12月7日より二十四節気「大雪」となります。「こよみ便覧」では「雪、いよいよ降り重ねる折からなればなり」としますが、寒冷期だった江戸時代と違い、現代では平地に雪が降り重なるのはまだまだ先のことになりますね。特に今年は、極端な天候が続いた一年を締めくくるように12月としては異例の暖かさとなっている地域が多く、「どうなっちゃってるの?」と感じてしまいますね。「どうなってる」といえば、大雪の七十二候は、「どういうこと?」だらけで、辞書や歳時記の解説も混乱しています。

まずは中国宣命暦、本朝貞享暦、本朝宝暦-略本暦の3つのバージョンを比べてみましょう

【宣命暦】
初候「鶡旦不鳴(かつたんなかず)」 (夜明けを告げる鶡=ミミキジが鳴かなくなる)
次候「虎始交(とらはじめてつるむ)」 (虎の雌雄がペアとなって繁殖期に入る)
末候「茘挺出(れいていいずる)」 (『茘』が芽を出す。)
【貞享暦】
初候「閉塞成冬(へいそくしてふゆをなす)」 (天地の疎通が閉じ塞がって冬となる)
次候「蟄穴(くまあなにかくる)」 (クマが冬篭りの洞に引きこもる)
末候「水仙開(すいせんひらく)」 (水仙の花が咲き始める)
【宝暦暦/略本暦】
初候「閉塞成冬(へいそくしてふゆとなる/そらさむくふゆとなる)」 (天地の疎通が閉じ塞がって冬となる)
次候「熊蟄穴(くまあなにこもる)」 (クマが冬篭りの洞に引きこもる)
末候「鱖魚群(けつぎょむらがる/さけのうおむらがる)」 (鱖魚=ケツギョが群れになる)
宣命暦の初候・次候は礼記月令の
「冰益壯、地始坼。鶡旦不鳴、虎始交。」(氷は分厚くなり、地面はひび割れる。ミミキジは鳴かず、雌雄の虎がつがいとなる。)
から採用されています。ミミキジは日本のヤマドリと同じキジの仲間で、中国大陸の山岳地に生息する大変美しい野鳥です。
「虎始交」については、南方種のベンガルトラは一年中繁殖しますが、北方種のアムール虎(シベリアタイガー)は、冬頃からペアとなって繁殖行動に入るといわれていますからぴったりですね。和暦では日本に生息しないトラを、クマに置き換え、冬篭りをはじめるという項目に変更しています。
さて、問題となるのは宣命暦末候「茘挺出」と宝暦暦末候「鱖魚群」。特に「鱖魚群」は大問題です。

アムールトラ
アムールトラ

「茘」とは何?何が「挺出」するの?

「茘挺出」から紐解きましょう。茘については諸説があります。「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(春木煥光)では、こう書かれています。
茘ハ今の俗バレント呼フ草也 蓀ニ似テ葉細ク必紐ス故ニ 又子ヂレアヤメトモ云
花モアヤメニ似テ細小ナリ
ここで春木は「茘」を「バレン」という草で、子ヂレアヤメ、つまりチリアヤメのことであると記しています。読んでいて混乱をきたす部分です。
「バレン」というと、今で言うハラン(バランとも。葉蘭 Aspidistra elatior)と呼ばれるスズラン亜科ハラン属の常緑多年草のことになります。江戸時代にはその大きな葉で握り飯などを包んだり、料亭などでは仕切りの飾り付けに使うようになりますが、これが今のあのお寿司などで仕切りの飾りについていることの多いプラスチックや笹で作られる「バラン」になりました。ところが春木はこれをアヤメの仲間のチリアヤメだというのです。江戸後期にはチリアヤメを茘またはバレンと呼んでいたのでしょうか。
本来のハランだとしても常緑植物であり、また花芽の時期も初夏のため、挺出とするのは違和感があります。春木の説は数々の矛盾があります。
茘は大韮(オオニラ)、つまりラッキョウ(Allium chinense)のことであるとする説があります。中国原産で草丈は30~40cmほど。花は秋咲きで美しい球状総花。そして葉は中空で細長い線形で、晩秋から冬ごろ根本から芽生えます。候の表現と時期と一致するため、茘はラッキョウで間違いないものと思われます。
そして、生物に精通した貞享暦編纂者の渋川春海はこのことを理解していましたから、同じヒガンバナ科で似たような葉をもつ水仙をあて、宣命暦とのイメージの連携も図って「水仙開」としたのです。水仙の花の咲き始めの時期としても的確、ラッキョウの葉芽の萌出よりも季節感や風格も格別となり、さすがは渋川春海!とうならせる繊細さと機知に富む会心の一候です。
ところが、宝暦暦ではこの優れた候を廃してしまいます。そして代わりにはめこまれたのは、「鱖魚群」という不可解な候でした。

ラッキョウの花
ラッキョウの花

クマが寝てからシャケがのぼる⁉ 鱖魚群がるとは?

「鱖魚群」について現代の歳時記では多くが「サケが川を群れで遡上する」という意味だとしています。しかしサケが産卵のために大挙して遡上するピークは10月ごろで、12月下旬のこの時期は遅すぎます。そもそも、大雪第三候の前の次候「熊蟄穴」としてクマを冬篭りさせてしまっているのですから、その後にサケが遡上するのでは、クマは大好きなシャケを食べられずに冬眠することになってしまいます。クマの「ボクが寝た後シャケが来るの?そんなのどうしたらいいクマ?」と言う嘆きが聞こえてきそうなくらいあまりに理不尽、というか「不自然」ですよね。宝暦暦編纂者の問題児、土御門泰邦がまた呪文をぶちこんだのでしょうか?
「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年・春木煥光)では
鱖魚ハ古来サケトスルハ非ナリ 鱖魚乾シタルモノ舶来ス真物ナリ
として、鱖魚群はサケ(鮭)のことではなく、鱖魚(けつぎょ)は海外から干物として輸入されている魚のことだとしています。ケツギョ(Siniperca chuatsi)はスズキ科の淡水魚で美しい雲形の模様をもち、中華料理では古来高級魚として珍重されています。このケツギョの干物が日本にも江戸時代に長崎から渡ってきていました。しかし、日本にその魚は生息しておらず、七十二候で干物に言及するわけもありません。では何の魚なのでしょうか。さらにさかのぼり、泰邦のブレーンとして働いた西村遠里の「天文俗談」(1758年)の記述を見ると、鱖魚群について、
鱖魚群は妾魚(たなご)むらがることなり
と記しています。タナゴ(Acheilognathus melanogaster)とは、体長5~10cmほどの小さなフナといった風情の日本固有種の淡水魚。本州の関東地方以北の太平洋側の湖沼、川の下流域などの水流が緩やかで、水草が繁茂する水域に生息します。タナゴの仲間(タナゴ亜科)は日本国内に18種類が知られ、体高が比較的高く体の幅は狭く平たい形をしています。全種が淡水性の大型二枚貝に産卵し、小魚も孵化した後しばらく二枚貝に間借りして育つという独特の生態をもちます。また、繁殖期にはオスに美しい婚姻色があらわれ、熱帯魚のようにカラフルになるため、かわいらしい外見ともあいまって、金魚とともに日本の伝統的な観賞魚としても愛好されます。さらに淡水の湖沼ではタナゴはよく獲れ、現代でも常総の水郷地域では、佃煮の材料となって美味しく食べられています。
タナゴ釣りも趣味釣りとして歴史が古く、江戸時代にはことに風流な趣味として大流行しました。タナゴは冬には群れとなって静かな水域で冬越しをする習性があり、この候の「群がる」とも一致します。暗く澄んだ水底に群れるタナゴにめがけて小ぶりの竿で冬の鏡のような冷たい水面にほとりと糸をたれる。こんな情緒のある光景が浮かびます。やらかすどころか大雪の季節にふさわしい美しい候であり、問題なのは鱖魚をシャケのことだとした現代まで続く後年の人々の解釈だったとわかります。
しかし、タナゴを本来の名である妾魚、あるいは婢妾魚と記述せず鱖魚としたのが誤解の元とも言えます。日本に生息しないケツギョは別名「桂魚」ともいい、「桂」のつくりと「鮭」の字がかぶるため、シャケのことだと考えられたのも無理からぬことかもしれません。「黄鶯睍睆(おうこうけんかんす)」とも共通するのですが、土御門泰邦はプライドの高い公家で、江戸幕府を侮る気風を隠さない言動を取ってきた人物でした。彼にとっては京都文化こそ上級であり、京都こそ華人文化、唐風文明を継承する正当な都であるという自負がありました。現代の日本人がちょっと気取って高級に見せたいときに英語やフランス語、イタリア語などの単語を使うように、江戸時代には唐風の言葉に言い換えることが箔をつける(素敵に見える)手段でした。そこでタナゴに鱖魚と中国魚の名をあえて使ったのでしょう。

時代が下るにつれて、私たち人間は自然や生物についての親しみや知見を薄れさせていきます。「クマが冬ごもりした後にシャケが遡上するなんておかしいじゃないか」と考えれば、俗説も一蹴することができるのですが、そういう関心自体もあまりなくなっているために、歳時記の俗説が存置されたままになるのではないでしょうか。するとますます古典の表現は意味不明なものになり、敬遠されていってしまうのです。
お近くに大きな湖沼があれば水の中をのぞいてみてください。タナゴの群れが思いがけず見つかるかもしれませんよ。

タナゴ
タナゴ