12月29日は楠忌。博覧強記の生物学者・民俗学者、南方熊楠(みなかた-くまぐす、1867~1941)の命日です。熊楠は、「歩くエンサイクロペディア(百科事典) 」と称されていました。「日本人の可能性の極限」とまで評価したのは柳田国男です。国立科学博物館で開催されている企画展「南方熊楠-100年早かった智の人-」もご紹介しながら、改めて、明治、大正、昭和前期にスケールの大きな智の冒険に繰り出した、異能の人物を再確認してみます。

変形菌の一種
変形菌の一種

エコロジーの先駆者

1867(慶応3)年、和歌山県に生まれた南方熊楠。少年期は、身辺のあらゆる和漢の書物を書き写す“筆写魔”でした。上京して入った大学予備門には夏目漱石、秋山真之,正岡子規らがいましたが、熊楠は標本採集に熱中し、ドロップアウト。家業の商売の勉強にと父親を説得して渡米するも、サンフランシスコのビジネススクールも退学。アメリカ各地やキューバにまで放浪し、採集に精を出した後は、ロンドンに渡ります。
大英博物館に嘱託として迎え入れられた熊楠は、図書室で本に耽溺して1万ページもの抜書きを行い、雑誌『ネイチャー』などに投稿。外遊中の真言宗の高僧や、亡命中の孫文とも交流しますが、1900(明治33)年、実家からの仕送りが終わり帰国します。
那智から紀伊田辺に移り、充実したフィールドワークを続けた熊楠は、明治政府の進めた神社合祀(ごうし)が鎮守の森を破壊するのみならず、人々の精神世界にも影響を及ぼすとして、神社合祀反対運動を起こします。1911年、熊楠と交流した柳田国男によって、熊楠が自然保護を訴えた『南方二書』が刊行されました。まだ環境問題という発想が乏しかった明治の時代に、熊楠は「エコロギー」(エコロジー=生態学)の言葉を用いていたのです。
そして1929(昭和4)年、熊楠が保護に努めた田辺湾の神島で、南紀行幸の昭和天皇に粘菌学の進講を行ないます。7年後に神島は国の天然記念物に指定され、1941(昭和16)年、74歳で熊楠は亡くなりました。

国立科学博物館
国立科学博物館

「情報提供者」としての評価

東京・上野公園の国立科学博物館の企画展示室では、2018年3月4日(日)まで、南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠-100年早かった智の人-」が開催されています。この展示は、人生の変化とともに熟成する熊楠の思考や脳内を覗くかのような、興味深い内容となっています。
粘菌類を偏愛した熊楠は、膨大なフィールドワークによって、数千枚にも及ぶ「菌類図譜」を作成しました。図譜には、水彩画の実物大描写のみならず、実物まで添付されています。展示では、その一部がバーチャル展示も合わせて楽しめます。ほかにも、少年時代に熊楠が江戸時代の百科全書をびっしり筆写した資料や、代表作で干支の動物を論じた『十二支考』が、膨大な情報収集の上で編み出された過程を追うことができます。
長い間、熊楠は森羅万象を探求した「研究者」とされていました。しかし近年の研究では、広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした、「情報提供者」として評価されるようになってきたそうです。展示では、熊楠が集めた情報に対して、現在のインターネット時代と重なる処理方法を行っていたことが可視化され、興味深い内容となっています。確かに熊楠は、早く生まれすぎた智の巨人だったのかもしれませんね。

熊楠の菩提寺、紀伊の高山寺
熊楠の菩提寺、紀伊の高山寺

牟婁の風荒しと思ふ熊楠忌

最後に、熊楠忌の俳句をご紹介しましょう。

釣れてをる鰓(えら)のホウボウ熊楠忌  <岡井省二>
熊楠の忌や金色のモジホコリ <関塚也蒼>
その中の白衣も遺品熊楠忌  <小畑晴子>
書庫の戸に鼠返しや熊楠忌  <中瀬喜陽>
顕微鏡のぞく媼や熊楠忌   <永井敬子>
牟婁(むろ)の風荒しと思ふ熊楠忌  <浜岡美哉子>

モジホコリとは、変形菌の一種です。そして牟婁は、和歌山県・三重県(紀伊国)にあった郡。熊楠が1909年、神社の合祀と森林伐採に反対する意見を発表したのが「牟婁日報」でもありました。

【参考文献】
『ザ・俳句十万人歳時記  冬』(第三書館 )

粘菌の一種
粘菌の一種