夏の定番といえば、怪談やお化け屋敷、肝試しが定番。ぞっとする話を聞いて涼を取るため、なんていわれますが、実はお盆(盂蘭盆)のこの時期、誰もが故人の霊や死者達とのシンパシー(共鳴力)が高まり、何となく幽霊やお化けやあの世の話をしたくなるからなのではないでしょうか。千葉県山武郡・横芝光町・虫生(むしょう)。毎年8月16日行なわれる「鬼来迎(きらいごう)」は、このわずか26戸の小さな集落で、鎌倉時代初期から800年、演じ続けられてきた仮面の地獄劇です。

日本でもここだけ。地獄芝居「鬼来迎」とは?

鬼来迎(きらいごう)は本来は鬼舞(おにまい)といわれ、横芝光町虫生の広済寺に伝わる地獄の様相と菩薩による死者の救済を仮面狂言にした、日本で唯一の民俗芸能といわれています。
1976年、重要無形民俗文化財の第1号の指定を受けている貴重なものです。広済寺境内の鬱蒼と草木の生い茂る森を背景に、虫生地区26戸の集落の住人のみで演じられます。二人の「亡者」に扮した村人が塩ふりをしたあと、「大序」(閻魔大王による裁き。死者を地獄に送る)「賽の河原」(女の亡者と子供の亡者が登場、ご存知賽の河原で功徳の石積みをしては鬼が崩し、親たちの不信心をとがめる)「釜入れ」(地獄の釜でかまゆでにされる亡者)「死出の山」(死出の山での亡者たちへの鬼や鬼婆による呵責。観音菩薩の登場でやりとりの後亡者たちが浄土に導かれ、鬼たちが悔しがる)の四段と、広済寺建立縁起譚である「和尚道行」「墓参」「和尚物語」三段(現在は演じられていません)の全7段から構成され、閻魔大王、倶生神(鼻高の閻魔大王の書記官)、脱衣婆(または鬼婆)、赤鬼、黒鬼、地蔵菩薩、観音菩薩が仮面をつけて登場します。
同じような仮面地獄劇は、利根川下流域を中心にいくつかの寺院で行なわれ、特に香取市小見川町下小堀の巨徳山光明院浄福寺、成田市冬父(とぶ)の迎接寺(こうしょうじ)には寺宝の縁起譚『鬼来迎問答引接踟供養記』、古面などが残されていて、江戸時代には下総、常陸の各地で盛んに地獄劇・鬼舞が演じられたことがわかっています。
また、江戸後期の俳人加藤雀庵(1796-1875)の随筆「さへづり草(むしの夢の巻)」に「ぼさちの仮面」では、地獄芝居の起源は上下の毛の国に起こり、上下の総の国に至っていよいよ流行し、安永年間(1772~1781)の初めに江戸にはいらないように差し止められ、関わったものは罰せられた、といういきさつが記載されています。
こうして流行した地獄芝居・鬼舞いも、現在まで演じ続けてきたのは、広済寺の鬼来迎のみとなってしまいます。
その広済寺も、昭和初期ごろの見聞では、見物人はほんの50人たらず、そのほとんどが近隣の子供たち、という状況で、そうした寂れた中で虫生の集落の人々の執念で鬼来迎の舞台はつづけられてきました。「大序」で登場する鬼婆(奪衣婆)に赤ちゃんを抱いてもらうと健康に育つ、という言い伝えがあり、親たちは幕間に先を争い抱いてもらおうとしますが、子供たちにとってはあまりの怖さと迫力で毎年大泣きの競演。また賽の河原で幼子をいじめる鬼の場面は、よく知る話とはいえど観客の涙をさそいます。中世以来仏教の教えを分かりやすく人々に伝える「絵解き」「説教節」は、時代とともに次第に衰微していきますが、鬼来迎が小さな集落で村人自身の意思で受け継がれてきたことは、民衆の信仰心の力強さをあらわすものだといえるでしょう。

鬼来迎釜入り場面(写真:全国民俗芸能保存振興市町村連盟サイトより)
鬼来迎釜入り場面(写真:全国民俗芸能保存振興市町村連盟サイトより)

仮面をつけた人は・・・伝説の古面に言い伝えられる不気味な逸話

さて、その鬼来迎の起源、縁起の由来はどのようなものだったのでしょうか。
伝説によれば、鎌倉時代、後鳥羽院の時代(1183年~1198年)、薩摩国(現在の鹿児島県)の禅僧・石屋(せきおく)が、衆生済度を願い諸国修行のたびの折、虫生の村はずれの辻堂に宿を取ったとき、妙西信女という17歳の亡者が、地獄の鬼に攻められるのを夢うつつに見ます。翌日、妙西の墓に墓参に来た土地の城主椎名安芸守と出会い、この人が妙西の父だと知ります。石屋は自分が見た亡くなった娘の地獄の責め苦を語り、安芸守はどうか娘の苦しみを取り除いてくれと頼みます。石屋は「妙西」という戒名が迷いの元であるとして「広西」と改めるように進言、父は「広西信女」と記して新たに卒塔婆を立て直します。するとその夜も地獄の鬼が現れて、妙西改め広西に責め苦を負わせますが、そのとき観音菩薩が現れて、鬼と問答の末、自分が責め苦を負うかわりに娘を解き放つよう諭します。鬼は抵抗しますが新たな卒塔婆を見ると観念し、娘は西方の極楽浄土に飛び立っていく・・・父・安芸守は感激して新たに堂を立て「広西寺」と名づけました。
そのころ、鎌倉には運慶、湛慶、安阿弥という仏師がいたが、彼らも同時にこのいきさつを夢で見ます。場所を問えば「下総国(今の千葉県北部)小田部の里の山間である」と。三人はここを訪ね、広西寺の住職をつとめていた石屋和尚に夢で見たことを話します。石屋はその不思議に感激して、仏師に閻魔大王以下、数々の面を彫刻を依頼、和尚と運慶らは自作の面をつけて衆生済度の鬼舞をはじめたのだとか。
この話には後日談があり、近隣の小田部の里の女がたわむれにこの鬼の面を顔に当てると離れなくなってしまった。耳を切っても離れず、そのまま息絶えた。村人が堂の傍らに埋めて墓標に杉の木を植えた。すると17日後ににわかに雲起こり大風雨となり、墓標が割れて遺体についた鬼面が飛び出して辻堂に収まってしまった、といいます。
鬼舞の仮面には、このようにお面が取れなくなるという伝説はいくつも残っており、「肉づき面」としておろそかに扱ってはならないとおそれられていたことがうかがえます。また、かつては劇中に登場する亡者たちも仮面をつけて演じられていたのですが、亡者の仮面をつけると早死にすると(逆に長生きするという話もあり)いわれはじめ、現在では亡者は仮面をつけずに演じられるようになりました。前述した迎接寺に残された鬼舞の面は、伝恵心作十二面といわれて非情によい出来で、その中で「幽霊」の仮面をかぶるとやはり早死にする、呪われるといわれていて、まだつけた人すらいないという話が残っています。筆者もこの「幽霊」の仮面を写真で見たことがありますが、何とも気味が悪くて、とてもつけてみたいとは思えないものでした。
もちろん真偽はわかりませんが、そんないわくのある仮面をつけての鬼舞、怖いもの見たさでも一見の価値あり、です。

賽の河原(地蔵が子供を救う)※文化庁 国指定文化財等データベースより
賽の河原(地蔵が子供を救う)※文化庁 国指定文化財等データベースより

鬼来迎にも深く関わる施餓鬼(セガキ)とは?

ところで、鬼来迎は広済寺主催の施餓鬼法要が終わった後に執り行われるしきたりとなっています。鬼来迎の芝居は、そもそも施餓鬼法要があっての地獄芝居であり、その精神は平成3年にNHKが衛星放送をおこなったときにも、生放送中に鬼来迎をオンエアしたい放送担当者が、施餓鬼法要の前に芝居を始められないかと頼んだ際にも、「絶対に出来ない」ときっぱりと断ったという逸話からも伺えます。
ではその施餓鬼とは何でしょうか。
仏教の教えでは、人は亡くなると生前行った功徳により6つの世界(六道世界)に振り分けられると言います。六道(りくどう)世界とは、
天道(てんどう)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
であり、その中で餓鬼の世界とは、生前、欲張りで嫉妬深い人が陥る世界。餓鬼の世界には様々な欲求不満の者たちが生まれ変わるといわれます。満たされることの無いおのれの欲望の炎によって、何かを食べようとしてもすべて火に変わり、永遠に飢え乾く煉獄の世界です。犯罪者とまではいかなくても、私達の先祖もまたもしかすると餓鬼道に落ちて苦しんでいるかもしれません。私達も皆凡人ですから、容易に欲深い行いや、嫉妬深い行いを知らぬうちに積み重ね、餓鬼道の世界に落ちて苦しむかもしれません。
その者たちを救うために、現世に生きる私たちが代わって善行を積み、極楽世界へと導いてもらうよう供養することを施餓鬼と言います。精霊棚・盆棚に供物を並べ、餓鬼道に落ちた人々の浄土招来を祈ります。
8月1日の釜蓋朔日に地獄の釜の蓋が開くと、私たちの先祖はあの世からさまよい出て、子孫の待つ家まで旅立ちます。そうしてお盆の入りの頃に到着すると、数日過ごしてまた帰っていきます。そんなお盆の最終日に長い時代を超えて演じられてきた鬼来迎。芝居の中で浄土に旅立つ亡者の姿に、きっと見る者も、亡くなった家族を重ねて見ることができるのではないでしょうか。

生方徹夫『鬼来迎 - 日本唯一の地獄芝居』(麗沢大学出版会、2000年)

施餓鬼法要
施餓鬼法要