津田梅子と中江兆民の関係は?150年前に出航した岩倉使節団再考 〈tenki.jp〉|AERA dot. (アエラドット)

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津田梅子と中江兆民の関係は?150年前に出航した岩倉使節団再考

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使節団出航と同時代頃のニューヨーク州のイメージイラスト

使節団出航と同時代頃のニューヨーク州のイメージイラスト

津田塾大学本館校舎

津田塾大学本館校舎

久米邦武は、使節団を運んだ蒸気船『アメリカ号』を飛脚船と形容(画像はイメージです)

久米邦武は、使節団を運んだ蒸気船『アメリカ号』を飛脚船と形容(画像はイメージです)

寒さは強まっていますが、冬晴れの清々しさも嬉しい今日この頃ですね。約150年前の明治4(1871)年11月12日。やはり風は冷たかったであろう横浜港から、総勢107名の岩倉使節団が、アメリカ合衆国及びヨーロッパ諸国へ派遣されました。特命全権大使の岩倉具視を筆頭に、使節団は理事官や書記官など46名。随員のほか43名の留学生も同乗した大所帯の最年少は、満6歳の少女・津田梅子。のちの女子英語教育のパイオニアとなりました。近年再研究されている明治維新直後の一大派遣プロジェクト、岩倉使節団のダイナミズムを振り返ります。

豪華絢爛メンバー使節団の真の目的は?

使節団の主目的は、次の3つでした。(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈(2)条約改正への予備交渉(3)米欧各国の近代的制度・文物視察と調査と友好親善。明治3年に財政制度調査のためにアメリカに渡った伊藤博文は、列国との間で交わされた当時の条約が日本にとって極めて不利、と痛感。翌年には、米欧諸国へ外交・政治上の主要人物を派遣し、実情を調査することを提言しています。
廃藩置県も断行されたその明治4年の年末に、この莫大な予算を伴う使節団が出航したことを考えると、当時の明治政府の切実感、切迫感が伝わります。使節団にはほかに木戸孝允、大久保利通、山口尚芳ら、倒幕から新政府運営までの重要メンバーが参加。残った政府は、西郷隆盛らによる「留守政府」と呼ばれました。
司馬遼太郎氏が「世界史のどこに、新国家ができて早々、革命の英雄豪傑たちが地球のあちこちを見てまわって、どのような国を作るべきかをうろついてみてまわった国があったでしょうか。」(『「明治」という国家』)と語ったほどに、新政府は早急に国家の青写真を描く必要に迫られていたのでしょう。

一行のうちの女子留学生の数は?

使節団には、43名の留学生が同行したことも特筆されます。後の民権思想のリーダーとなる中江兆民は、大久保利通に半ば直談判して留学生に選抜されたようですが、まさに行動力の勝利。後に憲法制定で伊藤博文を助け、日露の講和でも活躍する金子堅太郎や、三井鉱山を軌道に乗せ三井財閥の最高指導者となった団琢磨もいました。経済的に余裕のあった公家・大名は、競ってその子弟を自費で留学生に送ったのです。
しかし女子に関しては、留学など思いも及ばなかった時代。黒田清隆、森有礼らが女子教育の重要性を唱え北海道開拓使による募集となったものの、女子は10年間もの長期留学と定められれば、敬遠されるのは当然でしょう。二次募集でやっと、参加者が直前に決まります。男子留学生のような新政府主流派の子息ではなく、旧幕臣あるいは佐幕藩、それも渡航経験者の子女や妹ばかりでした。
それが元佐倉藩士で当時開拓使の農事吏員だった津田仙弥の娘・津田梅子(当時満6歳)、元会津藩家老の娘であり先にアメリカ留学していた山川健次郎の妹・山川捨松(同10歳)、後の三井物産総帥、益田孝の実妹・永井繁子(同11歳)、ほか年長の2名の計5名でした。年長の2名は、病気などの理由ですぐに帰国。しかし残る3人は、米国留学によって語学力と西洋式ライフスタイルを完璧に会得し、帰国します。
彼女たちは互いに生涯の盟友・親友となり、有形無形に女子教育に奔走。津田梅子は1900年(明治33年)、現・津田塾大学の前身、私塾「女子英学塾」を設立。先駆的な私立女子高等教育機関の誕生でした。さらに、のち海軍士官の瓜生外吉と恋愛結婚し女子音楽教育を行った繁子、そして参議陸軍卿・伯爵の大山巌に見初められ結婚し「鹿鳴館の花」と呼ばれた捨松。使節団の旅立ちは、新しい女性像創成のスタートの場でもあったようです。

632日間世界一周の旅が再注目されている

使節団の話に戻りますと、岩倉本隊は当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6(1873)年9月に帰国。外交経験が浅く国際法の知識も乏しかった使節団は、結果的には、肝心の条約改正への予備交渉の目的は、果せませんでした。大久保利通は古くからの仲間、五代友厚への手紙に「どうもこの旅は大敗北であった」と記しています。そして留守政府のみならず、無二の親友だった西郷隆盛との間にも、亀裂が生じていくのです。
明治11(1878)年、使節団の公式報告書である『米欧回覧実記』(以下『実記』)が、使節団書記官の久米邦武の編纂で刊行されました。米欧12か国回覧見聞のほか、ヨーロッパ総論や帰港日程としてのアジア論などがまとめられ、全巻300余の銅版画が添えられた、5冊組全100巻の大作です。しかし使節団の条約改正予備交渉の失敗もあり、『実記』は戦前から戦中・戦後を経て、長い間忘れ去られていたようです。
しかし1975年以降、『実記』原本が復活されるなど研究が進み、使節団及び『実記』の、歴史的な意味が問い直されています。使節団は、東南アジアへの目線の欠落を自覚していたにも関わらず西洋文明信仰を貫き、その後の近代日本は、「脱亜入欧」へとひた走りました。一方で、パリへ留学しルソーを学び、『レ・ミゼラブル』のヴィクトル・ユーゴ―を愛読した留学生・中江兆民。人民主権原理を身につけた彼は、使節団とは対照的に、米欧のアジア・アフリカにおける植民地・半植民地的暴虐を「文明のもうひとつの顔」と冷静に捉え、帰国後は政府批判の立場に転じています。
『実記』のエンサイクロペディア(百科事典)的な編集は、近年再注目を集めています。そして『実記』ひいては使節団の意味自体が、戦前の1930年や、敗戦直後の再出発の時にこそ、再読され問われるべきであったとも言われています。歴史的なアメリカ合衆国大統領選挙が成された今この時にも、632日間世界一周の旅、いわば一大国家見学プロジェクトとしての岩倉使節団を捉え直すことで、新たな発見を得ることができるのではないでしょうか。

参考文献:
司馬遼太郎(著)『「明治」という国家』日本放送出版協会
田中彰(著)『岩倉使節団「米欧回覧実記」』岩波書店
田中彰(著)『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか』岩波書店
泉三郎 (著)『堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団』祥伝社


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