂 字統  白川静 平凡社

色葉字類抄

和爾雅 巻之ニ  貝原好古

冬支度の松の木
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年の瀬が近づいています
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