まばゆいばかりの新緑をバックに、さまざまな花が咲き誇る頃となりました。本日4月30日から5月4日までは、七十二候の第十八侯「牡丹華(ぼたんはなさく)」。百花の王と呼ばれるほどにその美が古よりたたえられ、妖艶なまでの優雅さが人々を魅了する「牡丹」が豪奢に花開きます。ちょうど見頃を迎えている牡丹の名所もあちこちに。

「花王」、「花神」、「富貴(ふうき)花」と呼ばれる艶なる花「牡丹」

急にまぶしさを増した陽光に、新緑がきらきらと輝き出す今日このごろ。春から夏へ季節がゆっくりと移り行くこの端境期に、花の王と呼ばれる「牡丹」が、盛大にして華麗な見頃を迎えます。
「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「富貴草」「富貴花」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」
これらはすべて「牡丹」の花の別称。この花の原産地は中国は山東省などの山の中。太くなった幹をたきぎに、根を薬草として利用していたと言われています。鑑賞用の花として栽培されるようになったのは、5世紀頃の南北朝時代とされ、唐の時代には長安で大流行したとか。
かの白楽天はその様子を、「花開き花落つ二十日、一城の人皆狂うが如し」と詠じ、牡丹の花が咲く20日間ほどは、多くの人が花見に繰り出し、花の香りと美しさに狂わんばかりに酔いしれたそうです。(別名「二十日草」の由来ですね)
さらに宗代には黄色い品種も出現し、その花は「花王」と称され、人々は千里の道も遠しとせず、洛陽の城中へ押し寄せたとのことです。

「富貴でも時節の菰(こも)は着る牡丹」という諺も

日本への伝来は、奈良時代の遣唐使とも、空海が持ち帰ったとも言われ、「枕草子」や「蜻蛉日記」などに記述されていることなどから、平安時代には牡丹の花を観賞していたと思われます。
その後、独自の改良が重ねられ、冬に開花する冬牡丹が登場。わらでできた菰を纏って咲く風情から「富貴でも時節の菰は着る牡丹」という諺も生まれました。
その意味合いは、「富貴花」といわれる牡丹も、その美しい花を咲かせるためには、寒中に乞食のようにこもを巻いて、寒さに耐えて春を待つということ。成功するためには、困苦の時節を経なければならないというたとえになったそうです。
人生山あり、谷あり。どんな人の一生にも、辛苦はさまざまに襲い掛かり、また喜びや幸せもさまざまに降り注ぎ、花を咲かせる時節がある…そんなことを、ゆったりとこぼれんばかりに毎年咲く牡丹の花が、私たちにそっと語りかけてくれているような気もします。

約150種約7,000株もの牡丹が咲く、奈良・大和路「長谷寺」

さて、牡丹の名所は全国各所にあり、ちょうど見ごろを迎えているところも数多くあります。
なかでも、ご本尊の「十一面観世音菩薩立像」で名高い奈良・大和路「長谷寺」では、4月16日~5月8日に「ぼたん祭り」を開催中で、まさに約150種約7,000株もの牡丹が満開を迎えているとのことです。
重要文化財に指定されている(入口の仁王門から本堂まで続く」、399段という非常に長く壮麗な「登廊(のぼりろう)」付近をはじめ境内の随所に、艶やかに、競うように、色とりどりの花が咲き誇るさまは圧巻のひとこと。
ここ長谷寺では1100年前から、牡丹の栽培が始まったとのこと。そのルーツは、唐の皇妃・馬頭夫人(めずぶにん)が寄進した牡丹の苗に由来するのだそうです。顔が長く鼻が馬のようだったことから「馬頭夫人」と言われていた妃。その容貌の悩みを長谷観音に祈願したところ絶世の美女に変身し、その霊験のお礼に牡丹を献木したといった逸話が今も語り継がれています。

国宝の本堂では、「十一面観世音菩薩立像」の特別拝観も

長い登廊に導かれたどり着く、断崖絶壁に懸造り(舞台造)されたご本堂は、国宝指定の壮大な建造物。圧巻なまでの本堂の大きさは、全長10メートル18センチという国内最大級の木造仏「十一面観世音菩薩立像」をおさめるためなのです。
金色に輝く十一面観音立像は春と秋に公開され、今年の春は6月30日(木)まで特別拝観を実施中(午前9時30分~午後4時)。
通常は立ち入りが許されない、国宝本堂。その中に入ることができ、観音様のお御足(おみあし)に直接ふれてお参りできます。
悠久のときを通じ、あまたの人々の願いや祈りを受け止め救済してきた十一面観音立像が、7,000株もの満開の牡丹の花群に囲まれおはします様子は、想像しただけでも心安らぐ極楽浄土を思わせます。
花びらの枚数の少ないものから、一重(単弁)、八重、千重、万重と分類される牡丹。こぼれんばかりに、あふれんばかりに、幾重にも重なった花びらを開かせる百花の王が、今年も私たちにその美を惜しみなく見せてくれる。
目にも麗し、香り貴し、「牡丹華」の時節となりました。

※参考
牡丹(清水美重子著)、植物ごよみ(湯浅浩史著)