秋田県の名物として知られる巨大なワラ人形「鹿島様」。骨組みと受け継がれてきた面以外は稲ワラで作られ、村々の疾病・災厄退散と五穀の実りを祈願した秋田とその周辺地域独特の守護神像は、見るものを圧倒せずにはおきません。
でも「鹿島様」を深く調べていくと、いくつもの謎に突き当たります。この謎は、東国三社の一つであり、かつては伊勢以外の神宮は鹿島・香取より他になし、といわれた鹿島神宮の祭神・タケミカヅチの謎にもむすびついていきます。

鹿島様(出典:公益社団法人日本観光振興協会)
鹿島様(出典:公益社団法人日本観光振興協会)

ショウキサマ・ドンジン・クサニオウ…色んな呼び名がある鹿島様・でもそもそも「鹿島様」って何?

日本は長い間稲作を営んできた瑞穂の国。稲には、特別な霊力と神が宿ると信仰されてきました。正月の注連飾りなども稲ワラで作られるように、神聖な場所の結界に稲ワラを利用してきました。そんな稲ワラ文化の極致といえるものが巨大稲ワラ人形・鹿島様。
湯沢市岩崎地区の三つの町内(末広町、栄町、緑町)では、それぞれ高さ約4メートル前後のワラ人形を作って、村の北・南・西の入口に奉り、疫病退散や家内安全、五穀豊穣を祈願してきました。全国にある稲ワラで注連縄や大蛇を綯い災厄よけとする道切り、辻切りなどと同じく、村の境界や道筋などに置く道祖神・賽の神の一種で、民俗学的には「人形道祖神」といいます。
もっとも有名なのはもちろん4メートルを越す身の丈と力士のような体躯の巨大なタイプですが、その姿はバリエーションに富み、木に巨人の履くような大わらじを吊るしたものや、絵馬のように仁王面だけのもの、全身木製のものなどさまざま。筆者は人間とほぼ同じ大きさで作られる、鶴形や大館で見られるものが個人的に好みです。男女一対で子孫繁栄の男根や女陰などが強調されるものは縁結び道祖神としての側面もよく出ていますし、また顔もポーズもユニーク。中には槍を掲げ未開のジャングルの精霊を思わせる神秘的でエキゾチックな姿のものもあり、実に独創的です。
人形道祖神の呼び名は、鍾馗様(しょうきさま・中国道教の神で疫病神を追い払い魔を除く。玄宗皇帝の夢に現れ、皇帝の病気を治した鍾馗伝説に基づく。)、仁王様もしくは草似王(執金剛神・金剛力士ともいわれ、仏教の護法善神。寺院の表門などに安置することが多い)、ドンジン(道祖神の訛り)、ジンジョ(お地蔵さまのこと)、人形様など、地域ごとにさまざま。「鹿島様」もそんな呼び名の一つなのですが、もっとも印象的でインパクトのある湯沢市などの巨大道祖神が「鹿島様」であることや、鹿島様という呼び名の地域がもっとも多いことから、便宜上、秋田周辺の人形道祖神を「鹿島様」と総称してもいます。
ではその「鹿島様」とは何でしょうか。

いろんなタイプの鹿島様がいます。出典:有限会社建築相談センター
いろんなタイプの鹿島様がいます。出典:有限会社建築相談センター

鹿島神=タケミカヅチは本当に武神だったのか・鹿島送りの謎

「鹿島様」は、鹿島神、つまり茨城県常陸の国の一宮・鹿島神宮の祭神、武甕槌(建御雷神・タケミカヅチ)のことだと思われます。古事記においては「出雲の国譲り」の逸話で登場して、出雲の主だったオオクニヌシの息子タケミナカタ(建御名方神)と戦い打ち負かした、日本書紀ではフツヌシ(経津主神)に伴い悪神たちを打ち負かして葦原中国平定をなしとげた軍神として伝わっています。名前も「タケ」=武・猛、「ミ(イ)カヅチ」=雷、となんか強そう。
ですから、疫病や飢饉や天災など、災厄から村を守ってくれる神として、力強く頼れるいくさ神をかたどったのだ、ということは理解できます。
しかし、それならなぜ同じく軍神である「香取様」(香取神宮の祭神フツヌシ)や、災いからの守護神としてもっと一般的でこわもてのメジャーな不動明王などではなく、「鹿島様」なのか。秋田県と茨城県は遠く離れていますし、秋田県に鹿島神宮の分社は多くはなく、それほど信仰が広まっていたというわけでもなさそうです。鍾馗様や仁王様、お地蔵様は、それぞれタケミカヅチよりはずっとメジャーな庶民の守り神です。
東日本一帯には、鹿島人形、鹿島流し、鹿島踊り、鹿島送りなどというさまざまな習俗に鹿島の名が付けられており、その多くは、小さな武者のワラ人形を棒につるしたり、舟に乗せ川に流したりなど、虫送りや七夕、雛流しと同様、人形をいけにえの依り代にした祭りの形態をとります。
虫送りでも、非業の死を遂げた武者の名をつけて(斎藤実盛)、その人形に虫の霊をくっつけて燃やすといういけにえ(身代わり)が行われるのです。
いけにえ、身代わりとなる武者である鹿島神。道祖神、賽の神としては理にかなっていますが、天津神側の武神の長であるはずの神が、いけにえや身代わりになるものでしょうか。

茨城県 鹿島神宮
茨城県 鹿島神宮

鹿島神の正体は・・・記紀の歴史リライト

秋田の鹿島様のバリエーションである福島県の人形道祖神は久比毘古命(くえびこ)とも呼ばれます。「久延毘古」とは「山田のそほど」つまりかかしのことです。田んぼの真ん中で野鳥を追い払う役割のかかしは、田の神、農業の神、船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)であり、また人々のためにいけにえとされたものの神格化です。
実は、日本書紀での葦原中国平定の段では、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)はまつろわぬ鬼神等をことごとく平定したのだが、香取の地に住む星の神である香香背男(かがせお)だけは服従しなかった、とあります。この香香背男(かがせお)とは、ずばり案山子(かかし)のことです。また、香香背男の別名は天津甕星(あまつみかほし)。かかしも鹿島様も同じ野ざらしのワラ人形、同じものなのではないでしょうか。
鹿島神(タケミカヅチ)が武神としての性格を与えられたのは、朝廷の藤原氏の氏神として登場する古事記の記述でのことで、本来は武神でも何でもない、関東から東北にかけての素朴な農耕・海洋神だったのではないでしょうか。というよりも、もっとはっきり言えば、葦原中国平定の段でフツヌシ(ヌシとつくのは物部氏の神で、物部氏は古代の軍事を司る氏族でしたから、まちがいなくフツヌシは軍神です)とともに悪神をやっつけた、と書かれるタケミカヅチは、本当は平定される悪神であり、香香背男=天津甕星こそタケミカヅチだったのではないでしょうか。そういう思いで見てみると、「タケミカヅチ」という名も、まったく違って聞こえてきます。「ミカヅチ」は雷ではなく、「甕」「ツ(の)」「チ(命)」という、極めて土着的で女性的なイメージであることがわかるし、「タケ」は実は古事記でやっつけたとされる「タケミナカタ」とも本当は同じ神様なのだ、というしるし付けにすぎない、と解釈できます。
鹿島神宮は、実は本殿が拝殿に正対せず、祟り神を封印した神社なのではという説があります。また、香取神宮も、いくつもの祟り神を祭った形式の痕跡を見ることが出来ます。
つまり、鹿島神宮は香香背男=天津甕星を封印したもの。かたや並び立つ香取神宮は、本来朝廷で「もののふ」として権勢を振るっていた物部の神を封印したもの。鹿島には東日本で本来あがめられていた豪族の氏神を、香取には物部氏の氏神を、それらを奪い取った藤原氏が呪いを封殺するために祭り上げたのが、東国の両神宮だったのではないでしょうか。
とりわけ鹿島は、本来敵方であった神をそれを討ち取る側に書き換えてしまったわけで呪いの色は強く、したがってまるで本来の自分のものであった大地を逆らわぬようにらみを利かせるように、北のほうに祭殿を開いている・・のかもしれません。
秋田の鹿角市には、日本最大の環状列石(ストーンサークル)大湯(おおゆ)環状列石が存在します。成立した時代はまるで違うものの、まるで巨大な鹿島様は、それと呼応するかのよう。古代の東北を統べていた神が、人々の直感を通して人形道祖神として姿をあらわしたかのようにも思えます。最近では七月に衣替えをする鹿島様が多いとか。圧巻だったり、ちょっ不気味だったり、かと思うと笑ってしまうようなユニークなものなど、さまざまな姿の「鹿島様」。是非実物を見にいきませんか。
参照・秋田人形道祖神~ 秋田県の民俗学の原点を求めて ~

藁のかかし
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