5月29日は「5=こん 2=にゃ 9=く」で「こんにゃくの日」。平成元(1989)年、全国こんにゃく協同組合連合会が制定した記念日です。語呂合わせの意味だけではなく、栽培農家にとっては5月は前年の秋に掘り取って貯蔵したコンニャク芋の種芋をふたたび植え付けて育成する、コンニャク栽培にとって大切な季節であるという意味も込められています。世界にはミャンマー、中国の一部地域などわずかにコンニャクを食べている国もありますが、コンニャクが年間を通して普遍的に常食され、豊かな食文化の担い手になっているのは日本のみ。典型的な日本食の食材と言っていいでしょう。

密林のモンスター、ショクダイオオコンニャクとは?

コンニャク(蒟蒻 Amorphophallus rivieri Durieu et Carriere var. konjac Engl.)は、インドシナ半島原産のアモルファルス・コンニャク(Amorphophallus konjac)が栽培品種化された、サトイモ科コンニャク属に属する多年草。コンニャク属は主にユーラシア大陸の熱帯地域を中心に世界で約100種ほどが知られています。コンニャク属の地上可視部は独特で、たった一枚の葉で出来ており、暖かくなって来る春、一本の葉柄が塊茎から伸びだします。がっしりした茎をともなって伸びてきた葉っぱは傘のように三裂して横に広がり、さらに末端が細かく分かれて、いくつも葉がしげるように枝分かれします。太い葉柄にはまだら状の模様があり、これは木に擬態しているものと考えられています。コンニャクの仲間には、世界一の巨大な花として知られるショクダイオオコンニャク(スマトラオオコンニャクAmorphophallus titanum)があります。20年以上もかけて塊茎が重さ数十キロにも育ち、蓄積した全てのエネルギーを注いで最後の年に花序を伸ばし、たった一つの花を咲かせます。上向きに開く花びらにあたる赤紫の仏炎苞の直径は2メートルにも達し、その中心に、3メートルを超える棍棒状の肉茎花序がそそり立ち、まるで怪物のよう。腐敗臭と薬品臭の入り混じった悪臭を放つ花はたった二日ほどで枯れてしまい、地下の塊茎も朽ちますが、塊茎からいくつもの小芋が出来ていて、これらがその後育って生きます。
食用コンニャクの花もショクダイオオコンニャクには及ばないものの相当な大きさで、直立した花序は1メートルにもなります。なかなかグロテスクな形状で、マムシ草から肉茎が突き出たような姿です。また、日本にはコンニャクの在来種も存在します。ヤマコンニャク(Amorphophalus hirtus var.kiusianus)がそれで、現在、南西諸島と鹿児島県、長崎県にしか自生しません(20世紀が終わる頃までは高知県にも自生していたようです)。しかし自生種が食用にされた記録はなく、食用のコンニャクは縄文時代に稲作とともに南島から渡ってきたとも、中国から仏教伝来とともに伝来したとも言われています。けれども長く栽培は盛んではなく、貴族の間食や病気(糖尿病や消化器疾病など)の生薬として、腫れ物や傷の手当用の膏薬として使われる程度でした。コンニャクが、ゆでたり焼いたりすれば食べられるものではなく、栽培にも時間と手間がかかったためです。室町時代ごろから、主に僧院の間食「糟鶏」として、味噌煮が食べられるようになり、徐々に普及はしていきますが限定的で、現代のように一般庶民も普通に食べるようになったのは江戸時代からでした。

ショクダイオオコンニャク
ショクダイオオコンニャク

中島藤衛門、怪優コンニャクを手なづける

コンニャクにはシュウ酸やフェノール誘導体などのエグみが多く含まれ、こののエグみを取り除かなければ、食べるとその刺激で食道を傷つけてしまいます。エグみを中和し、取り除くために使われるのが灰汁で、かつては草や木を燃やした灰を用いましたが、近年の製法では炭酸や消石灰を使います。茹でて潰した生芋、またはコンニャク芋から精製した精粉に灰汁、炭酸を混入することでエグみ成分が取り除かれ、コンニャクの主成分であるグルコマンナン(glucomannan)が固まってあのプルプルのコンニャクへと変貌するのです。
時代を通じて食べられ続けていたコンニャクですが、栽培に三年かかり、かつ寒さに弱く冬には一端掘り出さねばならず、さらに掘り出すと日持ちもせず傷んでしまうなど、農産物として致命的な欠点、難点がありました。このため他の作物が育てられない痩せ地や、桑の木の下などの空きスペースで育てるなどにとどまっていて、長く特別な日の料理としてしか出されないほど流通の少ないものだったのです。
このコンニャク生産に革命が起きたのは江戸時代中期。常陸諸沢村(現在の茨城県久慈郡)の中島藤衛門が、生のこんにゃく芋を厚さ1センチほどにスライスし、これを串にさして乾燥させる方法を考えつきます。
この乾燥させたコンニャクチップスを「荒粉」と言い、さらにこれを水車を使い細かい粉末「粉蒟蒻」にすることで、長期保存と飛躍的な軽量化に成功しました。シンプルながら、マンナンを変質させず、食感を生み出す糊力のある粉に仕上げるのは困難で、だからこそ藤衛門の発明は画期的なものでした。藤衛門は、自身で精粉と石灰を携えて国内各地を巡り、製法を伝授しながら売り広めました。この努力によって北は松前から西は近畿地方まで、広い販路を獲得します。細々と続いてきたコンニャクの食文化は一気に活性化したのです。水戸藩内から福島県にかけてはコンニャクの商いで財を成す豪商・豪農も多く生まれ、水戸藩の財政も潤いました。そしてこの事が、やがて時代を動かす動乱の起爆剤へとつながっていくのです。

桜田門外の変に風船爆弾…コンニャク、時代を怪しく揺るがす

幕末の動乱の中、水戸学で培われた水戸藩士は、過激な尊皇攘夷派として日米修好通商条約で弱腰な態度を示す幕府を批判し、大老井伊直弼により大量処罰されます(安政の大獄)。これに激昂した水戸藩士たちは安政7(1860)年、大老井伊直弼を襲撃、暗殺します。有名な「桜田門外の変」ですが、その際、彼らの活動資金は水戸藩のこんにゃく豪商たちから拠出された、といわれています。これを口火に、幕末の倒幕運動は一気に勢いを増すこととなりました。
コンニャクが再び時代の動乱の中で登場するのは太平洋戦争(1941~1945)。その末期、兵器製造の資材に困窮した日本は、アメリカ本土を直接攻撃するための苦肉の兵器「気球爆弾(風船爆弾)」を開発しました。楮(こうぞ)で作った強靭な秩父地方の小川和紙を、こんにゃくで作った糊で幾層も張り合わせ、密閉性の極めて高い直径約10mの気球を作り上げ、これに4発程度の焼夷弾を積んで、太平洋を偏西風に載せ、福島、茨城、千葉の太平洋に面した海岸からアメリカまで飛ばしました。バカらしい兵器と思いきや、太平洋や大西洋などの大洋を越えて到達する人類初の兵器だったとも言われ、放流した9000個の風船のうち、何と1000個もがアメリカ各地に到達し、300以上が炸裂したという、恐るべきアナログ兵器でした。
実はアメリカは、この対応しようのない無差別攻撃爆弾を非常におそれ、被害が出ても徹底的なかん口令を敷いて、日本側に知られないようにしました。このため、作戦失敗と落胆した日本軍は、風船爆弾の開発放流を中断しました。いずれにしても、コンニャクの粘着性が大陸を横断するほどの強力なものだということですね。
※参照
「風船爆弾」秘話 (櫻井誠子 光人社)
8月15日までの登戸研究所風船爆弾作戦の遂行と終結 /塚本百合子
第2次大戦中に日本軍が使用した風船爆弾

桜田門
桜田門

コンニャク王国・群馬の誕生

この風船爆弾作戦は、国内でのこんにゃく生産にも大きな変化をもたらしました。水戸藩以来のこんにゃく生産の中心地だった茨城の農家の多くは、戦争に突入するとカロリーの低いコンニャク栽培を、高カロリーのサツマイモ生産に切り替えました。そして低下したコンニャク流通が、風船爆弾への転用で途絶えてしまいます。以降、主産地である茨城北部ではコンニャク生産がサツマイモへと転換されてしまいました。そして戦後、それを補うように栽培が盛んになったのが群馬県や栃木県。平成29年度のこんにゃく生産量は全国で64,700tですが、このうち群馬県が59,700tと9割を超え(2位は栃木県で約1800t)、群馬県は現代ではほぼ寡占状態の大こんにゃく王国。「こんにゃくパーク」というテーマパークまで存在します。
群馬県の、夏には高温になることの多い内陸性の気候と、山地が多く水はけがよい土壌が、熱帯性のコンニャクにはあっていたようです。戦後には平地栽培の技術も確立し、生産は昭和40~50年ごろにピークを迎えますが、日本人の食生活の変化で消費が低下、今ではピーク時の1/3ほどに落ち込んでいます。が、近年海外では低カロリー、ローカーボン食材として注目を集め始め、特に欧米で人気が高まっています。日本にコンニャク食を伝えたはずの中国でも、一般的にはほとんど食べられることがなく(定番の中華料理にも思いつきませんよね)、日本旅行で食べるコンニャクをものめずらしく感じるんだとか。
独特のにおいがわずかにありますが、味はほぼ無味で極めて淡白、脂分もなくカロリーもほぼないため、弾力のある食感を楽しむことと、豊富な食物繊維とグルコマンナンの膨張作用による整腸効果のために食べられるものですが、和食のバリエーションは思いのほかに多く、すき焼きや焼きそばの具としても、モツ煮込みやけんちん汁、おでんにも欠かせない名バイプレイヤーですし、蕎麦屋の味噌田楽や刺身コンニャク、主菜としてピリ辛の炒め物、さらにはこんにゃくステーキなど、使い道は様々。滋賀県近江地方の赤蒟蒻や山形県の玉蒟蒻など、地方色豊かな変り種も存在します。
一昔前は外国人にとって、和食の中でもっとも奇妙に感じる食品は、刺身でも納豆でもなく、コンニャクでした。その食感がスライムのようだとか、プラスチックみたいだとか気味悪がられ、カルチャーショックを受ける食べ物だったようです。そんな時代から、もはやヘルシーな食材として世界的に注目されているコンニャク。ハイカーボン、ハイカロリーの食べ物を求め続けてきた人類が、その対極の食べ物を求めるのも先進国の飽食の果てという気がしないでもありませんが、コンニャクの美味しさや食材としての豊かな可能性はまぎれもない事実です。
食文化の故郷としての日本でも、かつてのように盛んに食べられる日がまた来るかもしれませんね。
参考・参照
植物の世界(朝日新聞社)
コンニャクの歴史
こんにゃくパーク

群馬県昭和村のこんにゃく畑
群馬県昭和村のこんにゃく畑