全国各地の寺社に多くの人がおしかける初詣。ランキング上位は毎年ほぼ固定されていておなじみの名前がずらり。全国トップの東京の明治神宮に続き、二番目に多いのが千葉県の成田山新勝寺。明治神宮や三番目の神奈川県・川崎大師平間寺が都心や都心からそう遠くない位置にあるのに対して新勝寺はかつては江戸から三日がかりの都心からかなり遠い場所。にもかかわらずお寺では全国一の参拝者が訪れるのはどうしてでしょう。その人気の所以と、開基千有余年の歴史に隠れた知られざる新勝寺の秘密、謎に迫ります。

成田山っていつごろから人気なの? 江戸元禄から始まる出開帳と市川團十郎の信仰で高まる成田山ブーム

成田山の開基は平安中期940年(天慶3年)、その前年に勃発した平将門の乱(天慶の乱)を調伏するため下総国公津ヶ原(現在の成田市並木町)で不動護摩の儀式を行ったのか開基とされています。JRと京成の成田駅から朱塗りの太鼓橋「開運橋」を渡ると、数々の飲食店や旅館、造り酒屋や漢方薬店、土産物屋の立ち並ぶ活気ある大規模な門前町、総門と仁王門をくぐった先の広大な敷地内には、修験の滝を懐に抱く成田山公園を背景に重要文化財の伽藍や塔がたちならび、ゴマ炊きの火と参拝者は絶えることがありません。
成田周辺はかつて皇室の御料牧場があり、現在はそれが成田空港になっていますが(御料牧場は栃木県那須に移転)それ以外はニュータウンが混在する郊外の素朴な農村。そんな中に、全国でも有数の参拝者や観光客が押し寄せる巨大な信仰スポットがあるのも少し不思議ではありませんか。
成田山が今のように人気のお寺になったのは江戸時代のこと。
江戸歌舞伎の花形役者・初代市川團十郎(だんじゅうろう)が子宝に恵まれず悩んでいました。團十郎の父・堀越重蔵の出身地にほど近い成田山新勝寺で願掛け勤行をおこなったところ見事跡取りを授かり、團十郎はこれに報謝して元禄八年 (1695年)『兵根元曽我(つわものこんげんそが)』 『成田不動明王山』を上演、大ヒット。
元禄十六年には成田山の出開帳が江戸城下で行われ、初代團十郎はこのイベントに合わせて『成田分身不動』(胎蔵界不動)を初演、これがまた大当たりとなり、以後「成田屋」(市川團十郎)にあやかり一躍成田山は江戸っ子に人気の参拝地に。その後も何度も出開帳が行われ、あまりの人気に現在の江東区門前仲町に深川不動尊が「成田山御旅宿」として分霊を招いて開基されるわ、堀田家の城下町だった佐倉に通ずる「佐倉街道」が、その先にある成田山参拝のために「成田街道」(現在の国道296号線)と名を変えてしまうわ、というほどの勢いでした。
そして江戸時代が終わった後も、新勝寺の「身代わり札」が「鉄砲玉から身を守る札」として出征軍人・兵士に厚く信仰されました。
現在も本尊不動明王の神徳にすがる庶民の信仰の場として変わらぬ隆盛を誇っています。

日本三大悪人・三大怨霊とされる「鬼王」平将門を調伏した寺として名をはせる新勝寺。でもどうして「鬼は外」と唱えないか

ところで成田山というと恒例の節分会の豆まきも有名です。
毎年大相撲の関取や有名人・芸能人が豆まきをして全国ニュースとなりますが、特にNHK大河ドラマのその年のメインキャストが勢ぞろいで豆まきするのが恒例。でも一度だけ、大河ドラマの役者さんたちが参加しなかった年がありました。1976年、その年の大河ドラマは平将門を描いた「風と雲と虹と」。成田山は開基そのものが将門調伏であり将門の「怨敵」ともいわれ、こうしたジンクスを気にして成田山の豆まきに参加しなかったのです。
また、将門を信仰する神田明神を産土とするお城下町の生粋の江戸っ子は、成田山にお参りしない、といわれています。
でもこれ、ちょっと変じゃないですか?
前の項で、江戸時代に新勝寺は出開帳が行われるたびに大変な人気を集め、江戸っ子の大人気の参拝地になった、と書きました。そう、「生粋の江戸っ子」は、新勝寺の分霊をわざわざ招くほどの成田山ファンだらけだったのです。どういうことでしょう。
平将門とは桓武天皇を始祖に持つ平安時代の下総(千葉県北部・東京茨城埼玉の一部)の豪族。上総、下総、常陸一帯を支配していた一族の所領地争いが常陸の源家を巻き込んで内乱が生じ、無敵の武勇で対立する親戚や常陸源氏らを駆逐掃討してしまった将門は、従兄弟にあたる平貞盛(平清盛の祖先に当たります)の讒言と罠により、朝廷への反逆者へと仕立て上げられます。追い詰められた将門は関東一円の国衙(こくが)を襲撃して国司を関東から締め出し、新皇を称して独立を宣言します。
ふるえあがった朝廷は各地の有力寺社に褒章を約束して呪殺を命じ、延暦寺や東大寺などは積極的にこれに参加。一方で追討軍が組織され、平貞盛と下野の豪族藤原秀郷(俵藤太)の連合軍が追討の先遣隊として将門と戦います。
農民兵がほとんどだった将門軍は農作業の時期に入り、直属の眷属以外の軍を解散した将門は先遣隊に討たれてしまいます。すると各地の有名寺社は「われらの祈祷こそ神風となりて朝敵を倒した」と手柄顔。朝廷は呪殺に勲ありとして伊勢神宮、宇佐神宮、賀茂神社、石上神社、住吉大社、春日大社、など有名寺社に新たに領地などの恩賞が与えました。将門調伏をおこなったのは成田山だけではなく、全国の有名寺社はこぞって将門を呪い殺そうとしていたのです。
でも現在それらの寺社が、「将門調伏の寺/神社」として名をしられているということはありません。
実は「神田明神を信仰するお城下町の江戸っ子は成田山にはお参りしない」というのは、派手に出開帳興行を打つ成田山の人気にやっかんだ在来の江戸の寺社が対抗策として流したネガティブキャンペーンだったのでは、という説があります。よそから来て氏子檀家をかっさらう島あらしのような真似をされては、在来寺社はそりゃ面白くないですよね。そこで、「何だ成田山なんて、俺たちの英雄将門公を呪った敵方の寺じゃねえか。そんなところになびくやつは江戸っ子じゃねえ。しかも将門公の地元の下総の寺のくせにふてえやつだ」という理屈で喧伝したというわけです。
こうして、成田山といえば将門調伏、新勝寺は将門の敵、というイメージは定着。現在の人々もそうだと信じ、当の新勝寺も開基縁起でそれを謳ってすらいます。
でももしそうだとしたら、豆まきのときに「福は内」とだけ唱え、「鬼は外」といわない成田山の豆まき行事はそれと矛盾します。将門の幼名は実は「鬼王丸」といわれ、桁外れの武力と腕力を誇る「鬼」として描かれることがあるからです。朝廷にまつろわぬ者=鬼なのですから、歴史的に見ても将門は典型的な「鬼」でしょう。新宿区の職安通りに鎮座する稲荷鬼王神社は、表向きは稲荷神(宇賀神)を祭っていますが、豆まきの際には「福は内、鬼は内」と唱えるのです。野の鬼王神社を勧請したという縁起も怪しく(熊野にそのような神社はありませんし、全国にも他にこの社号はありません)やはり鬼王丸、つまり将門を祭っているというのは公然の秘密。
それと並んで「鬼は外」ととなえない(そのほかにも、奈良・吉野南朝の寺・金峯山寺((きんぷせんじ))も同様です。)特異な成田山の豆まき。鬼王神社と同じく、本当は成田山は将門を呪う寺ではなく、その逆なのでは。

清瀧権現堂、光明堂、そして奥の院。成田山に輝く謎の妙見の星

「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)といふ。」(日本書紀神代下第九段)
かつて日本では、「星」というのは禍々しいものの象徴とされてきました。朝廷・王権にまつろわぬ異界異形の悪鬼を星に重ねていたのです。そんな「星」が信仰の対象になるのは、上代から中世に移行して後、妙見(北斗七星)菩薩を東国の武家・千葉氏が信仰するようになってから。
成田山の数多い伽藍の中に「清瀧権現堂」があります。これは成田の「地神」を祭るとともに、本来は水神を祭るのですが、なぜか成田山では妙見菩薩を祭っています。現在の二代前の本堂だった「光明堂」では、「星供」と称する星祭りが行われ、やはり妙見信仰が。ちなみに妙見菩薩は、将門が危地の折、突然現れて救い出したという逸話もあり、将門と深いかかわりがあります。そして妙見信仰の千葉氏は、将門の子孫なのです。
さらに光明堂の裏手にある「成田山奥の院」。ここでは不動明王の本地仏(本来の姿)大日如来を祭っていますが、奥の院の祭りとして七月に毎年成田の門前町で繰り広げられる「成田祇園祭」では、祇園祭の本来の八坂神=素戔嗚尊(スサノオノミコト)ではなく、湯殿山権現を祭るためとなっています。
この湯殿山の神は、神田明神の主祭神と同じ(大己貴神、少彦名命)。そう、将門をあれほど厚く信仰する神田明神と成田山のもっとも大切な奥の院の神が同じなのです。湯殿山権現はJR成田駅にほど近い門前町通りの片隅に、ひっそりと成田山の管理地としてたたずんでいます。
敷地内は「関係者」以外は一切立ち入り禁止の絶対聖地となっていて、24時間門扉を開いて誰もがいつでも訪れることのできる成田山の中では特異な場所なのです。
成田山は将門の子孫である千葉氏の地元。そして、成田のお隣の佐倉の将門町こそ、将門の出生地といわれています。表向きこそ「将門調伏を成し遂げ平定した力強いお不動」という建前を取りながら、その実敷地のもっとも聖なる場所で、千葉氏の始祖にして関東の守り神である平将門を表からはわからないかたちで祭り、その魂を鎮めているのではないのでしょうか。

毎日護摩炊き勤行が行われている大本堂のご本尊不動明王。この不動明王自体が平将門その人だという説もあります。もちろんこんなことをお寺のお坊さんにたずねても、笑ってとりあってはくれないでしょう。
しかし、数々の重要文化財を一切拝観料も取らずに見せてくれる成田山のあけっぴろげのおおらかさは、訪れるたびにどこか平将門という英雄の、語り継がれる素朴で懐の大きな人物像と重なるところがあるように感じます。
さて後半では、成田山とその周辺の自由実度満点のグルメスポット、見所などをご紹介しようと思います。