いよいよ年の瀬。12月26日から冬至の次侯「麋角解(さわしかつのおる/びかくげす)」となります。今年最後の七十二候ですね。意味は「麋」が角を落とす、という意味ですが、この「麋」(び/さわじか)とは? 辞書で調べると「大鹿のこと」とあります。大鹿って、普通の鹿とはちがうのでしょうか? そして、鹿って冬至のころに角が生え変わるものだったでしょうか? 七十二候の中でも特に腑に落ちないこの不思議な時候について、調べてみました。

鹿のつがい
鹿のつがい

ムース? 馬鹿? それとも? 麋とは誰のこと?

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の  声聞くときぞ 秋は悲しき <猿丸大夫>
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる  <皇太后宮大夫俊成>
鹿というと百人一首の中にもうたわれ、王朝の意匠にはたびたび鹿の姿も描かれていますし、奈良公園の興福寺・春日大社の神鹿を思い浮かべる人も多いでしょう。
日本人にとっては鹿はなぜかとても近しい大型野生動物。なので、鹿の角の生え変わりについてもよくご存知の方も多いのではないでしょうか。
ニホンジカの場合、生後1年で枝分かれのない1本角が生え、2年目で1叉(さ)2尖(せん)(とがったところが2カ所)に、3年目に3叉4尖の成獣の角になります。
ただし角の枝分かれと年齢の関係は絶対的ではなく、2歳でも一尖の個体もいれば、ときに3叉4尖のりっぱな角をつけるものもあったり、また成獣になったあとに体調その他により枝分かれが減る場合もあるとか。
基本的には年毎により長く、大きくなっていきます。
そして、角が落ちるのは春先で、年末のこの時期ではないんです。
興福寺の鹿の角切り行事も10月、鹿の恋の季節の前に雄同士が角で傷つけあうのを予防するために角切りが行われます。やはりこの時期ではありません。
とすると麋は、ニホンジカとは違う種類の鹿のはず。「大鹿」というくらいですから、並みの鹿より大きな鹿です。そこで麋をヘラジカ(ムース)やヨーロッパ赤鹿(エルク/ワピチ)、はたまたトナカイ(カリブー)とする説もあったりします。
実際、馬よりはるかに大きなヘラジカやトナカイは、秋の繁殖期が終わった初冬に角を落とすので、時期的には近いかもしれません。が、そもそも七十二候のもととなった中国にはヘラジカやトナカイは住んでいません。
なので、麋とするのは相当無理のある説です。中国で「马鹿(馬鹿)」という名になるアカシカ(日本のような侮蔑の意味はありません)は、満州やシベリア、モンゴル付近などに住んでいますから、中国でも知られていたかもしれませんが、いわゆる中原にはおらず、また角の生え変わりの時期は冬の終わりから早春なので時期もちがいます。ですからこれも違うのでは。
中国に住んでいて、普通の鹿より大きく、冬至の時期に角を落とす鹿、という条件にぴたりとあてはまる種類がひとつだけあります。「体はロバ、ひづめはウシ、首はラクダ、角はシカ」であるとか「顔はウマ、尻尾はロバ、ひづめはウシ、角はシカ」ともいわれる伝説の珍獣シフゾウ(四不像)です。
実はこの「シフゾウ」というのはもともとは麒麟や竜のような空想上の生き物で、日本にはその名で輸入され、知られるようになりましたが、中国本土では麋鹿(ミールー)というのが正式名称。そう、麋です。
シフゾウはアカシカよりは小柄ですがニホンジカ(中国など大陸にもいます)よりは大きく、角を落とすのも冬至のころ。麋はシフゾウで間違いないでしょう。清の時代にはほとんど絶滅しかけ、今でも絶滅危惧種のシフゾウ。かつては中国の広い地域で、普通に見られ、親しまれていたのかもしれません。

シフゾウ
シフゾウ

角があるのもわけがある。鹿角四方山

ところで鹿の仲間はみんな毎年角を落とすのですが、これは鹿の角が牛のように骨芯の伸びたものではなく、皮膚が変化して硬くなった爪と同じ形質のものだから。
生えかけの「袋角」と呼ばれる産毛に覆われた時期には、成長のために血管がめぐっていて栄養を送り込みますが、伸びきると血液の供給は止まり、角質化します。
この角は、雄の雌に対するアピールともなり、またライバルの雄とチャンバラのように力を競い合う武器となります。先述したヘラジカは、独特のへらかショベルのような平たく巨大な角を持っていますが、この角は繁殖期に戦いのためではなく別の機能があります。ほとんどの鹿は雄が盛んに雌を呼んで鳴くのですが、ヘラジカの場合は雌が雄を呼びます。広大な平原で、遠方のメスの鳴き声を聞き漏らさないためのパラボラアンテナの役割を、角が果たしているのです。
一方、トナカイは鹿の仲間で唯一雌にも角があるのが特徴。これは、ツンドラ地帯の冬、子育てをする雌が角で雪を掻き分けて地衣類を食料とするため。ですので、雄は多くの鹿と同様春に角が生え、冬に角が抜け落ちますが、雌は逆に冬に角が生えてきて初夏に抜け落ちるのです。サンタのそりを引いている立派な角のトナカイは、雄ではなく雌なのかもしれませんね。ちなみに「トナカイ」というのはアイヌ語のトゥナカイが語源。日本でも北方には昔はトナカイが住んでいたのでしょうね。

トナカイ
トナカイ

奈良公園の芝草に腰を下ろせば鹿の・・・傍若無人の彼らか神様である所以

吉永小百合の名曲(?)にあるとおり、見た目のかわいらしさや愛嬌で愛されている反面、増長した一部の神鹿様たちのおふるまいに心中腹を立てている地元民や旅行者の談話も漏れ聞きます。
どうして奈良公園には鹿がたくさんいて、また信仰の対象なのでしょうか。
興福寺は王朝時代に権勢をふるったかの藤原氏の氏寺、春日大社は氏神。そして奈良時代、常陸の国(茨城県)の鹿島神宮が、常陸から春日大社のある三笠山に勧請されたとき、鹿島神宮の主神である武甕槌命(タケミカヅチ)が白い鹿に乗り降臨した、というのは有名な逸話ですよね。
藤原氏が「中臣氏」として東国に赴任していた時代に、地元の氏神であった鹿島神を信仰することで人心を掌握して、やがて中央朝廷に帰り咲いたことを感謝して、鹿島神宮を勧請したという説もあるのですが、実際はそれほど単純な話ではなく、春日大社の「春日」とはもともと古代氏族春日氏(和邇氏)に由来し、藤原氏はその配下の氏族だったようなのです。
春日氏(和邇氏)は、大和朝廷でも天皇とのもっとも近い縁戚として多くの皇后を出した名家なのですが、仲哀天皇・神功皇后が襲討伐に九州へ赴いた際、まず臣下に下った武振熊という豪族の子孫なのです。そしてこの武振熊が大和朝廷で水軍の指揮をにない、東国平定に赴きます。当時「香取の海」といわれていた広大な内海周辺には、「大海上国」といわれる国があり、その地元豪族との交戦の際に拠点となったのが現在の香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の東国三社のある地点でした。筆者の住まいのごく近所にも、「阿蘇」「高千穂」といった九州の地名があったり、九州と共通する宗像神社が数多くあったり、また佐賀県には鹿島という地名、福岡玄界灘には「志賀島(しかのしま)」という島があり、古代に九州から水軍が来て、常陸・上総・下総で地元豪族と戦ったということをつよくうかがわせます。滋賀県も、春日氏、和邇氏の一族の拠点であったといいます。シガと鹿とが重なります。藤原氏はこの春日氏の拠点や権力をたくみに奪って、取って代わったわけです。
また、藤原氏はもともと「太占(ふとまに)」という古代占術をつかさどる一族で、その占いには鹿の骨が使われ「鹿占(しかうら)」といわれました。こういう因縁から藤原氏は鹿を信仰し、その権勢が鹿の権威へといつしか重なっていったのでしょう。

奈良公園の鹿
奈良公園の鹿

今年も後のこりわずか。麋鹿、つまりシフゾウは国内では多摩動物公園 (東京都)、広島市安佐動物公園 (広島市)、熊本市動植物園 (熊本市)で飼育され、展示されているようです。
この不思議な珍獣の角が「麋角解」どおり本当に落ちているか、年末年始のお休みに、ご家族親戚で確かめに見に行ってみるのも面白いのではないでしょうか。