NHKの連続テレビ小説『あさが来た』が、好調に後半を迎えました。スタート時は初の「ちょんまげ朝ドラ」で、幕末から維新を武士ではなく商人の視点から描き、商都・大阪の舞台設定も新鮮ですね。大いなる足跡を残しつつ、これまであまり知られていなかった広岡浅子(ドラマでは白岡あさ)を、同じくNHKの『八重の桜』の新島八重、『花子とアン』の村岡花子らとも重ね合わせながら、その実像を掘り起こしてみましょう。

広岡浅子が闊歩した土佐堀川の現在
広岡浅子が闊歩した土佐堀川の現在

幕末から明治・大正へ、女たちの奮闘ぶりがドラマで蘇る

『あさが来た』のヒロイン・あさのモデル・広岡浅子の生家は、江戸から続きのちの三大財閥となる、三井家の家系。ドラマで描かれているように、ぼんぼん気質の夫に代わり、傾きかけた嫁ぎ先の豪商「加島屋」の屋台骨を背負います。「嫁してみると、富豪の常として主人は万事を支配人にまかせて、自分は日ごと遊興にふけっている」「これでは永久に家業が繁盛できるか疑わしい。一家の運命を双肩に背負って私が立ち上がらなければならない」と決心したと、浅子自身が言葉に残しています。
一方、2013年の大河ドラマの『八重の桜』のヒロイン新島八重は、浅子とたった4歳違い。幼少から、裁縫よりも家芸の砲術に興味を示した娘でした。会津戦争で新政府軍と戦い時代に翻弄されながらやがて女子教育家となり、キリスト教伝道にも関わる八重の人生。「九転十起」を座右の銘とした浅子の姿とも、共振します。そして2014年の朝ドラ『花子とアン』のヒロインのモデル・村岡花子は二人より半世紀近く後に誕生しますが、やがて晩年の浅子と巡り会うのです。

五代友厚が誘致に関わった造幣寮(現:大阪造幣局)
五代友厚が誘致に関わった造幣寮(現:大阪造幣局)

逆境に負けず、世間の目もものともせず、心優しき夫に率先して進む女たち

三人の生涯のほんの一部を年表で追ってみましょう。
広岡浅子を●、新島八重を◇、村岡花子を☆、社会の出来事を※でマークしています。
[西暦][人・社会] [出来事]
1845 ◇八重   山本八重(のちの新島八重)、会津藩に生まれる。
1849 ●浅子   三井浅子(のちの広岡浅子)、京都油小路出水家三井高益の四女として誕生。
1851 ●浅子2歳 広岡信五郎10歳と婚約。
1853 ※      黒船来航。翌年、日米和親条約締結。
1862 ●浅子13歳 親から読書禁止を言い渡される。
1865 ●浅子16歳 大坂の大両替商・加島屋の広岡信五郎と結婚
1867 ●浅子18歳 加島屋、新撰組に400両を貸す。※大政奉還。
1868 ●浅子19歳 加島屋、幕府へ「非常御用途御備金」300万両。
1868 ◇八重23歳 鳥羽・伏見の戦い。鶴ヶ城での籠城戦で八重は断髪・男装、銃を片手に入城。
1869 ◇八重24歳 八重の兄・覚馬が京都府の顧問に就任。2年後、八重らも京都へ。
1869 ●浅子20歳 加島屋の大名貸しが焦げ付き、浅子が資金回収などに奮起。
1875 ◇八重29歳 八重を「ハンサム・ウーマン」と讃えた新島襄と婚約。同年、同志社英学校開校。
1876 ◇八重30歳 洗礼を受け、襄とクリスチャンの結婚式を行う(京都初)。
1877 ◇八重31歳 同志社分校女紅場(のちの同志社女学校)開校時に礼法の教員となる。
1876 ●浅子27歳 娘を出産。※三井銀行(日本初の私立銀行)開業。
1885 ●浅子36歳 筑豊の潤野炭鉱を買収、炭坑開発に着手。海外輸出を試みる。※五代友厚、没。
1888 ●浅子37歳 「加島銀行」設立。初代頭取は広岡久右衛門正秋、信五郎は相談役。
1889 ●浅子38歳 「尼崎紡績(現・ユニチカ)」設立。初代社長に信五郎が就任。
1890 ◇八重45歳 夫・襄が永眠。日本赤十字社正社員となる。以後奉仕作業に勤しむ。
1892 ●浅子43歳 綿花調達会社「日本綿花(現・双日の前身)」設立。信五郎が発起人の一人。
本社ビルは五代友厚の屋敷(現在の日本銀行大阪支店)の隣接地。
広岡浅子について知られていなかったのは、当時女性が加島屋の代表者になることは法律上認められず、事業の代表者はすべて、夫や義弟正秋の名義で記されたことも理由のひとつでしょう。ドラマと同じく、温和で浅子に理解を示した夫・信五郎と始終仲良く、義弟の加島屋当主・正秋とともに加島屋の再建に奔走した浅子。「加島屋の興廃得喪に関わることは、すべて浅子の裁断を待たざるべからざる仕組み」と、当時の雑誌にも書かれた程の女傑でした。
「狂気扱いされた」と本人がのちに語ったほどの冒険的事業を手がけ、潤野炭鉱のてこ入れ後は、数年で産出量を急増させた浅子。金融、資源、素材事業を、周りを巻き込んで次々に成功させていく手腕は、浅子自身が語ったように、眠る時間を削って一心不乱に独学で勉強し、現場で体当たりして得た賜物でした。

大同生命大阪本社ビル
大同生命大阪本社ビル

広岡浅子と村岡花子の出会いは、いつどこで?

三人の人生を続けて追いましょう。彼女たちは教育や社会貢献、そして文化発信に邁進していきます。
1893 ☆花子    村岡花子誕生。2歳で洗礼を受ける。
1895 ※       日清講和条約締結。「たけくらべ」(樋口一葉)発表。
1896 ●浅子47歳 成瀬仁蔵と出会う。著作『女子教育』に感動し、日本初の女子大学創設に奔走。
1901 ●浅子52歳 4月、日本女子大学校開校。
1902 ●浅子53歳 大同生命が誕生。広岡正秋が初代社長。
1903 ◇花子10歳 東洋英和女学校に編入学。その後10年間を寄宿舎で暮らす。
1904 ●浅子55歳 夫の信五郎没。浅子、事業から引退し娘婿に譲る。※日露戦争開戦。
1905 ◇八重45歳 日露戦争で篤志看護婦として従軍。
1911 ●浅子62歳 キリスト教に入信、日本キリスト教中央委員になる。
1913 ☆花子20歳 東洋英和女学校高等科卒業。卒業式で学年代表の卒業論文を発表。
1914 ●浅子64歳 御殿場の避暑別荘で夏季勉強会を開催する。
1914 ☆花子23歳 山梨で教員中に勉強会に参加。以降執筆活動に重点を置き、作家を目指す。
1919 ●浅子70歳 (数え年は71歳)1月、東京・麻布材木町別宅にて死去。
1923 ☆花子30歳 震災で夫の福音印刷が倒産。多額の負債を抱え、実家と自分の家計を背負う。
1932 ◇八重86歳。急性胆のう炎のため永眠。同志社社葬。
1952 ☆花子59歳 『赤毛のアン』を出版。以降、昭和34年まで10冊のアン・シリーズを翻訳出版。

晩年の広岡浅子と若き村岡花子は、キリスト教の団体を通じて出会いました。浅子は社会に貢献できる若い女性を選び、御殿場二の岡で夏季勉強会を開いていたのです。当時、山梨英和学校で教師だった花子。のちに「この自分が作家を志したのは二の岡で過ごした夏であった」と振り返ったように、教師を辞め上京して編集者となり、戦後『赤毛のアン』を翻訳出版します。のちに女性運動のリーダーとなる市川房枝も、この勉強会に志願して参加していました。
会津のために新政府軍と銃を携えて闘った新島八重も、やがて彼女を「ハンサム・ウーマン」と讃えた同志社大学創立者・新島襄と結婚し、ともに教育の道を歩みます。広岡浅子と新島八重と間に実際の関係はありませんが、日本女子大学校の初代学監・麻生正蔵は、新島襄の教え子でした。
大隈重信は広岡浅子について、「男子も及ばぬ多大な力を発揮した。その精神と人格は永久に生きていくことを信じる」と語りました。後世の私たちはドラマを楽しみながら、維新後の女性たちが遺してくれた精神を、心に刻んで行くことでしょう。

参考文献:
『超訳 広岡浅子自伝』KADOKAWA/中経出版 (2015/8/27)
別冊宝島『広岡浅子の生涯』宝島社 (2015/9/4)