10月22日は、「平安遷都の日」です。桓武天皇は784年に大和平城京から山背国の長岡京へと遷都し、その10年後に長岡京を廃して再び遷都。延暦13(794)年10月22日に新都・平安京に入りました。以降約400年続く平安時代、その後の武家による三つの幕府時代を通して、明治期に東京に天皇の宮城が移動するまで、平安末期の平清盛による福原京への遷都や、南北朝時代の南都(吉野朝)の成立など、わずかなイレギュラー期間をのぞいて千年以上も日本唯一の都であり続けたのです。即位の礼が行われた令和元年の今日、あらためて古の遷都についてふりかえってみましょう。

京都・平安神宮
京都・平安神宮

桓武天皇、王朝生誕の地・奈良を出奔す

現代の日本の首都であり「都」=「みやこ/宮処」は東京都ですが、首都機能の全面的、あるいは部分的移転、つまり遷都議論があるように、歴史上も遷都は何度も繰り返されてきました。平安京に都が定まるまでの日本は、国家規模が巨大化した現代の感覚では信じられないような短い間隔で遷都が繰り返されていました。平安時代の前は奈良時代ですが、その84年間(710~794年)の間も、いわゆる奈良の都=平城京がずっと都だったわけではありません。
聖武天皇は740年からの5年間に4度の遷都を繰り返していますし、奈良時代最後の10年間は、奈良盆地を出て山背国の長岡京に遷都しています。飛鳥時代(592年頃~710年)には、飛鳥浄御原宮から藤原京へなど、5度遷都が行われています。
ただ、4世紀の古墳時代ごろに豪族の連合・集合により日本国家の基盤となる大和王権が樹立されていった時代から飛鳥・奈良時代まで、「都」はそのほとんどを奈良盆地においていました。
現代の畿内の都市機能の中枢が大阪(かつての難波)であるのに対し、奈良は今の感覚ではどちらかというと内陸で、ローカルな位置にあるイメージですが、かつての難波一帯は低湿地で、海は今より内陸まで食い込み、むしろ奈良盆地は都として交通や防衛に適した地域であったとも言われ、このため長く政治と王権の中心地でした。
桓武帝による平安京への遷都(大きな意味ではその前の長岡京を含めて)は、大和王権がその成立以来慣れ親しんだ奈良というホームと決別した、画期的で革命的な決断であったといえます。なぜ桓武帝は大和の国から、大和から見て山の後ろにある国=山背国(遷都のあと、山背国は山城国に改められました)と、ある意味軽視されていた地方へと移転したのでしょうか。現在でもさまざまな説が唱えられていますが、その大きな側面として、桓武天皇の出自が関わっていました。

奈良・若草山山頂からの眺め
奈良・若草山山頂からの眺め

天智系と天武系の相克から平安京へ…まるで何かに導かれるごとく

時代は飛鳥時代中期の乙巳の変(645年)にまでさかのぼります。蘇我蝦夷・入鹿親子を政権の中枢から退けた政変で、その後中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が政治の実権を掌中にします(近年、乙巳の変の首謀者は中大兄皇子ではなかったとする説も提唱されています)。翌年には改新の詔を発して大化の改新に着手した中大兄皇子ですが、663年、朝鮮半島での同盟国百済の再興のために新羅、唐の連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗の後、近江大津宮(現在の滋賀県大津市)に遷都し、その地で即位します。遷都の理由は、奈良では天智天皇の内政改革に抵抗する豪族の勢力が強かったためとも言われます。
そして672年、天智天皇の崩御後、後継皇位をめぐり古代史最大の内乱「壬申の乱」が勃発します。天智帝の弟(諸説あり、異父兄とも、兄弟ではないともいわれる)の大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の第一皇子の大友皇子、叔父と甥との骨肉の争いは大海人皇子の勝利におわり、大友皇子は自害します。
すると大海人皇子は、近江宮を即座に飛鳥浄御原宮へと遷都してしまいます。都はわずかの間に奈良盆地へと再び戻ったのでした。この後、奈良時代の末期になるまで、都は奈良盆地に、そして皇位は天武帝の系譜で受け継がれ、天智系の血筋は権力の中枢から排除されることになったのでした。しかし、天武系の聖武天皇の後継に男子が育たず、娘である阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると、逆臣の怪僧として夙に名を知られる弓削道鏡が政治権力の中枢に食い込み、一端退位して称徳天皇として重祚(ちょうそ・再度の即位)した後は、道鏡への寵愛と依存関係はより強くなり、道鏡は皇位をもうかがうようになったと伝わります。
宇佐神宮偽神託事件などを通じて道鏡が失脚し、称徳天皇も崩御すると、跡継ぎのなかった称徳帝の後の皇位をめぐり、排除されてきた天智系皇族にチャンスがめぐってきました。天智天皇の孫にあたる白壁皇子が光仁天皇に、その息子の山部王が後をついで桓武天皇となります。曽祖父・天智天皇の意思を継ぐように、桓武帝は天武帝の支配地である奈良盆地を後にし、山背国へと出立したのです。

奈良・平城京跡
奈良・平城京跡

ではなぜ遷都先は山背国だったのか。その地は、古墳時代の昔から日本各地で卓越した技術力で財をなしていた外来氏族・秦氏の本拠地だったからです。
都の建造から土地整備、財務までも担ったのが秦氏。秦氏の菩提寺である蜂岡寺(現在の広隆寺)、太秦がある京都へと、桓武帝はエスコートされていったのでした。秦氏はこの後、大蔵官僚として平安王朝によりそうこととなります。
考えてみれば、道鏡失脚のきっかけとなった偽神託事件も、秦氏の古い本拠で、八幡神社の総本社宇佐神宮が震源です。天武系皇統はまるで秦氏によって仕組まれたように自滅し、取って代わった天智系の桓武天皇は、そうするしかないかのように山背国という秦氏の懐に飛び込んでいった、かのように見えます。

京都・広隆寺の紅葉
京都・広隆寺の紅葉

古代ファンタジーの雄・秦氏。でもその実績はすごかった

秦氏は、東漢氏(やまとのあやうじ)とともに、古代に大陸から渡来してきた代表的な氏族集団のひとつですが、蘇我氏や物部氏、賀茂氏と同様、むしろそれ以上に、オカルト歴史マニアの幻想をかきたててきた氏族です。いわく、秦の始皇帝の子孫であるとか、あるいはさらにそれよりはるかに西方の、太古にパレスチナに存在し、紀元前8世紀ごろアッシリアに滅ぼされた北ユダヤ王国の人民のうち滅亡後行方知れずとなった、いわゆる「失われた十支族」の一部が、何世代もかけて東へと移動し、日本にたどりついたのが秦氏である、などの伝説です。
実際ユダヤ人が世界各地に少数民族として移住し、卓越した技能やアイデア、蓄財に長けて成功しているのはよく知られていて、日本に土木や養蚕、機織、酒造、寺院建築などのさまざまな先進技術を伝えた秦氏は、そうしたユダヤ人像と重なるものがあります。山岳修験者、いわゆる山伏の独特の装束も、秦氏のもたらしたイスラエル神官の装束から来ている、といわれることもあります。イエス・キリストと同じ誕生譚を持つ聖徳太子の側近でありブレーン、そして広隆寺を創建した秦河勝もまた秦氏であり、ユダヤ系との関係を匂わせるものが多いのは確かです。
もちろん想像の域を出ない一つの説でしかありませんが、全国で数がもっとも多い八幡神社は、もともと豊後を本拠としていた秦氏の氏神ですし、二番目に多い稲荷神社の総本社である伏見稲荷も、秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)の伝説による秦氏起源の縁起を持ちます。
秦氏が日本文化の古層に恐るべき影響力・浸透力を持っていることは確かで、その本拠地で磐石の地盤を得たからこそ、京都は千年の都として存続したのかもしれませんね。

山伏の装束
山伏の装束