まんがの神様「手塚治虫」先生の生み出したロボット、アトムの物語上の誕生日は2003年4月7日。
1951年に登場してから、半世紀以上たちますが、今なお輝き続け世界中に愛されているスーパーヒーローです。

アトムの生い立ち

科学省の天馬博士には、飛雄という子供がありました。一人息子の飛雄を、博士は目の中に入れても痛くない
ほど、可愛がっていました。しかしある時、不幸な事故で、飛雄は亡くなってしまいます。
悲しみに耐えられない天満博士は、科学省より抜きの技術者を動員して、亡き息子飛雄にそっくりのロボットをつくりあげます。
今度は交通事故にあっても、決して死なない体の・・。
しかしロボットの飛雄は、いつまでたっても決して大人に育つことはありません。絶望し、狂気にかられた博士は、虐待した挙句サーカスに売ってしまったのです。
それを助けたのは、御茶ノ水博士でした。そして飛雄はアトムという名前をつけられ鉄腕アトムとして生まれ変わるのです。

アトム、初登場は脇役だった!?

意外にも、アトムの初登場は「アトム大使」というSFまんがの脇役でした。
「アトム大使」は「少年」という月刊誌に連載されていた作品です。
宇宙から、地球を訪れた大移民団(宇宙人)と、地球人とのトラブルを描いた物語で、主人公は、ケン一くんや、タマオ少年、御茶ノ水博士やひげ親父でした。
連載4回目くらいになって、やっとアトムが登場し、しかもロボットにするというのも、ギリギリの段階で決まったそうです。
人口が増えすぎたのを嫌う、宇宙人と、地球人の間で、戦いがおこりそうになったところ、平和の使者として、宇宙人のもとに向かう調停役がアトムでした。
「アトム大使」の連載が終わったのち、作中好評だった「アトム」を主人公とした、「鉄腕アトム」の連載がはじまりました。
連載は、その後17年の長きにわたってつづきました。

国産初のTVアニメ

現在までの、「鉄腕アトム」の人気を決定づけたのは、何といっても、日本最初の本格的テレビアニメ「鉄腕アトム」でしょう。
「鉄腕アトム」はフジテレビ系で、1963年1月1日より1966年12月31日までの4年間に全193話が放映されました。
最高視聴率40,7%平均視聴率30%が記録され、当時の子供がどれだけ夢中になってみていたかもわかります。
また、キャラクターの人気を生かして、数々の商品化を行い、版権ビジネスの先駆けをつくったのも、アトムが最初と言われています。アトム商品は大ヒットし、どれも爆発的に売れました。
筆者もマーブルチョコの、おまけについていたアトムのシールを、家中にベタベタ貼って親に怒られたものです。
「鉄腕アトム」はその後、海外にも進出し、アメリカでは「アストロボーイ」と名前を変えて放映され好評をはくしました。
名前を変えた理由は、「アトム」はアメリカではオナラという意味のスラングだったからだそうです。
その後海外ではイギリス、フランス、西ドイツ、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピン、他40数か国で放映されました。

日本人のロボット感に絶大な影響を与えたアトム

「ロビ」の生みの親のロボットクリエイター・高橋智隆氏は「鉄腕アトム」が好きで、アトムを作ろうとロボット作りを始めたのだとか。確かにロビの愛らしい姿はアトムを連想させますよね。
今年発売されるという、シャープの携帯電話機「ロボホン」の目がフラッシュで光るところは、アトムの目がサーチライトになるところと似ています。
「鉄腕アトム」は日本人のロボット感に大きな影響を与えたといわれています。西洋人がロボットを単なる機械、または人類をおびやかすものととらえがちなのに対し、日本人はロボットを人類の愛すべき仲間とする見方が定着しています。
そうしたロボット感は「鉄腕アトム」によりはぐくまれたといわれています。 「鉄腕アトム」への憧れが、多くの科学者誕生につながり、「アトム」を作れを合言葉に、日本のヒューマノイド型ロボット開発を、世界一に押し上げました。
原作者の手塚治虫先生は、1989年2月9日に急逝されてしまいましたが、アトムは今も私たちの心に生き続けています。

参考;図説 鉄腕アトム 森晴路 著
僕はまんが家  手塚治  著