師走にはいり天気図は一気に冬型。太平洋側では穏やかな晴れ間に恵まれる日もありますが、北国では厳しい寒さが訪れています。
今日12月9日は夏目漱石が亡くなって100年目の命日です。日本国民ならだれもがなじみの作家ですね。江戸時代最後の年に生まれた漱石は、明治維新という激動の時代を生きて否応なく西洋の文化にさらされました。東京帝国大学英文学科出身。文部省の要請でロンドンに留学した超エリートですが、ここぞというときには威勢良く啖呵を切る江戸っ子。文豪のまだ知られていない一面を見てみませんか。

国立国会図書館 近代日本人の肖像
国立国会図書館 近代日本人の肖像

ロンドン留学、実は大学へは行ってません!

1900年漱石33才。二年に及ぶイギリスへの留学の前に寺田寅彦にこんな句を送っています。
「秋風の一人を吹くや海の上」
大きな希望に胸をふくらませた旅立ち、というより少し寂しそうな句ですね。
漱石は文部省からロンドン留学を命ぜられたとき、「自分は特に洋行の希望を抱いてはいないので、他に適当な人が行けばいいと思う」と答えるくらい留学には消極的でした。
さて漱石は留学中どこの大学でどんな研究をしたのでしょうか?
じつはロンドンで漱石は大学へは行っていません。到着早々ケンブリッジ大学に様子を見に行ったようですが、そこで出会った日本人はこぞって裕福な家のお坊ちゃんばかり。潤沢な送金を得て箔をつけるための留学生は、勉学よりも社交に忙しく、官費で留学した漱石には遠い人々でした。次にロンドン大学にむかいます。しかし聴講した文学史は漱石が期待していたほどではなく落胆します。結局シェークスピア学者クレイグ氏に一年ほど個人教授をうけることになります。クレイグ氏とのエピソードは『永日小品』の一編となっています。
ロンドンで漱石が英文学の研究に行き詰まり苦悩したことは有名ですが、漱石は衣食を惜しんで本を買い集め読書の日々を送っていたようです。海外の研究者と交流を持ち、大学や研究所で知識を吸収したり研究を行うことがなかったことは、漱石をいっそう孤独にしていったと思われます。

文学の行き詰まりを救ったのは意外にも科学!

「倫敦(ロンドン)に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」
後年の『文学論』にこのように記されています。こんな不愉快なロンドン生活にも救いがありました。それはライプチッヒ大学留学を終え、王立研究所で短期研究のためにロンドンにやって来た池田菊苗(きくなえ)が漱石の下宿をたずねたことです。池田は後に味の素で知られるグルタミン酸ソーダの発見で有名です。ふたりは会うや意気投合し、池田が帰国するまでの4ヶ月間漱石は大いに刺激を受けます。
ロンドンで漱石はどんな科学に触れたのでしょうか?
漱石がロンドンに滞在したのは19世紀から20世紀への変わり目。レントゲンによるX線の発見、ベクレルが放射能を、キュリー夫妻によるラジウムの発見がありました。人間の五感ではとらえられないミクロの世界に物理学の関心が向けられ始めていたのです。科学の世界が大きく発展していく中で、漱石の心は科学へ傾いていきます。イギリスの著名な物理学者リュッカー教授の「原子論」を読んだ漱石は、寅彦に宛てた手紙に
「大に面白い。僕も何か科学がやりたくなった」
と書いてその興奮をつたえています。つぎつぎに発表される論文に漱石はロンドンでふれていたようです。科学にどっぷりと浸かった成果は後に発表された漱石の作品から知ることができます。
『吾輩はである』には物理学者水島寒月が登場します。彼が苦沙弥先生を前に「首縊りの力学」と称して、縄にかかる力の釣り合いを数式を長々と並べて説明するくだりがあります。また垣根を越えてしょっちゅう飛んでくる野球のボールに癇癪を起こす先生を眺めながら、ボールの弾道について驚いたことに「猫」がニュートンの運動の法則を使って説明しています。
また『三四郎』では同郷の先輩、やはり物理を専攻する野々宮宗八の実験室を訪れた時に「光線の圧力測定」の実験装置の説明を受ける場面があります。これは1903年にイギリスで発表された論文「ニコルスとハルの光圧測定装置」を漱石が理解解釈してから、わかりやすい身近な物に置き換えて描かれており、素人の読者にもなんとなくわからせてしまうという漱石流で科学の説明がされているのです。
漱石が精力的に作品を書いている1905年には、アインシュタインが『特殊相対性理論』を発表しています。きっと漱石も寅彦と大いに語りあったことでしょう。

漱石の俳句は真実を写しているのか?

寺田寅彦こそ、漱石の小説に使われている科学のネタを教えた人でした。寅彦は漱石が本の第五高等学校で教師をしていた時の教え子になります。寅彦は漱石先生が大好きで、しょっちゅう俳句を習いに家に遊びに行っていたそうです。漱石はその頃せっせと俳句を作っては、正岡子規に教えを乞うていました。寅彦が東京帝国大学入学のため上京するときには、正岡子規に手紙を託しています。その後も亡くなるまで漱石と寅彦の親しい交流は続きます。漱石は小説に寅彦をモデルとした人物を、大いに登場させていますね。寅彦あっての水島寒月であり、野々宮宗八なのです。
「落ちさまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」
ここに漱石が熊本時代に作った句があります。
この句を読んだとき浮かべる光景は、椿の中で蜜を吸っている虻が、虻の動きか重みか、または吹いた風か、なんらかの力で枝から離れ、地に落ちたとき、虻が釣り鐘のような花の中に閉じ込められてしまった、というストーリーでしょう。この句から寅彦は、椿の花が落ちる時ほんとうに虻を伏せ閉じ込めることができるのか、という疑問を抱きます。さっそく椿の落下を観察してみると、下向きに落ちながらも、上向きに回転しようとする傾向があることに気づきます。漱石の句はおかしいのではないか? それとも、虻が入ったら、その重みによって回転はしなくなり、漱石の句のような結果になるのだろうか? とうとう漱石先生の句が真実なのかどうか、椿の花をモデル化し実験と力学計算をおこない、ついに漱石の句の現象をみごとに検証してみせるのです。漱石が亡くなって17年後のことです。寅彦がいかに漱石を慕っていたかがわかりますね。
寅彦は『夏目漱石先生の追憶』で「科学に対しては深い興味をもっていて、特に科学の方法論方面の話をするのを喜ばれた」と漱石の科学に対する姿勢を回想しています。

漱石の信念、勝負は百年の後!

ホトトギスに『吾輩は猫である』の連載を始めて後、『坊っちゃん』『草枕』と次々に発表している頃の心境を、高浜虚子に宛てて次のように書いています。
「とにかく、やめたきは教師、やりたきは創作」
漱石は40才の時、東京帝国大学教授にといわれますが、それを断り朝日新聞社に入り人気作家になりました。その後44才の時、文部省から博士号の学位授与を通知されますがこれを辞退します。
「私は博士の学位を頂きたくないのであります」
文部省の担当者に漱石が送った返事の言葉です。今まで通り「ただの夏目なにがしで暮らしたい。だから博士号はいらないのだ」ときっぱりと断りをいれています。この強い意志には漱石の文学に対する信念がありました。門下生、森田草平に東大を辞める前年に、その思いを書き送っています。
「功業は百歳の後に価値が決まる。(中略) 余は吾文を以て百代の後に伝えんと欲する野心家なり」
自分の書いた作品が人々に評価されることに価値を置き、地位や肩書きに全く執着しない生き方を貫く、漱石の反骨精神の表れでしょう。お上の権威をありがたがる風潮を嫌う、漱石らしい力強い言葉です。
朝日新聞入社から亡くなるまでの9年間に全28巻の全集が編まれるほどの執筆を行います。1916年(大正5)12月9日、執筆中の『明暗』未完のまま亡くなります。
今年は漱石がゆだねた百年目の年になりました。漱石さん、安心してください。あなたの作品は100年を軽々と越え永遠に読み継がれていくことでしょう。
そう申し上げたいと思いませんか。