日本とブラジル(漢字表記で伯剌西爾)は、1895(明治28)年に「日伯修好通商航海条約」調印により外交関係を樹立し,今年、外交関係樹立120周年を迎えました。両国で各種の記念行事が行われ、10月から11月にかけては、秋篠宮同妃両殿下がブラジルを公式訪問。120周年の締めくくりに、遠くて近い国・ブラジルと日本の関係とブラジルの日系人の活躍について、特に農業の視点からご紹介します。

リオ・デ・ジャネイロ
リオ・デ・ジャネイロ

ブラジルは世界最大の日系人居住地

南半球の国ブラジルでは、12月のこれからが夏の本場。常夏の国とはいえ日本の23倍も広い国ですから、地形や立地によって気候もさまざま。北は寒くて南は暑いという日本とは逆に、ブラジルは北へ行くほど暑く、南へ行くほど涼しくなります。2016年には、南米初となるオリンピックがリオ・デ・ジャネイロで開催されますね。
そしてブラジルは、約160万人にも及ぶ日系人による、世界最大の日系人居住地です。その歴史の始まりこそが、1895年の「日伯修好通商航海条約」。ブラジル政府が、コーヒー園などで働く農業労働者の確保のために日本人の移民受け入れを表明してから3年後の、正式な外交関係の樹立でした。
1908年、日露戦争の海軍戦利品「笠戸丸」で、最初のブラジルへの移民が出航します。新天地を求めて海を渡った人々を待っていたのは、凶作や劣悪な環境の中の、筆舌に尽くしがたい苦難。それでも数年間のうちには、少しずつ作業に慣れたり資金を貯めたりと、自営農として独立する日本人が現れます。やがて彼らは日本人集団地をつくり、親睦・互助のために日本人会を組織するようになります。彼らが真っ先に作ったのは、帰国しても子供たちが困らないようにという、日本語教育による学校でした。

サンパウロ リベルタージ 大阪橋にかかる鳥居
サンパウロ リベルタージ 大阪橋にかかる鳥居

ここにも戦後70年、ブラジル移民のさまざまな苦労が

第二次大戦中は日本とブラジルの国交断絶で、情報が遮断されます。終戦直後のブラジルの日本人社会では、実は日本は戦争に勝ったと信じる多くの「勝ち組」と、敗戦の事実を受け入れる指導者層の「負け組」の間に亀裂が生じます。テロや殺傷事件という悲劇まで起こってしまうのです。
しかし状態が落ち着き1951年に日伯国交が回復すると、日本からの移民の受け入れが再開され、活躍の幅も養蚕、園芸、開発事業、工業などに拡がります。そして「錦衣帰郷」を夢見た一世の人々の多くも永住を覚悟するようになり、子孫のための教育熱もますます高まりました。

紅茶、胡椒、リンゴ、養蚕…多様な生産の物語

ブラジルには、日系移民による、意外な農業関係の生産ストーリーが残されています。
ブラジルは、紅茶王国と言われた時期もありました。1934年にセイロン(スリランカ)で入手したアッサム種種子によってブラジルに紅茶産業を興したのが、紅茶王と呼ばれた岡本寅蔵氏。かれら日系人の手で、1980年代にはブラジルは世界有数の紅茶輸出国となったのです。その後紅茶産業は国際競争力を失ったものの、「天谷茶」をはじめ、祖先が興した茶業の再生に挑む人々もいます。
また、スカーフで有名なフランスの高級ブランドは、ブラジルの「ブラタク製糸」の生糸の品質を高く評価し、シルク製品の原料の多くを仕入れています。この会社は、日系移民らが日本の養蚕、製糸技術を導入して発展しました。ブラジルは現在、世界最高品質の絹の生産国の一つなのです。
また、ジュート麻と胡椒は、日系移民の貢献によってブラジルの新産業の作物となり、輸入していたリンゴは「フジ」の導入によって輸出作物となりました。花卉については、サンパウロなど都市近郊の花卉農家の大半は日系農家であるといわれています。

ブラジルの農場・大豆畑
ブラジルの農場・大豆畑

「Japones Garantidoジャポネース・ガランチード」

現代でも、ブラジルの「不毛の大地」と呼ばれたサバンナ「セラード」地帯が、国家プロジェクトとして四半世紀をかけ、南半球最大の農業地帯に生まれ変わりました。この陰では日系移民と日本の協力がありました。特に大豆の品種改良による生産拡大は画期的で、日本は、ブラジルからの大豆輸入が増加しつつあります。
今ではブラジルでは「Japones Garantidoジャポネース・ガランチード」(日本人であれば信頼できる、信用するに値する)という概念が確立しています。ブラジルの日系人は農業関連のみならず、その勤勉さと教育水準の高さから政界や官界、経済界、芸術、文化、スポーツ等を含む多様な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献しました。大変な苦労の末に大きく花開いた移民の方々のエネルギッシュな偉業を、農作物など身近な例からも、感じていきたいものです。