今年も早くも11月を迎えました。11月は和風月名では「霜月」。陽暦の11月と陰暦の霜月は時期が異なり、現在の暦の11月下旬から1月初旬ごろに当たるため、霜の降りる月という名もぴったりです。冴え冴えと輝く晩秋・初冬の月は、さながら霜を降らしているようにも見えますね。
年中行事では、11月は何と言っても江戸時代から続く七五三詣でになるでしょう。木々も徐々に色づきはじめる11月15日前後、地元の氏神や有名どころの神社に詣で、三歳、五歳、七歳の子供の成長を感謝し、厄を祓い、将来の加護を祈願する、江戸時代発祥の行事。この七五三に関わりが深いとされるわらべ歌に「通りゃんせ」があります。子供の七歳のお祝いに天神社に詣でる歌詞があるためです。

わらべ歌は遊び歌。それをふまえていざ「通りゃんせ」の世界へ

「通りゃんせ」は江戸時代後期ごろを起源にもち、ヨーロッパの「ロンドン橋落ちた」などと同じ「関所遊び」で歌われる素朴なわらべ歌で、江戸期には「天神様の細道」と呼ばれていました。全国各地でさまざまなかたちで歌われていたものを、大正期に本居長世が編曲し、歌詞の一部を改変してレコード化(レコード発売当時のクレジットは野口雨情になっています)したものが有名になり、わらべ歌の代表曲のひとつとなりました。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いにお札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも通りゃんせ 通りゃんせ

テキストを字面のみで読み下すと「通りゃんせ(お通りなさい)」と促す門番と、天神参りの子連れの親とのやり取りのように思われ、そのような解釈が一般的です。でもこれは遊び歌なので、全ての台詞が必ず誰かに明確に帰属するものではないのです。それを無理に門番と親のやり取りとして読んでしまうと、以下のような意味が通らない箇所が出てきてしまいます。
・「お通りなさい」と言っておいて、「通しゃせぬ(通せない)」と拒絶する門番の矛盾。
・「ここはどこの細道じゃ」と不案内な道を訊ねながら、「お札を納めにまいります」と、明確な目的をもって通行しようとする親の矛盾。
この矛盾は、冒頭のフレーズ(一行目から三行目までの歌詞)が、鬼役の二人の子供で作るゲートが「天神さまの細道」だと設定説明し、その道を通るように誘導するための「天の声」(ナレーション)だと理解すれば氷解します。この導入部の「天の声」によって、遊び手の子供たちは「天神さまの細道」の物語世界に没入していきます。そうすると、それぞれが登場人物の誰かとなって、問答、アクションがはじまります。子連れの親(遊びではゲートをくぐる子供)の台詞、門番(ゲートを作っている二人の鬼役)の台詞が交互に続きます。
この遊びは、歌の終了と同時に鬼役の子供が上げていた腕をすばやく下に下ろし、ちょうどくぐろうとしている子供を一人捕まえる遊戯です(バリエーションとしては、腕を大きく横に広げて下ろし、数珠繋ぎの子を二人、三人同時に捕まえる場合も)。そして、腕を大きく横に振って捕まえた子をゆさぶり、ペナルティを与えます。この捕まるか捕まらないかのスリルが遊びのキモであり、捕まるリスクがあるにも関わらずくぐりつづけなければならない必然性を生み出す仕掛けなのです。
最後の二行もやはり「天の声」。「こわい」というフレーズで、いよいよ門が閉じる瞬間が迫ってくるスリルを盛り上げます。最後の「こわいながらも通りゃんせ」というフレーズは、それが明確に「天の声」であることを示しています。なぜならもしこれが門番の台詞なら「怖かろうとも通りゃんせ」になるはずだし、親子の心情ならば「怖いながらもまいります」になるはずだからです。この最後のフレーズは大正期に付け加えられたものですが、世界観を的確に射抜いていて、この非合理な歌詞の作者がクレジットどおり野口雨情だとしたら、さすがと言うほかありません。

「通りゃんせ川越・三芳野神社発祥説」を検証!

明治期ごろには歌詞の原形がほぼ出来上がっていて、泉鏡花の「草迷宮」にも登場する「通りゃんせ」。その歌詞には、ちょっと不思議な言い回しがいくつも出てきます。
「りゃんせ」「しゃんせ」などの「やんせ」という語尾は、もともとは近江地方(滋賀県)の方言だとも、薩摩地方(鹿児島県)の言葉だともいわれます。
「細道じゃ」の「じゃ」という語尾は、主に備前地方(岡山県)のものです。お国訛りがちゃんぽんになったようなこの歌詞から、「通りゃんせ」成り立ちの背景が見えてきます。
江戸には全国諸藩の上屋敷(江戸藩邸)があり、各地からもたらされた方言が江戸の山の手言葉として形成されていったという歴史があります。本居長世が参考にしたのも江戸で歌われていた「通りゃんせ」でしたから、ここから大正期にメジャー化した「通りゃんせ」が江戸城下発祥である、と推測できます。
ところが、「通りゃんせ」発祥の地としてもっとも流布されているのは、埼玉県川越市の三芳野神社。三芳野神社には昭和57年に「発祥の地」の記念碑が建てられています。この神社は、現在も川越城の名残である本丸御殿のすぐそばに鎮座していますが、室町期に太田道灌が築城した城が江戸期に拡張されると、三芳野神社は本丸付近の曲輪(くるわ)内、つまり城内の奥座敷に取り込まれました。
三芳野神社発祥説のあらましはこうです。
三芳野神社が城内に取り込まれて参拝できなくなると、川越の町民が参拝できるよう嘆願した。城主は年に一度の大祭のとき(または時間制限を設けての門衛監視の下)に参拝を許し、この後人々は城内の「細道」をたどって参拝できるようになった。ただ、参拝を装ったスパイの侵入を懸念し、参拝者が城から出るときには厳しく取り調べられた。
これが「行きはよいよい 帰りはこわい」という歌詞に反映されているのだということですが、この発祥譚には実は根拠がないようです(地元の川越歴史博物館も根拠のない話と認めています)。
まず、城の中で最も重要な本丸御殿に近接した中枢部に、江戸時代に庶民が参拝のために出入りできるなどと言うことはありえません。そのようなことが川越城で行われていた、という資料も文献もないのです。入城するときには規制がゆるく、去城するときには厳しかった、という説明も、たとえば空港の税関で、チェックインはフリーパスでチェックアウトだけ厳しい、というようなもので、普通には考えにくく、筆者には歌詞にあわせてつじつまをあわせたように思われます。
明暦年間(1655~1658年)に江戸城の二の丸東照宮が川越城の南田郭門外に遷座されます。その際、三芳野神社の天神社の外宮を造営して、外宮の参拝は町民たちに許した、といわれますが、この史実が誰によるものか「城内本丸の三芳野天神社に町民の参拝が特別に許された」という話に改変され、「それならさぞ厳しい監視を受け、怖かっただろう。城内の曲がりくねった細い通路こそ、『天神様の細道』に違いない!」ということになったのではないでしょうか。

「通りゃんせ」の本当の発祥とは…

多くのわらべ歌は、フレーズの面白さや語呂合わせ、当時の流行や風俗が取り入れられ、また主観と客観が大人ほど明確ではない子供たちの感覚が反映されているので、脈絡が意味不明だったり、子供らしい原始的で極端な表現がしばしば見受けられます。
また、現代では考えられないような古の残酷な風習や出来事が下敷きになっているケースもなくはありません。これが、明治期以降に盛んに作られた、教養高い大人による上品で洗練された童謡・唱歌の中に混じると、奇妙さや不気味さが際立って感じられます。それが秘密の裏の意味やオカルト的深読み解釈説の呼び水になってしまったようです。
「通りゃんせ」についても、城の建立に関わる生贄の歌であるとか、幕府の隠し財宝の歌であるとか、「本当は怖い」系の解釈があとを絶ちません。面白くはありますが、これらは客観的な事実・根拠のあるものではなく、心理的な投影でしかありません。
こうしたことをやりすぎると、かえってわらべ歌の存在価値をそこないかねず、深読みされたわらべ歌が、差別である、残酷であるとして、子供たちに教えることを禁止とした事件も過去にありました。子供たちのものであるはずのわらべ歌、「本当の意味は…」と大人の空想を押しつけるのはあまりすべきことではないように思います。
歌詞に登場する「天神さま」とは、言うまでもなく菅原道真(845~903年)のこと。大変な秀才で、書道の達人でもあった菅原道真は、学問・手習いの神様として江戸期の初等教育である寺子屋で盛んに信仰され、寺子屋の子供たちは毎月二十五日の天神講で、道真の姿絵の掛け軸を拝み、道真のように学問に励むことを誓い、その後に余興を楽しんだといわれています。「天神さま」は子供たちのもっとも身近で親しみ深い神様でした。だからこそ、七つになった成長のお祝いと報告は、天神様だったわけです。その時代の習俗や信仰、共同体との厳しくも温かい絆は、わらべ歌を読み解くときちんと織りこまれています。
全国津々浦々に1万2千社もある天神社と、それぞれの地域で無邪気に遊んだ子供たちこそがその発祥である、とするのが正解なのではないでしょうか。

(参考)
童謡・わらべ歌新釈(中)  (若井勲夫 京都産業大学論集)