桜と花水木が終わり、梅雨の走り、そして夏の訪れを感じさせる空気の中で、新緑があちこちで芽吹き始めています。
梅や桜が咲く春や、紅葉に彩られる秋も素敵ですが、5月は夏に向かって静かながらも着実に生命が躍動し、光が満ちあふれ、新緑の薫り漂う爽やかな風が吹く時季でもあります。この季節の風景を切り取れば、それは一年で最も美しい……と、通勤通学や街散歩の途中で感じている方も多いことでしょう。今日は、そんな5月の詩歌をご紹介します。

桜、紅葉の名所として知られる嵐山・渡月橋。万緑の頃の美しさも格別
桜、紅葉の名所として知られる嵐山・渡月橋。万緑の頃の美しさも格別

新しい季語「万緑」

この季節の俳句が注目するのは、緑のみずみずしさとさわやかさ。花の散った桜の緑も、またいいものです。
〈雲行けば新樹を渡る光あり〉池内友次郎
〈濃き影を抱きて新樹並びをり〉高浜虚子
〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉篠原梵
この季節で最も有名な季語は「万緑」でしょう。
日本で俳句の季語として「万緑」を使ったのは俳人・中村草田男ですが、もともと中国・宋時代の詩人王安石(おうあんせき)の「万緑叢中紅一点」(「詠柘榴詩」)です。
あたり一面の新緑の中に、赤い花が一輪だけ咲いている……という意味は、多くの男性の中に一人だけ女性がいることのたとえにもなっています。いわゆる「紅一点」です。
〈万緑や吾子の歯生えそむる〉中村草田男
すべてが緑に包まれた中で、小さな子どもの歯が一本生えてきた、というのです。「万緑」という大きなスケールの言葉と、赤ん坊の小さな歯のコントラストが美しく、今でも愛誦されます。

風のすずやかな緑陰
風のすずやかな緑陰

新しい季語ですが、近代の俳句らしい、広がりのある句がたくさんあります。
〈万緑やわが恋川をへめぐれる〉角川源義
〈万緑をしりぞけて滝とどろけり〉鷲谷七菜子
〈谿(たに)へ尿(いばり)すはてきらきらと万緑へ〉加藤楸邨
最後の句はちょっとお行儀が悪いのですが、こうした俗な話題を詩に仕立てるのも俳句の大きな特徴です。
「緑陰」という、これも新しい季語もあります。若葉がきらめく中、樹木の下にできる陰のことです。
〈緑陰や少女言葉はすぐ弾け〉加藤楸邨
〈緑陰のわが入るとき動くなり〉永田耕衣

初夏の薫りをはらんだ、爽やかな風

この時期の風のさわやかなことには、さまざまな表現があり、「薫風」「青嵐」といった季語がよく知られているでしょう。「薫風」は青葉を通ってくる、香るような風のこと、「青嵐」はそれよりやや強い風のことでしょうか。
俳句は、日常の些細な風景を季節とともに瞬間的に捉える詩形です。そこには〈私〉の思いはあまり強調されることがありません。
〈濃き墨のかわきやすさよ青嵐〉橋本多佳子
〈なつかしや未生(みしょう)以前の青嵐〉寺田寅彦
〈薫風やいと大きなる岩一つ〉久保田万太郎
〈子のかみの風に流るる五月来ぬ〉大野林火
〈白牡丹一花に見ゆる風の筋〉原裕
寺田寅彦は、夏目漱石門の随筆家・物理学者であり、科学的な観察と禅味を感じさせる随筆を数多く残しています。
自分が生まれる前の初夏の風というのは、どんなふうでしょうか。「未生以前」には「無我の境地」という意味もありますが、この句にも禅的といってよいのか、人間よりも大きな時間の流れを感じさせる不思議な味わいがあります。
一方で茂吉や白秋の短歌からは、一人の〈私〉の眼差しを感じます。
〈近寄りてわれは目守(まも)らむ白玉の牡丹の花のその自在心〉斎藤茂吉
〈草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり〉北原白秋
── 一年のうち、この季節しか体感できないさわやかさ……、その感覚を詩歌とともに感じてみてください。