雨模様と晴天が交互に顔を出して、梅雨入り前の準備のような空模様ですね。さて、今日は歌人・与謝野晶子の命日です。没後75年を迎えた今なお、作品を通してその意志や思いは鮮やかさを損なわず、私たちの心にまっすぐに届けられています。彼女が生きた時代は「恋」や「女性」が慎ましく有るものとされていた頃で、彼女の処女作歌集「みだれ髪」がその時代に一石を投じることとなり、一躍有名な歌人となりました。彼女の作品のみならず、生き方そのもの、また歌人に留まらない社会評論や教育活動は多くの業界と、時代を超えた現代に至るまで影響を与えています。彼女の命日の今日は、歌人・与謝野晶子の生き方について思いを巡らせ、また、ゆかりの地堺市にある与謝野晶子記念館についてご紹介したいと思います。

奔放!? 健気!? 与謝野晶子という女性の生き方

若かりし頃から古典文学などに親しんだ与謝野晶子は、18歳の頃から歌を雑誌に投稿しはじめました。その後、夫となる与謝野寛が結集した文学結社「東京新詩社」の発行する「明星」に投稿、結社への参加者を募るために来阪していた寛と出会い、彼の詩や活動に強く惹かれた晶子は寛を追って上京します。妻子のあった寛は離婚し、晶子と結婚をするのでした。晶子の寛に対する情熱は、みだれ髪の作品に多く書かれています。彼女らの際立った行動や、ストレートな恋心を歌った「みだれ髪」は文学界のみならず、多くの青年に鮮烈な印象を与えたことでしょう。そればかりか、その後の晶子の生き方は、さらに私たちを驚かせます。寛との間に12人の子供を授かりながら、寛を凌ぐ人気歌人となった晶子が一家の大黒柱となり、その上、ヨーロッパに心を寄せていた寛の渡航費用の工面に奔走するのです。女性の社会活動における様々な課題や保育園問題で揺れる現代の日本社会に比べたら、格段に女性が動き難い時代に、それをやってのけるバイタリティーが眩しいほどではありませんか。更には夫を追って彼女自身もヨーロッパへ渡り多くの知見を広めました。当時は女中を家に置いて子守や家事を託すのがお家柄によっては主流のようでしたから、晶子もそれに漏れない経済力を持っていたのでしょう。いづれにしましても簡単には真似のできない彼女ならではの力強い生き方ではないでしょうか。

商人の街、堺の与謝野晶子記念館

晶子の生まれ育った堺県堺区(現在の大阪府堺市)は、堺商人と呼ばれ全国各地に商いの影響を及ぼした力のある商人によって国からも独立的に活性化した街でした。イキイキとした土地で育ったからこそ、社会のしきたりや風土に埋もれない個性と意志を持った人間力のある与謝野晶子という女性が生まれたのかもしれませんね。そのゆかりの地・堺市堺区の与謝野晶子記念館では、晶子の詩歌を映像と音声で楽しめる展示や、美術的に優れた装丁で作られた表紙や口絵などの展示があり、書著の細かな部分まで見ることができます。また、多くの詩歌を詠んだとされる書斎イメージや生家の駿河屋が実寸サイズで再現されていたり、記念館ならではの資料やアルバムなども公開されていますので、改めて歌人・与謝野晶子の世界に浸かってみてはいかがでしょう。歌人に留まらず、社会評論や教育に至るまで、幅広く活動を成した彼女の足跡に深い感銘を受ける人もたくさんあるでしょう。なお、与謝野晶子記念館のある「さかい利晶の杜」には、同じく堺市の商家に生まれた千利休の茶の湯館もありますので、併せて訪れてみてはいかがでしょうか。