北海道は今年、命名されてちょうど150年を迎えます。北海道はかつては「蝦夷地」と呼ばれていましたが、1869年(明治2年)の7月17日、伊勢の探検家の松浦武四郎が蝦夷地の新たな名称として、「北加伊道」を含む6つを候補とする意見書を政府に提案しました。そして8月15日、太政官布告によって現在の「北海道」という名になりました。
今年は「北海道」という名前がついて150年の節目。各地で様々なイベントが開催されています。

蝦夷地を六度も訪れた松浦武四郎。伊勢出身の探検家

「北海道の名づけ親」は、松浦武四郎という人物です。1818年生まれ。出身は伊勢です。17歳から全国を巡りはじめ、26歳で蝦夷地に渡り、その後、六度も蝦夷を探査しました。
当時は、ロシアから攻められるのではないかという「海防」の観点で蝦夷地を訪ねたようですが、そのうちにアイヌの人々と交流が深まり、彼らの幸せな暮らしを願うようになっていきました。

稚内市の隣、猿払村
稚内市の隣、猿払村

6つの名称が提案され、そのうちの「北加伊道」が採用された

アイヌの人々の幸せを願っていた松浦武四郎。六度にわたり蝦夷地を探査し、「石狩日誌」「十勝日誌」「天塩日誌」「知床日誌」など、151冊の紀行本をまとめました。
また、その後、蝦夷地に詳しい人物として明治政府の一員となり、開拓使の役人になると、1869年7月17日、武四郎は明治政府に、蝦夷地に代わる新しい名称を提出しました。
「北加伊道」
「日高見道」
「海北道」
「海島道」
「東北道」
「千島道」
1857年、北海道の北部を流れる天塩川(てしおがわ)流域を調査した武四郎は、「カイ」というアイヌ語が「この土地で生まれた者」という意味であることを知りました。これをヒントに「北カイ(加伊)道」という名称を思いつき、これが今の「北海道」となりました。
現在、天塩川流域には、武四郎のゆかりの地に石像や歌碑、記念碑や案内板が多数設置されています。

天塩川
天塩川

各地に残る武四郎の足跡。音威子府(おといねっぷ)村には「北海道命名之地」の碑

天塩川流域には、武四郎に関する記念碑や案内看板が多数ありますが、それ以外にも北海道には、武四郎の足跡が残されています。
北海道北部の日本海側、留萌郡小平町(おびらちょう)は、明治~大正時代はニシン漁が栄えていましたが、道の駅「おびら鰊番屋」にある「にしん文化歴史公園」には、松浦武四郎が鬼鹿(おにしか)村で詠んだ短歌が刻まれています。
釧路市の幣舞(ぬさまい)公園には、松浦武四郎と案内役であるアイヌの人のツーショットの像が建っています。この像は、武四郎が阿寒の地を調査し、その景色のすばらしさを紹介した功績をたたえて建てられたといいます。
武四郎は北海道の北部に位置する音威子府(おといねっぷ)村で、アイヌ語の「カイ」の意味を知ったといわれ、この地には「北海道命名之地」と記された木碑が建っています。

小平町(おびらちょう)のにしん文化歴史公園
小平町(おびらちょう)のにしん文化歴史公園

武四郎によって、支庁や郡もアイヌ語にちなんで名づけられた

アイヌ語にちなんで名づけられた北海道という地名ですが、これ以外にも武四郎は、北海道の支庁名(「石狩」「後志(しりべし)」など)や、86にものぼる郡名(札幌、室蘭、富良野など)を、アイヌ語にちなんで名づけました。
北海道にはアイヌ語に由来する独特の地名が数多くありますが、これらの多くは武四郎の働きによるものであったというわけです。
〈参考:札幌市「北海道は平成30年に命名から150年目を迎えます」〉
〈参考:北海道150年事業公式サイト〉
〈参考:上川総合振興局「松浦武四郎の足跡」〉
〈参考:北海道新聞 2018年7月14日、「北海道150年広告特集」〉
〈参考;北海道Likers「天塩川に、松浦武四郎“”海道命名之地”を訪ねて〉
北海道が命名されて150年を迎える今年は、おりしも松浦武四郎生誕200年でもあります。北海道博物館の特別展示室では、「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」と題し、8月26日まで武四郎に関する展示が行われています。北海道命名150年で様々なイベントが催されている北海道。夏休みに訪れてみてはいかがでしょうか。

アイヌ語で「かもめが多いところ」という意味の「マシュケ」が転じたもの。「ぞうもう」ではありません。
アイヌ語で「かもめが多いところ」という意味の「マシュケ」が転じたもの。「ぞうもう」ではありません。