8月2日より、大暑の末候「大雨時行(たいうときどきにふる)」となりました。「大雨」とは、夏に降る夕立、土砂降りのにわか雨のこと。この候をもって七十二候も折り返しの第三十六候。次はもうはや秋となります。夏至の頃と比べてふいに日脚の短さを実感し、ヒグラシの淋しげな鳴き声や赤とんぼの孤影に一瞬しんみりするのもこの頃。けれども暦とはうらはらに、まだまだ夏は真っ盛り。近年は山登りの人気も高まっていますが、やはり夏と言えば何と言っても海。あの日本一の高級食材の産地でも禁猟期を終え、水揚げがされるようになります。

伊勢海老、解禁!
伊勢海老、解禁!

めったにお目にかかれない?イセエビ。秋に向けていよいよお目見えです

俗に「梅雨明け十日」と呼び慣わし、梅雨明け直後、平均して7月の20日前後から10日間ほどは太平洋高気圧の勢力が持続しやすく、安定した晴天が続くことが多いことを指しますが、これが8月に入り立秋が近づくにつれて降雨が増えてくる傾向があります。まさに「大雨時々降る」で、8月は驟雨、にわか雨、豪雨の多い月です。
最近の、しゃれにならない集中豪雨は論外ですが、夏のにわか雨は熱気と強い日差しにぐったりとした朝顔の弦や畑の作物、軒の釣りしのぶなどには慈雨ともなり、小鳥たちが雨後の水溜りで水浴びをしてはしゃいでる姿もよく見かけますね。
にわか雨は、夏らしい風物であると同時に秋への移ろいの前兆ともいえます。実際、海でもあの高級海産物として名をはせるイセエビが、春から7月にかけての産卵期の禁漁期間が明け、関東の主産地である房総半島では漁が解禁されます。
イセエビ(伊勢海老、伊勢蝦 Panulirus japonicus)は、節足動物門甲殻上綱軟甲綱(エビ綱)イセエビ科イセエビ属に属する、日本で最大の大型のエビ。体長は通常で20~30センチ、大きいものでは40センチを超えるものもあります。太平洋側の房総半島以南の暖かい海の岩場に生息し、成体になるまで30回もの脱皮を繰りかえして成長します。
身にはグリシンが多く甘みと弾力があり、癖のないうまみの強い味噌とともに、刺身でも焼き物でも味は絶品で、養殖に成功していないこともあり、今も昔も最高級食材の地位はゆるぎないものです。
イセエビという名の由来は、生息地の岩礁地帯の磯で採れることから「イソエビ」が訛ったものとの説もありますが、現代よりも生魚の運搬輸送がはるかに困難だった時代、甲殻類は体内酵素で自己消化を起こし鮮度が急激に落ちるために干物にするしかなかった中で、水がなくても長時間生きているイセエビは、水揚げ地から内陸への輸送が容易で、三重県のイセエビの産地である鳥羽地方から伊勢神宮まで運び、供物として捧げることが出来たためイセエビと名づけられたのではないか、という説もあり、こちらの方が正しいように思われます。古くから鯛とともに正月や祝事のご馳走の代表ですから、伊勢神宮にあやかったというのは大いに考えられますね。

伊勢海老といえばご馳走です
伊勢海老といえばご馳走です

奇跡の竜宮城「器械根」とは?

伊勢という名から三重県で採れるエビ、という印象の強いイセエビですが、ここ40年ほどの漁獲量は、ほとんどの年で千葉県が第1位となっています。2008年に三重県がほぼ30年ぶりに1位を奪回して以来、ここ10年は千葉県と三重県とで1位と2位を繰りかえしてはいますが、概ね近年はイセエビの産地の第1位は千葉県という状況です。市町村別上位5位まででは、千葉県の市町村が1位、3位、4位を占めています。
なぜ千葉県でそれほど多くのイセエビが取れるのかと言えば、外房地域に続くリアス式海岸の岩礁が良好な生息地で、中でも九十九里浜の南端にあたる大東崎沖の「器械根」と呼ばれる広大な岩礁地域はイセエビの大生息地であるから。器械根の水揚げ地であるいすみ市の大原漁港は、長らく日本一のイセエビの水揚げ漁港として知られています。
なぜ器械根でそれほど多くのイセエビが取れるのでしょうか。
器械根は大原漁港の沖に広がる、120キロ平方にも及ぶ広大な岩礁群。砂場と岩場が入り組んだ特殊な地形に加え、南から強烈な勢いで流れてくる世界最大の暖海流黒潮と、東北地方から緩やかに流れてくる豊かな栄養を含んだ寒流の親潮がここでぶつかり合い交じり合い、プランクトンや魚種が豊富で、海草のカジメの森が形成されています。
カジメやプランクトンを餌とする貝類が大繁殖していて、それを捕食するイセエビにも、またイセエビが好物のマダコにとっても大繁殖地。日本最大の巨大な器械根はサザエやアワビなどが無数に息づく、世界でも有数の漁場なのです。
品質の高い房州イセエビは勿論ブランドですし、マダコも明石とともに日本の二大ブランド、サザエも最高級品として珍重されています。また、アワビの中でもクロアワビ以上の最高級品とされるマダカアワビ(Haliotis madaka)は別名器械根アワビともいわれ、かつてはそこで無尽蔵に取れるために大乱獲され、長らく禁猟となっていた幻のあわびです。最近復活していましたが、今年の漁は資源が充分に回復していないことがわかったため、ふたたび禁猟となりました。

房総の黒あわび
房総の黒あわび

奇怪な名称「器械根」の由来とそのたどった悲劇

器械根岩礁に大量のマダカアワビが生息していることが判明したのは、明治初期のことでした。当時、西洋文明の技術が急速に取り入れられる中、以前よりおこなわれてきた素もぐりではなく、海上からポンプで空気を送り込むホースをつけた防水の鉄製ヘルメット(「カブト」と呼ばれました)にゴム製の潜水服、一足4.7kgもある重い潜水靴と鉛製の碇をつけて潜水して漁をする「器械潜水」が発案されました。
素もぐりよりも長時間水中で活動でき、両手を自由に使える器械潜水は、明治11(1878)年に南房総の白浜根本村でアワビ漁に導入したことに始まり、磯漁が盛んだった房総で、急速に普及しはじめました。そして、明治18年(1885)に夷隅郡(現在のいすみ市)太東岬沖で、器械潜水をした潜水士によりアワビの大漁場が発見されました。
10年も経ない間に、静岡、神奈川、東京などからの資本業者が潜水士を引き連れて、太東岬沖の大乱獲を行います。器械潜水は重い器具をつけて行うもののため、地元の房総の海士・海女たちは排除され、全国から集まった漁業資本家がやとった外部の潜水士が行い、年間400t近くを乱獲、海岸にはマダカアワビの貝殻が巨大な山を作るほどだった、といわれます。
危惧を抱いた千葉県はその後器械潜水漁を段階的に規制していくことになりますが、現在に至ってもマダカアワビの以前のような復活は、今も見られていません。幅30センチ、重さ5Kgにもなる「幻の器械根アワビ」。たまにでいいから誰もが食べられるくらいになってほしいですよね。
秋田ではハタハタが乱獲により一時期絶滅寸前となり、地元猟師たちの徹底した資源管理により現在のように復活しましたが、同様に千葉県ブランドに指定された現在、自治体、県や国もあげた資源保護の試みが望まれます。
豊かな漁場・器械根のお膝元、大原漁港では、8月6日を皮切りに、「いすみイセエビ祭り」が開催されます。器械根で獲れたてのイセエビをゲットできるほか、イセエビのつかみ取り、イセエビ漁ウォッチング(8/27と9/10に実施)、地域の飲食店でのスタンプラリーでイセエビ・サザエを食べた方には地元産品プレゼントなど、盛りだくさんの内容です。
夏のいすみ大原といえば、つげ義春の伝説の漫画「ねじ式」「海辺の叙景」の舞台でもあります。素朴な漁村の情緒と、日本一のイセエビの本場の活気を、味わいにお出かけしてみてはいかがでしょうか。

大原漁港周辺
大原漁港周辺