入学式に入社式、引っ越し……。新年度に向けて門出や出発準備のシーズンですね。新しいスタートに向け、冬物などをまとめてクリーニングに出したい季節。
さて、激減しているといわれるクリーニング店の中で、業界最大手、創業100年を超える老舗クリーニング会社、白洋舎。創業者、五十嵐健治の生い立ちは過酷でした。絶望の果てに自ら死を選ぼうとまでしました。
今日は健治が日本橋に「白洋舎」の看板を掲げ開業した日。五十嵐健治と白洋舎の足跡をたどってみましょう。

“洗濯屋近所の垢(あか)で飯を食い”

当時、詠(よ)まれた川柳です。垢で飯を食うとは、辛辣(しんらつ)ですね。
明治の頃、洗濯業は人からあまり好まれることのない仕事でした。どうして健治は洗濯屋を選ぶことになったのでしょう?
五十嵐健治は明治10(1877)年、新潟に生まれました。幼くして両親が離婚、5歳で五十嵐家の養子となりますが、小間物屋、呉服屋、酒屋、旅館……など、様々な場所で奉公人として働きました。
16歳 で一攫千金を夢見て各地を放浪するようになり、やがて日清戦争と北海道での過酷な生活を経験します。
監獄部屋での容赦ない労働に耐えかねた健治は必死の思いで脱走し、70キロもの道のりを経て小樽にたどり着きます。健治は絶望のあまり、小樽の海で人生を終えようとまで考えたそうです。
そんな時、あるクリスチャン商人と出会い、健治の人生は大きく変えられます。先のない、いわば人生のどん底で聖書の教えを受け入れ、クリスチャンとして歩み始めました。
イエス・キリストの福音にふれる前と後とで、健治は別人のように変わりました。
「私は洗礼を受けてから朝起きると、まず神に『今日一日を導いてください』と祈りました。何かあると神に『このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか』と相談しました」と語っています。

「私は洗濯屋をやります!」

小樽から函館に移った健治は、洗濯屋の水くみの仕事につくことになりやがて、この経験が「白洋舎」の創業へとつながります。
東京に戻った健治に様々な出会いがあり、健治は真面目で勉強熱心なところを買われ、「三井呉服店」(現在の三越)に入社します。10年間働き、妻子にも恵まれた健治に次の転機が訪れました。
所属部署が廃止され、世話になった上司が退職することになり自らも辞職する願いを申し出ます。元々、健治のなかには三越に勤める際、「十年で独立する」という決意がありました。
三越は恵まれた心地よい職場でしたが、十年後の30歳には独立したいと願いました。30歳は健治の信じるイエス・キリストが伝道を始めた年であり、健治は伝道しながら仕事をしたいという願いを持ち続けたのです。
この時、辞職を止めた上司に対し健治は目を輝かせて、「私は洗濯屋をやります!」と、きっぱりと言い切ったそうです。

三越とは深い深いご縁のある白洋舎
三越とは深い深いご縁のある白洋舎

29歳で「白洋舎」を創業

健治が洗濯業を選んだ理由としては、函館の洗濯屋での経験が次の思いと合致したからでした。
・長年お世話になった三越の営業の妨げにならないこと
・三越をお得意様としてできる商売であること
・資本金が多くかからないこと
・嘘や駆け引きなしでできる商売
・人々の利益となり害にならないもの
・日曜日の礼拝、及び伝道の妨げにならないもの
そして明治39(1906)年3月14日、白洋舎を開業します。この日は健治、29歳の誕生日でした。
お得意様は三越、さらに、そのつながりで顧客はどんどん増えていきました。翌、明治40(1907)年には、水を使わないで洗濯するドライクリーングの開発に成功し、日本で初めて導入しました。

今では、あたりまえのドライクリーニングですが……
今では、あたりまえのドライクリーニングですが……

「クリーニングに服を出す」という習慣の消失

日本では、ここ10年でクリーニング店が4割も減ったということです。クリーニングの利用率が減った理由としては、「クリーニングが必要な衣類を着ない」「自分で洗濯するので必要ない」「節約のため」といった回答が多くなっているようです。
高価格帯の服をクリーニングに出して大事に着続けるよりも、ファストファッションなどの安価な服を使い捨てのように着回す人が増えているという現状。──服は「大事に着る」から「使い捨て」の時代へ移行したようです。
そんな中、近年注目されているのが宅配ネットクリーニングサービス。客はネット上で申し込み、クリーニングしたい衣類などを店舗に送ります。(宅配業者が引き取りに訪問)仕上がった衣類は指定した日に自宅に届くというシステム。
また、「クリーニングをして、さらに収納保管までします」とサービスの幅を広げます。お客には、そのぶん部屋を広く有効に使えるというメリットが生まれますね。
白洋舎も宅配サービスや保管サービス、ハウスクーリングなど住まいのクリーニングもおこない、時代に対応しています。
太平洋戦争が起こると健治は64歳で社長の座を譲り、残りの生涯をキリスト教の伝道に費やして、95年の人生を全うしました。
クリーニングの父にふさわしい、見事に洗い上げられたような人生ですね。
参照/白洋舎~クリーニングの父、五十嵐健治の功績、三浦綾子「夕あり朝あり」新潮文庫

「何もかも忘れましたが、キリストさまのことだけは忘れてはおりません」と健治、晩年の言葉
「何もかも忘れましたが、キリストさまのことだけは忘れてはおりません」と健治、晩年の言葉