2018年もあと20日あまり。いよいよ寒さが本格化してきましたね。
10月に発表があった今年のノーベル賞。日本からは、京都大学の本庶佑(ほんじょ たすく)特別教授が医学・生理学賞を受賞しました。12月10日は、 賞に名を冠するアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日〜1896年12月10日)の命日にあたり、毎年この日にスウェーデン・ストックホルムとノルウェー・オスロで授賞式が行われてます。
今回は、知られざるノーベルの生涯と賞設立の経緯、受賞に至った3人の女性にスポットを当てて、ノーベル賞を紐解いてみましょう。

ノーベル賞設立の一因⁉巨万の富があっても、女性に縁がなかったノーベルの人生

アルフレッド・ノーベル(1833年10月21日〜1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者・発明家で、生涯において約350件もの特許を取得、特にダイナマイトの発明で知られています。彼の父も建築家で発明家でしたが事業に失敗、単身ロシアのサンクトペテルブルクに赴き爆発物製造業の会社を起業、見事成功をおさめます。その後、家族でサンクトペテルブルクに移住し、ノーベルは特に化学と語学の英才教育を受けることになります。そのため、母国語に加え、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5か国が堪能だったそうです。
さらにフランスとアメリカへの留学を経て、1866年にダイナマイトを発明。1871年から本格的に生産を開始し、世界中で採掘や土木工事に使われるようになって、一躍富豪の仲間入りを果たしました。1884年にスウェーデン王立科学アカデミーの会員となり、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を受け、晩年にはウプサラ大学から名誉学位を授与されるという栄誉を得ます。
一方、ノーベルは私生活では生涯独身でした。若き日のロシアではプロポーズを断わられ、43歳の時に結婚相手を探す前提で秘書を募集しましたが、採用した女性にはすでに婚約者がいたという憂目にあいます。彼女はオーストリア人の伯爵令嬢ベルタ・キンスキー、のちにノーベル平和賞を受賞をすることになる小説家のベルタ・フォン・ズットナー(1843年6月9日〜1914年6月21日)でした。同じ頃に出会ったのが、ゾフィー・ヘスという当時20歳だった美しい花屋の店員。ゾフィーとの付き合いは15年ほど続きますが、彼女も別の男性と結婚。ところが、ここでふたりの関係は終わらず、ゾフィーとやり取りした手紙を公表しない代わりに、彼女に莫大な金額のお金を払い続けることなるのです。
富と名声の裏にあった、お金が出て行くばかりで愛を得られない生活。さらには、ダイナマイトが戦争のための兵器として転用されることになり、世間から「死の商人」という不名誉な呼び名が与えられていました。
ノーベルは、死の前年に「遺産をもとに基金を設立し、人類にとって最大の貢献をした人物に賞の形で分配されるものとする。」という遺言を残しました。結果的に戦争という負の目的によって築かれた巨万の富を、人類の未来のために有意義に使うべくしてノーベル賞は設立されたのですね。まさに、名誉挽回とはこのこと!?

6部門あるノーベル賞。「平和賞」の授賞式のみ、ノルウェーで行われるのはなぜ?

ノーベルの死から5年後の1901年、はじめてのノーベル賞授賞式がおこなわれました。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の各賞に1968年から経済学賞が加わり、現在は6部門で偉大な功績を残した人物に贈られています。経済学賞はノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年記念の一環として設立されました。正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といいます。
授賞式は毎年12月10日に、平和賞を除く5部門はスウェーデン・ストックホルムのコンサートホール、平和賞はノルウェー・オスロの市庁舎で行われています。ノーベルは、当時スウェーデンからの独立問題で揺れていたノルウェーとの和解と平和を祈念して、平和賞の授与はノルウェーで行うことにしたそうです。そのため、この賞だけがノルウェー政府が授与することになっているのです。
ノーベルが平和賞を創設したのは、1905年に同賞を授賞したベルタ・フォン・ズットナーの影響が大きかったとされています。ノーベルとのやり取りは彼が死去するまで続けられたそうです。彼女は平和活動の先駆者としても知られ、代表作の小説『武器を捨てよ!』は1914年に映画化されています。

男性優位が続いている⁉物理学賞を、55年ぶりに女性が授賞し話題に

物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられており、毎年注目されていますね。今年の物理学賞は、55年ぶりに女性に贈られることになりさらに注目が集まっています。
ドナ・ストリックランド博士(1959年5月27日〜)は、カナダの光学研究者で、カナダ・ウォータールー大学の准教授。1903年のマリー・キュリー(1867年11月7日〜 1934年7月4日)、1963年のマリア・ゲッパート=マイヤー(1906年6月28日〜1972年2月20日)に続き、女性として3人目の授賞者となりました。
ストリックランド氏は、学生時代からの指導教員だった、アメリカ・ミシガン大学のジェラール・ムル博士とのレーザー物理学分野での功績が認められました。この技術は、がんのレーザー治療や視力矯正手術に使われています。同賞は、ベル研究所出身のアーサー・アシュキン博士を加えた3名が授賞。ストリックランド博士は、ノーベル物理学賞が50年以上もの長い間、女性に授けられていなかったことが「驚きだ」と語っているということです。
物理学賞をはじめて授賞した女性、マリー・キュリーは「キュリー夫人」として日本でもおなじみですね。放射線の研究により、36歳の若さで夫のピエールとともに女性初のノーベル物理学賞、さらに夫なき後の1911年にもラジウムの発見でノーベル化学賞を受賞しています。彼女は、パリ大学初の女性教授職にも就任しています。「女性初の」づくしのキュリー夫人ですが、この時は、まだ女性に大学への進学の機会すら開かれていなかった時代。苦学のすえ故郷ポーランドを離れ、当時女性でも科学教育を受けられる数少ない大学のひとつだったパリ大学に入学、研究者への道を歩みはじめるのです。こうして、ノーベル賞を2度授賞した初の女性になったキュリー夫人ですが、彼女の娘イレーヌ・ジョリオ=キュリーも1935年に夫とともノーベル化学賞を授賞しています。二度の授賞、夫婦で、親子で、ノーベル賞を授賞するとは!
今なお男性優位の空気が感じられるノーベル賞ですが、キュリー家をはじめとして、夫婦でノーベル賞を受賞した例が過去に5組もあることに驚かされます。膨大な量の研究、家事に育児。いったいどのように役割分担し、時間をやり繰りしていたのでしょうか。日本人のノーベル賞授賞のニュースでは、妻の内助の功が取り上げられ、美談として語られることが多いようです。日本でもそろそろ、女性初のノーベル賞授賞、夫婦での授賞というニュースが聞けるとうれしいですね。

参考
BBCニュースウェブサイト