ニッキ水やラムネ、梅ジャムにソースせんべい、酢こんぶ、あんず棒 etc.……どれもこれも昔懐かしい「駄菓子」ばかりですね。
日本全国の「香りのある地域」から選定された、環境省の「かおり風景100選」には、埼玉県の「川越の菓子屋横丁」も選ばれています。
一方で、昔ながらの駄菓子屋さんが減っているのはご存じの通り。かつて身近な存在だった駄菓子ですが、現在では観光地などの特別な場所で楽しむお菓子になってきているのかもしれません。
江戸から明治、そして昭和へ……駄菓子の辿った道程を辿ります。

近代化とともに普及し、発展してきた駄菓子の文化
近代化とともに普及し、発展してきた駄菓子の文化

とびきり上等ではないけれど、庶民にとって身近なお菓子

奈良時代までの日本で、「菓子」といえば果物か木の実を指していたとか。その後、甘葛やはちみつを使ったお菓子や、中国から伝わった揚げ菓子などが出まわり始めました。
やがて茶の湯が流行すると、本格的なお菓子が作られるようになります。しかし、お菓子に欠かせない白砂糖は、当時は大変な高級品。それを使ったお菓子を口にできるのは上流の人びとに限られていました。
江戸の中期から後期になると、国産の白砂糖の増産などもあって、砂糖の価格が低下。飴玉、まんじゅう、きんつば、大福……などなど、庶民の手が届くお菓子が次々に登場しました。
街道の整備などにより、人やモノの移動が増えたことも、お菓子の普及にかかわっていたようです。限られた地方でしか食べられていなかった菓子が、町でも出まわるようになりました。菓子の消費が増えたことで、菓子づくりを生業とする職人も登場します。そんな中、唐菓子、南蛮菓子などの要素もミックスされ、駄菓子の原型にあたるものが作られていったと考えられています。
「駄菓子」という言葉の語源は定かではありませんが、田んぼや山仕事に持っていく「田菓子」からきているのではないかともいわれます。
当初、駄菓子はほとんどが行商で売られていました。それが、明治・大正時代になると店を構えるようになり、「一文菓子屋」「一銭菓子屋」と呼ばれるようになっていったのです。

近代化や世相と結びついて発展した「駄菓子文化」

明治維新が起こり、社会の近代化が進む中で、大都市へとたくさんの人びとが流入しました。
生活の西欧化も進み、欧米で菓子づくりを学んだ人びとによってビスケットやチョコレート、ドロップなどが次々と紹介されました。
19世紀終わりから20世紀初めにかけて、日本の統治下に置かれた台湾、パラオ、サイパンなどでは製糖が盛んに行われ、砂糖が潤沢に供給されました。供給が安定することで価格も下がり、お菓子の種類も増えていきます。
都市の風俗・文化が形成されていく中、駄菓子屋も隆盛の時代を迎えたようです。
「大人はみな働き手」という家が多く、小銭を与えられた子どもが向かうのは駄菓子屋でした。そうして、年長の子どものやることを見ながら、品物の選び方やお金の数え方などを覚えていったのです。
第二次大戦が終わり、砂糖の統制が撤廃されると、駄菓子屋は再び輝きを取り戻します。戦後復興に向けて大人たちが必死に働いていた昭和20~30年代、子どもたちの遊び場として駄菓子屋さんが人気を博していたのです。
その後、大手製菓メーカーによる業界再編や、スーパーマーケットの登場などにより、駄菓子を取り巻く状況は変化していきます。職人が手作りした菓子を、小規模な卸売業者が仕入れ、駄菓子屋の店頭に並べる……。こうした昔ながらのやり方が、少しずつ消えていきました。
現在、スーパーやコンビニなどで見かける駄菓子は、卸売業者さんが特別なブランドとして扱っているケースが多いようです。
── ここにはとても書ききれませんが、一つひとつの駄菓子にも、たくさんの物語があります。
二銭、三銭で購入できた時代もあり、子どもの小遣い銭で買える安価なものでありながらも、今となっては、大人にとって贅沢かつ郷愁あふれる駄菓子。こうした愛おしい文化は、ぜひ後世に伝えていきたいものですね。
参考:松平誠「駄菓子屋横丁の昭和史」、角田武/鳥飼新市/武居智子著「駄菓子大全」、SHINKIGEN BOOKS「今どき駄菓子大図鑑」

小江戸川越の菓子屋横町
小江戸川越の菓子屋横町