災害レベルの暑さに見舞われた7月も、もうすぐ終ろうとしています。一年でいちばん暑いとされる「大暑」(今年は7月23日)の15日後=8月7日が「立秋」なので、二十四節季でいうとこの時季は夏の終わり、いわゆる晩夏になりますが、8月に入ると全国で祭りが開催されるなど、気分的には、まだ夏を感じていたい時季でもありますね。
さて、本日のテーマ「端居(はしい)」も夏ならではの季語なのですが、聞いたことはありますか? 実は、俳句をやっている人にとって、この「端居」は大好物の季語。俳人であれば誰もが一度は使ったことがある、または使いたい季語のひとつですが、一般には全く通じない(笑)落差の激しい言葉でもあるのです。そこで今回は「端居」の意味や使い方などを調べてみました。

二十四節季では暑い盛りが過ぎゆき、夏は終わりを迎えようとしています
二十四節季では暑い盛りが過ぎゆき、夏は終わりを迎えようとしています

「端居」の意味と、「涼」との関係

「端居」とは読んで字のごとく「端に居る」という意味です。でも、これだけでは意味がわかりませんよね。では、同義語の「夕端居(ゆうばしい)」はどうでしょう? こちらのほうが少しわかりやすいかもしれません。
端居の端は、縁側などの端のこと、居は居る。
つまり、縁側の端の方の風通しのよい所でひとり涼む様子をいいます。夏も夕方になると日中より少し温度が下がり、風なども吹いて、涼むにはよい時間帯。
そこで夕食前や、ひと風呂浴びたあとに縁側などに座り、庭や景色を眺めながら過ごす(涼む)ことが「端居」なのです。
しかし、たった二文字でこれだけの意味を想像するのは至難の業(笑)。涼むのだったら「夕涼み」と同じなのでは?……という疑問も湧いて当然ですね。そんな疑問を抱いた方に次の項では、「夕涼み」と「端居」の違いについてひもといていきましょう。

「夕涼み」と「端居」が似て非である理由とは?

夏は暑いのが当たり前ですが、暑さの中に涼気を体感できるのも夏ならでは。実際に私たちは、暑い盛りに見て、触って、食べて、飲んで……と、様々なシーンで無意識に「涼」を求めています。街を歩いている時に何気なく目にする、店先で風に揺れるかき氷のイラストが描かれた小さな旗、あるいはブルー地の爽やかな色あいの「冷やし中華」のイラストも、「涼」を求める夏の風物詩といえます。
そのなかで例えば、会社帰りのビアホール、納涼船、花火大会や夏祭りなどは夕方から「涼」を求めるもの。これらが「夕涼み」という大きな季語のなかにカテゴリーされているとすれば、「端居」もそのなかのひとつかもしれません。
けれども、大きな違いがあることをお気づきでしょうか?
それは内と外。そして、ひとりか、ひとりでないかの違いになります。わかりやすく整理すると……、
●「夕涼み」 → 「涼むという目的」の、外での「ひとり以上」の行動
●「端居」 → 「涼むプラスアルファ」の、家での「ひとり」の行為
これが「夕涼み」と「端居」の違いになります。
どちらも「涼む」ことには変わりないのですが、周囲の人と「涼」を求めるか……、ひとり静かに「涼」を求めるか……、この違いこそが、過ぎゆく夏を惜しみつつ「端居」をすすめる理由でもあるのです。

「端居」して、夏の終わりを惜しむ

実際に、現代の暮らしに目を向けてみると、縁側のある家などは少なくなっています。最近では「濡れ縁」という言葉を聞いて「それ、何?」と首をかしげる小学生も増えているようですね(小学生だけではないようですが 笑)。
そんな変化のなか、「夕涼み」という季語が広く使われているのに対し、「端居」は死語と化しつつあります。素晴らしい趣きある言葉だけに、それはとても残念なこと……。
加えて「夏惜しむ」という季語をご存じでしょうか? 夏はエネルギッシュであり、万物が大きく育まれる季節。そうした生命力みなぎる夏が去りゆくことを惜しむ感情を表す季語が「夏惜しむ」なのです。

生命が躍動する季節のなかで、時にはさまざまな夏、それぞれの夏を惜しみながらひとり静かに「端居」する時間こそ、現代に生きる私たちには必要な時間なのかもしれません。
2018年の7月は甚大な災害が発生し、全国各地で記録を上まわる気温が観測されました。そんな「記憶に残る7月」に思いを馳せつつ、自然の音や風に身をまかせる。そうした「端居」の時間を愉しむ際には、もちろんスマホは不要ですね。
── 言葉や漢字の成り立ちを知ることは、日常生活に膨らみを持たせてくれるはず。
ほんの少し、自分だけの贅沢な時間を持つ「端居」。こんな素敵な季語が知られていないなんて、本当にもったいないこと。「知って得する季語」のひとつに加えて、躍動的かつ生命力に満ちた「夏」をもう少し愉しんでみてはいかがでしょうか。