12月20日は、承応2年(1653年)のこの日、公津村(現在の成田市北須賀、船形、台方)名主・佐倉宗吾(正しい名は木内惣五郎)が将軍家綱に決死の直訴状を手渡した日として知られます。佐倉宗吾は佐倉藩領の苛政に苦しむ農民の窮状を伝えるべく直訴、捕えられて家族もろとも死罪となった人物。この行いは日本における民権運動のはじまりとされています。
江戸後期から明治、そして戦後に掛けて「義民・佐倉宗吾」の伝説は庶民の悲劇のヒーローとして「惣五郎摘趣物語(安永5年/1776)を皮切りに数十種類の出版物を数え、「東山桜荘子」「花雲佐倉曙」「義民佐倉宗五郎」などの芝居、講談、浮世絵の題材ともなり戦後も「怨霊佐倉大騒動」(1958)として劇場映画にもなっています。

印旛沼の自然。惣五郎が命を賭して守りたかったものとは…
印旛沼の自然。惣五郎が命を賭して守りたかったものとは…

空想上の人物と思われていた佐倉惣五郎

ときは江戸前期・四代将軍家綱の時代。承応元年(1652年)、下総佐倉藩11万石領内の印旛沼湖畔389ヶ村の領民十万人は数年来の旱魃、洪水の凶作により大飢饉に。さらに当代領主堀田正信に容赦ない重税をかけられ、困窮はなはだしく父祖伝来の土地を捨て逃亡する者は数知れず、離散した百姓7342軒、廃寺97、耕作放棄地1235町歩という悲惨な事態に。村の名主、年寄りが相寄り相談し、名主157名が船橋に集合し、連判状で江戸の堀田氏の下屋敷、同じ下総の関宿藩主久世大和守への陳情にまわりますが不調に終わります。
進退窮まった中、指導者的地位にあった公津村の名主・木内惣五郎は「このうえは、上様(将軍)に直訴を決めてはいかがか。十万石の名主百姓の総代として、われ一人命を捨てるより他なかるべし」と将軍への直訴を決断します。時に惣五郎48歳。人品優れ義侠心に富む人柄であったといわれます。
こうして12月20日、上野寛永寺にお成りの将軍家綱を待ち受け、一間の竹の先に挟んだ訴状を差し上げて名乗りを上げました。惣五郎自身は取り押さえられて拘束されましたが、訴状は幸いにも取り上げられ、宗吾の命を賭した訴えで佐倉藩領の苛政は改められたといいます。しかし宗吾は死罪と決定。名主たちの助命嘆願も認められず、翌年8月3日、惣五郎と妻は磔獄門、四人の子供も打ち首となったと伝わります。
この行いについてふれた福沢諭吉は「余輩の聞くところにて、人民の権義を主張し正理を唱えて政府に迫り、その命を棄てて終わりをよくし、世界中に対して恥ずることなかるべき者は、古来ただ一名の佐倉宗五郎あるのみ。(中略)もって世人の亀鑑(きかん)に供すべし。」(「学問のすゝめ」七編・国民の職分を論ず)と、史上最高の「義民」として称えています。
また、日本初の「公害」事件として名高い足尾銅山鉱毒事件で、国と戦い続けた田中正造は、佐倉宗吾を自らの行動指針としたといわれます。足尾銅山の汚染を国会等で訴えるも取り合われず、川俣事件などの弾圧事件も起きて手をこまねく正造に、毎日新聞の主筆石山半山は「貴方はただ佐倉惣五郎たるのみ」貴方は佐倉宗吾のように行動するしかないよ、と促します。正造は国会議員の職を辞し、1901年明治天皇の馬車を待ち受けて直訴状を手に駆け寄りました。渡良瀬流域の民を救うための決死の行動は、まさに印旛沼流域の民を救うため直訴した佐倉宗吾とかぶります。憲兵に取り押さえられて天皇への直訴はかなわなかったものの、この顛末が新聞で大々的に取上げられ、世論を喚起することとなりました。
このように明治初期の自由民権思想と結びつき影響を与えた佐倉宗吾ですが、長らく伝説・創作上の人物とされ、実在を疑問視されてきました。福沢諭吉自身も「ただし宗五郎の伝は俗間に伝わる草紙の類のみにて、いまだその詳(つまび)らかなる正史を得ず。」と、実在の証拠がないことを記しています。江戸期の「地蔵堂通夜物語」は惣五郎の死霊が僧を通じて物語るという怪談仕立ての伽物語ですし、史実史料の存在が確認されなかったためです。科学重視の明治期には実在の否定説が強くなり、つい近年までそれは続いていました。ところが昭和30年代、児玉幸多博士(学習院名誉教授)が宗吾の霊を祭る宗吾霊宝館の粗末な展示物を確認中、うずもれた戸棚の中から江戸期の名寄帳(年貢割り当てのための帳面)の中に木内惣五郎の名を見つけ、実在が確認されました。

福沢諭吉像
福沢諭吉像

禁断の逸話だった「佐倉騒動」と宗吾の怨霊伝説の裏にあるものとは?

佐倉宗吾の直訴騒動が有名になったのは、宗吾の時代の佐倉藩主・堀田正信の悲劇的な一生を皮切りにした堀田家を次々に悲劇が襲い、これが因縁として結び付けられたことにあります。
宗吾の刑死後、城主正信の正室清柳院が不審死します。宗吾の怨霊が取り付き狂死したと噂されました。当時佐倉城には血まみれの宗吾の霊がさまよっているのが目撃されたとか。ついで万治三年(1660)、正信は突然乱心します。幕閣に唐突な上申書を提出、その内容は「万民困窮し悪事ばかり起きるのは政治がよくないせいだ。自分は藩領十二万石を献上するから困窮する旗本に加増してほしい」というものでした。その後無断で江戸を出奔したことを咎められ、堀田家は佐倉から改易、正信は信州飯田に身を預けられることとなりました。その後も奇行は後をたたず,ついに鋏で自らののどわをついて自害してしまいました。さらに25年後、正信の弟正俊が大老の役職中、江戸城中で刺殺されてしまいます。その子正仲は奥州に追いやられ、不遇のうちに33歳で病死。
三代将軍家光の時代春日の局の寵愛を受けて興隆した堀田家は、宗吾の刑死後かつてない凋落の時代を過ごしたのです。
86年後、正仲の甥正亮が再び佐倉藩主に命じられて佐倉に返り咲きます。着任6年後の宝暦二年(1752)、一族に祟る宗吾の御霊を手厚く弔い、二度と禍がふりかからぬよう、堀田家は大佐倉の将門神社(平将門の生誕地と伝承されます)に鳥居を造営、口ノ宮明神として佐倉宗吾の霊を祭り、以降毎年春秋に祭事を行なうこととなります。寛政三年(1791年)iには宗吾140回忌として徳満院涼風堂閑居士の院号を送り、文化三年(1806)には宗吾の子孫に水田五石が与えられました。これらの耳目を集める弔いの連発により、それまで多くの者に禁断として語られることのなかった義民佐倉宗吾の物語の顛末が一気に人々の知るところとなり、演劇芝居に取り入れられるようになりました。
「地蔵堂通夜物語」の縁起では、将門神社に祭られることになった宗吾を天下の大怨霊にして坂東の民の英雄、平将門、またその末裔であり戦国期に滅びた千葉氏にも結び付けて語ります。
ここから、佐倉宗吾の直訴は実は千葉氏再興の訴えだったのではないか、と言う説もあるほどです。こじつけのようにも思われますが、江戸時代、いわゆる「直訴」が死罪となる例は実は少なく、宗吾の家族共々の死罪は極めて異例だったともいわれます。なぜ磔獄門にすらになったのか。うがった見方をすると、千葉氏再興の真意があったとしたら筋が通るようにも思われます。また、堀田氏が宗吾の墓のある宗吾霊堂だけではなく、わざわざ千葉氏発祥の地といわれる大佐倉の口ノ宮明神、宝珠院に手厚く宗吾を祀ったのかは、もしかしたら佐倉、下総の地神・氏神ともいえる平氏・千葉氏の祟りを怖れてのことだと考えれば納得がいきます。
単なる人情義民ものではない奥行きとミステリーが、佐倉宗吾の物語に人がひきつけられる由縁かもしれません。

上野寛永寺
上野寛永寺

宗吾霊堂・東日本一の杉・甚兵衛渡し……佐倉宗吾の史跡を巡る

現在、京成本線で佐倉と成田の間の小さな駅「宗吾参道」は、駅前から佐倉宗吾の菩提を弔う宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)に一キロつづく参道の入り口。ここも宗吾百回忌に堀田正俊が「宗吾道閑居士」の法名を送り、一堂を立てた寺です。境内には「宗吾御一代館」が設営され、人形66体を使った宗吾の生涯をパノラマで知ることが出来ます。
かつて戦前には成宗電気軌道(せいそうでんききどう)と言う市電が成田山と宗吾霊堂を結んでいました。成田山と並んで、長く下総屈指の信仰を集めていたことがわかります。
霊堂から印旛沼方面に1.5キロほど行くと樹齢1300年の大杉のある麻賀多神社、その程近くに「惣五郎旧宅」が。今も宗吾16代目のご家族がお住まいで、ご好意で見学することができます。
さらに印旛沼に向かって歩を進めると、やがて「甚兵衛渡し」水神の森が。ここは、宗吾が将軍直訴に赴く前、妻子に別れを告げるために対岸の吉高の渡し場から台方の家に渡ろうとした際、既に渡し場の舟が鎖につながれる暮六つをすぎていて途方にくれていると、かねてより宗吾を慕っていた甚兵衛は、厳罰を顧みず鎖を断ち切り舟を出し、この甚兵衛渡し場と現在言われる北須賀水神の森に送り届けた、という名場面の舞台です。甚兵衛はその後、刑死の恥を忍ぶよりはと、凍った印旛沼に身を投げた、と伝わります。
決して派手な観光スポットではありませんが、素朴な農村と沼の景観(今よりもずっと印旛沼は大きかったのですが)が、宗吾が命を賭して守りたかったものを見せてくれることでしょう。

参考文献
「地蔵堂通夜物語」(大野政治編・崙書房)
「千葉県史跡と伝説」(荒川法勝・暁印書館)
「印旛沼周遊記」(小川元・崙書房)

宗吾霊堂 東勝寺
宗吾霊堂 東勝寺