12月11日は「沢庵忌」。沢庵和尚とたくあん漬の逸話 〈tenki.jp〉|AERA dot. (アエラドット)

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12月11日は「沢庵忌」。沢庵和尚とたくあん漬の逸話

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大徳寺の龍源院

大徳寺の龍源院

12月11日の今日は、「沢庵忌」です。沢庵と聞くと、多くの方は白飯のお供として食卓に並ぶ「たくあん漬」を思い浮かべると思います。実はこのたくあん漬、沢庵宗彭(たくあんそうほう)という僧侶のの名前にちなんでいるとのこと。
今日は、沢庵宗彭とたくあん漬の逸話をご紹介します。

沢庵宗彭ってどんなひと?

沢庵宗彭は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した、臨済宗の僧侶です。10歳の若さで出家をした沢庵は、様々な寺を転々としながら修行を重ね、37歳という若さで京都にある大徳寺住職に就任します。大徳寺と言えば、鎌倉時代から続く歴史あるお寺。一度は応仁の乱で荒廃するも、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)という僧侶によって復興され、現在では観光地としても有名となっています。
そんな由緒あるお寺の住職に就任した沢庵ですが、わずか3日という早さで辞職します。沢庵は、自分は一つの場所にとどまるよりも、様々な場所をさすらう方が合っていると考えたのです。その後も沢庵は、多くの大名たちから住職就任の招きを受けましたが、それを断りながら修行を重ねていったのです。

沢庵宗彭が流罪となった、「紫衣事件」

転々としながら修行を重ねていた沢庵ですが、ある事件がきっかけで出羽国へ流罪となってしまいます。一体沢庵の身に何が起こってしまったのでしょうか。
当時、紫衣という紫色の袈裟を着るのは、高僧といった位の高い僧のみと決まっていました。そしてその紫衣を着ることができる僧侶は、朝廷が選定を行っていたです。しかし、徳川家康がこの選定権を幕府へ移そうと考えたのです。そしてその後家光の時代に、家光は幕府の断りなく紫衣を着ていた僧侶たちから紫衣を取り上げようとします。それに対して異議を唱えたのが、沢庵宗彭だったのです。このことに怒った幕府は、沢庵を出羽国へ流罪としてしまったのです。この一連の事件を「紫衣事件」と言います。

空腹は最高の調味料?「たくあん漬」の由来

出羽国へ流罪となった沢庵は、後にその罪が許され京都へと帰ります。その後、当時の武将である柳生宗矩 (やぎゅうむねのり)によって、相談役として江戸へと招待されることとなりました。最初はいい顔をしなかった家光も、沢庵の豊富な知識と人柄に深く感銘を受けます。そして、家光からの信頼を得た沢庵は東海寺の住職に就任することとなったのです。
沢庵が東海寺の住職に就任してからしばらくして、家光は沢庵に「最近何を食べても美味しく感じない。何か美味しいものを食べさせてはくれないか。」と頼みます。沢庵は、その言葉に頷き、翌日の午前に東海寺へ来るようにと言います。それを聞いて家光は翌日の10時頃に東海寺へと赴きますが、待てど暮らせど沢庵は姿を見せません。14時~15頃になって、ようやく沢庵が現れました。その手に持っていたのは、大根の漬物が添えられたご飯だけです。しかしお腹がペコペコの家光はそれを一気に食べます。そして沢庵は、「美味しいものを食べたいのであれば、腹を空かせればいいのです。腹が減るだけで、すべてものは美味しく感じるのです。」ということを家光に伝えました。家光はその時食べた漬物の美味しさに驚き、その時に出された漬物を「たくあん漬け」と名付けたのです。
清貧な生活をしながら修行生活を送ってきた沢庵らしい教えですよね。

<参考・参照サイト>
宗鏡寺
Kubota
しながわ観光協会


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