今日12月9日は漱石忌。明治の文豪にして国民的作家の命日です

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夏目漱石像 (11:00)tenki.jp

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101回忌の今年は生誕150年の節目でもあります。夏目漱石といえば誰でも一度は作品を読んでいることでしょう。私たちの頭に浮かぶ漱石の経歴といえば、東大の英文科を出たこと、松山や熊本の中学高校で英語を教えた後、文部省から官費でイギリスへ留学。その後母校東大で英文学を教えるといった絵に描いたようなエリートの姿ではないでしょうか? その後の作家としての活躍はだれでもが知っているとおりです。ところで漱石は子供の頃どんな少年だったのでしょうか。文豪はどのように生まれ育ったのでしょう。小説の種にもなっているその頃ようすを今回は辿ってみたいと思います。

家から家へ行ったり来たり。漱石の幼少期は波瀾万丈!

漱石は慶応3年旧暦1月5日に江戸牛込馬場下横町に生まれました。現在の新宿区喜久井町です。父夏目直克は50歳、この辺り一帯の取締りを務める町方名主。金之助と名づけられた漱石は父にとって8人目の子供でした。すぐ上の男の子が早世したため漱石は四男になります。江戸時代の考えとして男子は家を継ぐもの。夏目家には既に3人の男子があったため、漱石は生まれた翌年の明治元年に、子供のなかった塩原家の養子に出されます。養父昌之助はかつて夏目家の書生、養母は女中でした。直克が将来を見込み夫婦とし四谷大宗寺門前の名主にしたということです。
時代は江戸から明治へ大きく社会の仕組みが変わります。明治2年に名主制度が廃止されると夏目家、塩原家ともに家を存続していくためには大変な苦労をしたようです。父直克が嘱望して漱石を預けた塩原は女癖が悪く、外に女性をつくり家を出て同棲するという家庭不和の中、漱石8歳のとき養父母は離婚します。その後すぐに夏目家に戻りますが塩原姓のままでした。夏目家にとって漱石が跡取りとして大事になる時が突然やって来ます。長兄、次兄が相次いで結核で亡くなるのです。漱石21歳の時です。三男に家を継ぐだけの器量がないと判断した父はなんとか漱石を夏目家に取り戻そうと塩原家にかけあいます。結局直克は7年間の養育費として240円を塩原に支払い漱石を取り戻します。21歳にして初めて漱石は夏目姓を名乗るのです。その後も塩原はお金を無心するなど漱石にとっては厄介の種になっていたようです。家を継ぐという考えのもと、幼い漱石はふたつの家の間をまるで物のようにやり取りされたのでした。

幼い頃、物のようにやり取りされた漱石が抱く母への思い

漱石は自分が養子であるとは全く知らず、実の両親を祖父母と思っていたそうです。既に60歳と50歳に近い2人にそう感じたのは当然かもしれません。8歳の時に夏目家に戻った漱石は何故だかとても嬉しかったと書いています。身体いっぱいに表わした喜びを不思議に感じた実の両親でしたが、やはり親子のつながりだろうと思ったようです。漱石は下女からそっと告げられた真実が心から嬉しかった、と随筆『硝子戸の中』で語っています。
「母の記念のために」として母の記憶を拾いながら書き綴った文章もあります。紺無地の絽のきものに幅の狭い黒繻子帯を締め、大きな眼鏡をかけて裁縫をしている姿。漱石が遥か昔の幻像を呼び起こすように思い出す母のイメージはこれだけだそうです。季節を問わず夏のきものを着ている思い出の母はどんなに記憶を辿っても若い姿がないといいます。少しさびしかったようです。ある日漱石が昼寝をしている時、人のお金を使い込むという怖い夢を見て苦しさにうなされていると、その声を聞きつけ飛んできた母が微笑しながら「心配しないでも好いよ、御母さんがいくらでも御金を出して上げるから」といって安心させてくれたそうです。漱石にとって夢か現かもうはっきりしない思い出だそうですが、救いを求めた自分を慰めにきてくれた母に心から愛情を求めていたに違いありません。
漱石が14歳の時に55歳で亡くなった母「千枝」の名を「私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする」ときっぱりといっています。母を恋う思いの深さを感じますね。『硝子戸の中』は死の前年に朝日新聞に連載されました。

複雑な子供時代、漱石の英文学者、文豪までの道のりは?

明治5年に学制がしかれ小学校の建設が始まりました。養子にやられたり戻ってきたりと、幼いころから大人の都合で家庭が落ち着かなかった漱石も学齢期です。漱石の教育は明治7年7歳で入学した小学戸田学校下等小学第八級から始まります。始まったばかりの教育制度がいかに複雑かは、小学校の等級の表し方をみればわかりますね。養父母の離婚で転校をしながらも、飛び級制度を利用して4年で小学校を終えているのには、勉強に対する勤勉さが伺えます。12歳で東京府第一中学校に入学しますが母千枝を亡くした後中退、二松学舎に入学して漢籍を学ぶも一年で退学。この時漢詩を作り文学に傾倒しますが身を立てるために東京大学をめざします。そこに至るには大学予備門(後の第一高等中学校)という関門があり、そこに入るために必要な英語を学ぶために16歳で成立学舎へ入ります。21歳で夏目家に復籍して、東京帝国大學予備門予科に入学し英文学を専攻します。23歳で帝国大学文科大学英文科に入学、26歳で卒業大学院へと学歴は積まれていきました。
紆余曲折の学問の道ですが、それぞれの学校で漱石は多くの人と交流し、中村是公、正岡子規といった生涯の友人を得て青春を花開かせます。家庭的な愛情には恵まれませんでしたが、幼い頃から孤独を見つめていた漱石は屈託なく論じ合える友を心から大切にしていきました。後に作家となった漱石の家には名を成す多くの人が集い、漱石山脈ともいわれました。
101年前の今日49歳で亡くなる時は妻子、友人そして門下の人々大勢に見守られての旅立ちでした。「文献院古道漱石居士」が戒名です。お墓は雑司ヶ谷の墓地にあります。これからも自分の作品が多くの人に読まれるのをここで静かに見守っていることでしょう。
参考:
『漱石全集』全28巻 岩波書店
『夏目漱石』戸川信介 岩波新書

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