五月も半ば過ぎ、21日より二十四節気「小満(しょうまん)」となります。前節「立夏」でむっくりと立ち上がった夏が、いよいよ春を駆逐して隅々まで夏色に染め始める頃。「こよみ便覧」(太玄斎 天明7/1787年)では「万物盈満(えいまん・満ち溢れること)すれば草木枝葉志げる」と解説しています。南北に長い日本列島では、すでに入梅していることの多い沖縄奄美は本格的な梅雨空に。そして本州付近でも、梅雨に先立ち天候がぐずつくことの多い「走り梅雨」のシーズンです。

苦、死、秋。小満の候に衰滅のワードが「盈満」しているのはなぜ?

二十四節気には小暑、小雪、小寒、そして小満と、四つの「小」節が設けられています。小寒が立春の、小満が夏至の、小暑が立秋の、小雪が冬至の、二節前に設けられています。小寒と小暑が気温的な寒・暑のサイクルのピーク直前、小満と小雪が夏至・冬至という太陽にとっての転換点前の陽気・陰気のピークの直前、ということになります。
つまり小満は、太陽の気が一年を通じて最大値になる夏至に向かい、いよいよ万物がその気を受けて生命活動のクライマックス近くまで、言ってみれば「さあー、もりあがってまいりました!」状態の時期を意味します。
ところが、小満の三候は、特に二十四節気の本家・中国の宣命暦では、生命が満ち溢れる勢いに満ちた季節を表すにはあまりふさわしからぬ文字が目立ちます。まさか、不吉なものが横溢する節気ということ?それぞれ見て行きましょう。
中国宣命暦の七十二候では、初候「苦菜秀(くさいひいず)」次候「靡草死(びそうかる)」末候「小暑至(しょうしょいたる)」。
一方、本朝(和暦)七十二候は、貞享暦から略本暦まで変更なく統一されて、初候「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」次候「紅花栄(こうかさかう/べにばなさかう)」末候「麦秋至(ばくしゅういたる)」。
ここまで中国暦と和暦が一切かぶらず食い違う節気は、この他には「霜降」の節以外にはありません。そして、宣命暦の初候・次候、本朝暦の末候に、衰滅を表す言葉が見て取れます。ただし、和暦の小満末候「麦秋至」は、「礼記・月令」の「孟夏之月」の項目に「靡草死、麦秋至。」とあり、ここからの引用であり、「靡草死」を削り、同じ文章内の「麦秋至」に入れ替えたものともいえ、つまり、本家の中国では小満のこの時期をまるで衰亡していく時期のように思わせる表現をしているのです。

ニガナ
ニガナ

苦菜、靡草。どちらもごく身近なあの野草のことだった

まず初候に見える「苦菜」。これは何の植物をさすのでしょう。日本では「ニガナ」というと、黄色の五弁花に見える舌状花を咲かせるひょろりとした野草ですが、沖縄では、刺身に載った小菊に似た花を咲かせるホソバワダン(ホソバワダン(細葉海菜 Crepidiastrum lanceolatum)をニガナ(ンジャナ)といいます。しかし、このどちらも中国で言う苦菜((kǔ cài)とは違います。中国語の百科事典によれば、
苦菜也称苣荬菜、一年生草本、药名叫“败酱草”、异名女郎花、鹿肠马草、民间俗称苦菜、别名天香菜、荼苦荚、甘马菜、老鹳菜、无香菜等、为菊科植物苦定菜的嫩叶。
とあり、「敗醤草」というと、いわゆるオミナエシ、オトコエシ、カノコソウなどをさす場合もありややこしい(さらにややこしいのは、日本でオミナエシの漢字は女郎花です)のですが、ここで説明されている植物はキク科であり、ノゲシまたはハルノゲシ(野芥子 Sonchus oleraceus)のこと。日本全土に普通に生える典型的な「雑草」のひとつとして、ほとんどの人は道端や空き地、野原などで目にしている草ですが、もともとは麦の伝播とともに中国から渡ってきた史前渡来の帰化植物です。花はタンポポをこぶりにした感じで、枝分かれしていくつも咲きます。咲き終わるとやはりタンポポのように白い綿毛のついた種を球状につけます。
乾燥した全草は五臓六腑の邪気を払い、炎症の抑制、抗がん作用があるといわれます。かつ無毒で鎮静作用があり、身を軽くして老化防止、滋養強壮の効果まであるという万能薬の一つとして有名。
そして漢方医学では、体に熱がこもる夏には心臓に負担がかかるため、心臓が好むとされる苦味を採ると良いとされます。苦味は体内の熱を下げ、消化を助けます。中国では生の野菜(野菜は日本で言う食べられる野草のことです)を加熱調理して盛んに食事で食べます。このように、夏に必須とされる苦菜=ハルノゲシが大きく成長してくる、ということは、つまり夏の準備が整ったことを表わしているわけです。
日本でも、戦中戦後の食糧難の時代にはもちろんこのハルノゲシは食べられていて、陸軍獣医学校の「食べられる野草」には、「軽く火にあぶりて苦味を取り去り、飯に混ぜ、または茹でて蔬菜とする。佳味である。」とあり、現代でも、苦味はあってもアクがなく、美味しい野草として知られています。

ハルノゲシ
ハルノゲシ

次候は「靡草死(びそうかる)」。靡草とは、明代万暦年間(1573~1620年)馮應京が著した「月令廣義」では、この「靡草」を「薺」、つまりナズナ(Capsella bursa-pastoris)の仲間のことである、としています。前年の冬から芽生え、早春の頃には道端や川べりなどにいち早く元気に生え出てくる、いわゆる「ぺんぺん草」です。春にはすでにハート型の実鞘をいっぱいに茎につけた姿で、夏前には枯れてしまいます。「夏になくなる」=なつな、から「ナズナ」と名がついたという説もあります。
春を通して咲いたナズナが枯れ、完全に春が終わる=死、という表現につながるわけです。
そして末候は「小暑至」つまり熱い季節がやってくる、ということになるわけですが、ここは「礼記・月令」の文章どおり、「麦秋至」とするほうがしっくり来るし美しいように思います。なぜあえて「小暑至」としたのか(夏至の次に来るのが小暑にもかかわらず)謎です。そこで小暑至を麦秋至に入れ替えて三候をつなげてみると、
夏草のノゲシがぐんぐんと丈高く伸び、春のナズナは枯れ落ちて朽ちる。そして麦の穂が実り麦秋を迎える。
五月後半は麦の収穫期。この時期の麦畑は黄金色に色づき、秋の稲刈り前の田んぼのよう。ゆえにこの時期をご存知のように「麦秋」と呼ぶわけです。

麦ばたけ
麦ばたけ

和暦初候「蚕起食桑」。かつて日本経済は蚕に支えられていた!

さて、和暦の七十二候では、初候が「蚕起食桑」。貞享暦が発布された当時、日本の養蚕業は規模も小さく、全国的な普及度もまだまだでした。また、中国の高い撚糸技術によってつむがれた絹の品質には国内産は遠く及ばず、江戸中期ごろまで莫大な銅貨が、シルクを輸入するために海外に流出していました。蚕の飼育も、暖かくなったこの頃にはじまる春蚕飼育のみでしたが、江戸後期に中村善右衛門が難しい蚕の温度管理を容易にする蚕当計を発明、春蚕、夏蚕、秋蚕と年に何度も養蚕が可能となり、日本の養蚕業は江戸末期から明治、大正、昭和にかけて、日本の主幹産業に成長しました。一時期には、日本の輸出総額に占める生糸・絹織物の割合は、明治初期から昭和初期まで莫大な輸出産業となって日本経済を支え、最盛期には輸出総額の半分にも達したほどでした。
江戸前期の頃の貞享暦編纂者・渋川春海には、その後の養蚕の発展は知る由もないことだったでしょうが、このようにして見ると、「小満」の初候としてふさわしい設定だったかもしれません。

十渡的美味野菜:苦菜|苣荬菜