2月4日は立春。暦の上ではこの日から春となりますが、その前日がご存知節分です。最近は豆まきをおこなう家庭もめっきり少なくなったとはいえ、全国の家庭や寺の行事などで、「鬼」に向かって豆つぶてが投げつけられ、追い立てられます。それにしてもなぜ、あまたある「妖怪」「妖異」の中で、鬼だけがこのような受難を受けねばならないのでしょう。「鬼」というあまりに広範深遠なジャンルを解き明かすのは到底不可能ですが、わずかでもその秘密にせまってみたいと思います。

かつて「鬼の国」だった日本。なぜ鬼を追い払うようになった?

もともと古代の日本は「鬼」の国でした。魏志倭人伝(魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条・三世紀ごろ)には、
名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆
「名を卑弥呼といい、鬼道に事(つか)え能く衆を惑わす」と、「鬼道」により女帝卑弥呼が国を支配していたと描写されています。「鬼道」については、古代道教の妖術であるとか、東アジア地域に広く分布していたシャーマニズムであるとか、古代神道(アニミズム)の儀式であるとかさまざまに言われていて、内容ははっきりしていません。
「鬼」は古くは「しこ」(醜)とも呼ばれ、あの大国主がスサノヲの治める「根の国」に赴いたとき、「葦原醜男」(あしはらのしこお)という名で呼ばれています。この「醜」にはもちろん見た目が見苦しいなどの意味とともに「強い/勇ましい」と言った意味もあり、今で言うと「むさくるしい(武者苦しい)」と言った意味に近いでしょうか。鬼を鎮魂する神事でもある相撲でも、力士が土を踏み固めるしぐさを「しこを踏む」と言いますね。大国主もまた鬼であったのです。
鬼を払う豆まき行事の成り立ちは重層的な意味がありますが、その起源は「追儺(ついな)」別名「鬼やらい」「駆儺 (くだ) 」にあります。「儺」とは、古代中国ではもともと節度のある歩き方、礼儀や規範に合致するあり方を指しましたが、やがて「儺礼」が死者を弔い、送る際のうやうやしい儀式を意味するようになり、いつしか死者(の霊)に祟られないための儀礼、つまり厄や災いを追い払う儀式へと変化したものと考えられています。
「続日本紀」の記載で、「是年、天下疫疾、百姓多死。始作土牛大儺」と、慶雲三年(706年)に「土牛大儺」が始められたことがわかります。「土牛」とは礼記に見られる中国の王朝行事で、土で作った牛を並べて冬の寒気を追い払う儀式。大儺は「代辰子」と呼ばれる童子による厄払いの舞、「桃弓葦箭」という破邪の弓打ち、「撒豆驅鬼」と呼ばれるいわゆる豆まきがおこなわれました。災いをもたらす媒介者もしくは災いそのものの擬人化としての「鬼」を追い払うというていで、侵害してくる悪事・凶事をシャットアウトする行事が節分行事だといえます。
つまり、「鬼」とはもともとは冬の寒気や疫病、あるいはそれによってもたらされる死そのものをさしたようなのです。そしてもしそうならば、古代日本の「鬼道」とは、死/死者とともにある社会であるということになり、大和政権は中国文明を真似ることで、そうした古い日本の文明を捨て去り、鬼とともにではなく鬼を追い払う社会へと変質をとげたということになります。

朝光寺の鬼追踊
朝光寺の鬼追踊

妖怪界の大スター、河童・天狗と鬼を比べてみよう

鬼と並んでメジャーな大妖怪といえば「河童」と「天狗」でしょう。
どちらも半ば神であり半ば妖怪という性質も似ています。神であるという側面から、三者とも祀られる神社が全国に存在します。天狗のばあい修験道と結びつき、愛宕神社や飯縄神社など、分社が多い有力神社、あるいは寺院は数多くあり、天狗信仰の広範さをうかがわせます。河童と鬼は、天狗よりはぐっと少なく、鬼を祀っている神社は青森、福岡、大分、そして埼玉の鬼鎮神社しか知られていませんし、河童神社も全国にさほど多くはありません。
神話や民話、物語にも数多く登場し、多くの場合人にこらしめられる役回りも演じている点でも鬼と同じです。でも、「河童やらい」や「天狗やらい」は存在せず、「河童は外!」「天狗は外!」と豆つぶてをぶつけられて追い立てられることもありませんね。この扱いの違いはどこから来るのでしょうか。不思議ではありませんか?
河童はかつてタタラ場で製鉄に携わっていた製鉄民、あるいはその製鉄業を司る有力者の使役人、とも言われます。湖沼や川で採取される湖沼鉄や砂鉄を採取していた姿が里人に「河童」に見られた、というものです。鬼も大陸からの製鉄民という説もあり、鬼が獄吏として働く地獄の業火やさまざまな責め苦の道具類や行いは、タタラ場の火や製鉄道具類から連想されたものとの説もあります。
また、河童も鬼も、陰陽師や特殊能力者に使役されるところも同じ。兵部大輔島田丸が春日神宮造営の折、大工の内匠頭某という者が九十九体の自動人形を作り春日大社の造営に働かせます。社を作り終えて人形たちを川に捨てると人形は河童になったといわれます。
鬼も、修験道の祖・役小角に仕えた前鬼・後鬼がいますし、そもそも地獄の十王に仕えて亡者たちに責め苦を与えたり地獄の警吏として働くのはおなじみですね。
一つ目の河童や一つ目の鬼が多いのも類似点です。また鬼も河童もよく腕を切り落とされます。河童は菅原道真に腕を切り落とされたほか、各地の民話で腕を切り落とされています。鬼も茨木童子という鬼が渡辺綱に腕を切り落とされるエピソードは有名で、しかも河童も鬼も切り落とされた腕を取り戻しにやってくるところも同じです。河童と鬼には多くの共通点があります。

天狗は、もともと天(空)の狗(犬)で、「山海経」(せんがいきょう・BC4世紀~AD3世紀頃)に登場する魔獣です。口に蛇をくわえたとも犬ともつかない動物の姿で、人に吉をもたらす霊獣であったようで、それがいつしか大きな災いを告げ知らせる流星のことに転じ、天狗そのものが災いをもたらすものへと意味が変質して、日本に伝わったようです。日本でも上代には本来の天狗(流星・隕石)の意味で使われていたようですが、中世ごろになると次第に猛禽の姿で人をさらう妖鳥へと変化します。この当時の天狗は仏教を嫌い、修行僧の邪魔立てやいやがらせをおこなってはこらしめられる、というやや間抜けな役回りをするエピソードが伝わります。鬼と天狗、特に鼻高天狗とは体が大きく赤ら顔で彫りが深いなどの共通性があるように思われますが、それ以外には実はほとんど共通性がありません。
鬼や河童が下僕として働かされることが多いのに対して、天狗は人に支配され使役されるというエピソードを持ちません。
鼻高天狗の起源は猿田彦の神に求められ、猿田彦は賽の神として村や里の境界に道祖神、あるいは地蔵となって境界のゲートキーパーとなります。この意味では、各地の川べりなどに水神社や水神塚があり、水害や旱魃から地域を守護する役割を持っている意味で、河童と天狗は共通項があります。そして何より河童と天狗の共通性は、現代に至ってもなお、多くの人がそれらを目撃したり、関わったりしていることです。

民話・昔話の最大の敵役「鬼」。でも誰も見た者がいないという不思議

かたや鬼については物語や神話の中ばかりに登場して、民間の目撃譚がほとんど(あるいはまったく)存在しない、という不可解な事実があります。金棒を持ち、虎のふんどしをはいた角のある大男と出会った、という話は一切ないのです。岩手県遠野地方の怪奇譚を集めたあの有名な「遠野物語」(柳田國男)にも、鬼は一切登場しません。「現代民話考」(松谷みよ子)で採集された全国の現代の怪異譚でも、河童や天狗の目撃話は数限りなく記載されているのに、やはり鬼は登場しないのです。これはどういうことでしょうか。
このことについてしばしば言われるのは、「鬼」というのは中央政権、権力者たちにとって、それを脅かす者たちすべてを指すので、僻地辺境に生きる者、一般庶民は実はみんな鬼であり、だから民間伝承には鬼が登場しないのだ、ということです。一見もっともらしく思えますが、今の私たちはテレビなどのメディアにより都心も地方もあまり違わない生活を送り、また自分たちを鬼とは思わず鬼を追う体制側においています。それなら、鬼は幻視されそうなものです。伝承的にも牛頭天王などの角のある異形の神があり、カモシカやシカなどの角のある大型獣もいて、「鬼」のビジュアルイメージも豊富なのに、なぜ鬼は私たちの前に現れてくれないのでしょうか。
民間伝承では、物語でいじめられる鬼に取って代わるように、やたらと人に虐げられるのは河童です。あるいは河童こそが、「見えるようになった鬼」「たまたま見えてしまった鬼」の姿かもしれません。
「オニ」という語源については、「隠れたもの」=見えないもの=「隠(おぬ)」であるとか、陰陽の陰であるあの世・死者の国から来るものであるから「陰(おん)」であるとか、古来さまざまに議論されてきました。一定の説得力はあるものの、「おぬ」が「おん」になるのは自然ですが、「おん」という安定した強い響きから「おに」に変じるとはどうも考えにくく、どこかこじつけ臭さが漂います。けれども、これほど鬼の偽者はあふれているのに本物は一切出現しない、ということは…やはり「鬼」の本体は真に隠れたもの=「隠」なのかもしれません。