7月19日は幻化忌。作家、梅崎春生の命日です。この名称は、毎日出版文化賞を受賞した遺作『幻化』にちなんだもの。戦後派文学の代表的な存在ですが、その作品には不思議なほど、現代の私たちにもストレートに響く心情が描かれています。剽軽な素顔も持つ彼の半生を辿りつつ、夏空を待つことにいたしましょう。

坊津の夕日
坊津の夕日

暗号特技兵として終戦を迎える

梅崎春生は、1915(大正4)年2月15日福岡市生まれ。本の第五高等学校を経て1940年(昭和15)、東京帝国大学国文科を卒業。陸軍に召集されて対馬重砲隊に赴きましたが、病気のために即日帰郷となってしまいます。2年後、今度は海軍に召集され暗号特技兵となり、九州各地の通信施設を転々とします。1945(昭和20)年の終戦を桜島で迎えた自らの体験をもとに翌年、『桜島』を発表。一躍、野間宏、椎名麟三とともに第一次戦後派作家と呼ばれるようになります。
その後も、『日の果て』『B島風物誌』などの戦争ものや荒廃した戦後を描く作品で、人間心理の陰影表現を追求。市井の日常を洒脱なユーモアで包んだ『ボロ家の春秋』で、1954(昭和29)年の直木賞を受賞します。しかし深酒による肝硬変のため、梅崎春生は1965(昭和40)年7月19日、50歳で急逝。直前6月に書き上げたばかりの遺作が、『幻化』でした。

梅崎春生が終戦を迎えた桜島
梅崎春生が終戦を迎えた桜島

『幻化』は喪失者へのメッセージ

『幻化』は、精神疾患の中年男が病院を抜け出して、自らの過去の記憶を求めて南九州を彷徨うロードノベルです。戦争中に勤務した鹿児島の坊津や、学生時代を過ごした熊本の様子が描かれますが、特に劇的な出来事が起こるわけでもなく、主人公に画期的な精神的覚醒がもたらされる結末もありません。実際には戦争末期の暗号兵は、出撃する特攻兵の最後の電文を傍受する任務に就いていました。しかし20年前の坊津で何があったのかは、作中では説明されませんでした。
常に「死」の気配と虚無感が漂う梅崎春生の作品は、声高に正義を叫んだり、社会や政治を断罪する姿勢はありません。彼の文学の特徴は、「分身構造」だとよく語られます。『幻化』でも、主人公の分身の如くの相手役への呼びかけで、小説の幕は閉じられます。阿蘇山の火口を舞台に放たれたそのメッセージは、文字通り梅崎春生の遺言となり、穏やかな希望も交えつつ現代の私たちにも届けられているのです。

坊津の風景
坊津の風景

リアルな不安感、軽妙なユーモア

梅崎春生は、不思議な作家です。ドラマチックな仕掛けとは無縁の乾いた文体は、戦中戦後を時代背景としながらも全く古臭くなく、むしろ現代的です。喪失者としてのよるべなさや漠然とした不安を、理屈ではなく感覚で捉える文脈に、昔も今も読者たちは共感を覚えるのでしょう。
戦後文学の結晶と言われる『幻化』だけではなく、ユーモアたっぷりの随筆も一読をお勧めします。飼いとのエピソードなどは、思わず吹き出してしまう面白さ。酒の飲み過ぎで命を縮めたのでしょうが、夫人は、梅崎春生について「物静かで家庭を愛し人を愛した人」と語っています。
そして本人はといえば、身辺雑記「悪酒の時代」でこう記しました。「なぜ酒を飲むか。そこに酒があるからである。ところが当時、つまり戦争中の私の心境は、今の心境と正反対であった。すなわち、なぜ酒を飲むか。そこに酒がなかったからである。」

●参考文献
梅崎春生 (著) 『桜島 日の果て 幻化』(講談社)
梅崎春生 (著) 『悪酒の時代 猫のことなど 梅崎春生随筆集』(講談社)
『梅崎春生〜作家の見つめた戦中・戦後』(鹿児島近代文学館)

阿蘇山の火口
阿蘇山の火口