次第に深まりゆく秋、文学散歩にはうってつけの季節です。
江戸時代には隠居所として「根岸の里」と呼ばれた東京・鶯谷周辺は、日本近代文学の中心地でした。
現在はラブホテルが林立するエリアに様変わりしていますが、根岸からすこし足をのばすと、明治の文学者や芸術家らが多く眠る谷中墓地もあります。
──好天日に、文庫本片手に文学史跡を訪ねてみませんか。

広大な敷地に膨大な数の石碑が残る谷中墓地
広大な敷地に膨大な数の石碑が残る谷中墓地

正岡子規と日本文学

まずは俳人・歌人として知られた正岡子規(まさおか・しき 1867-1902)。
36歳の若さで病に斃れた子規は、その短い生涯に日本文学史の画期となる仕事を多く残し、生涯で約2万4000もの俳句を作りました。
現在の日本の文学のあり方は、子規が手がけたさまざまな文学的な試みに大きく影響されています。
四国・松山に生まれた子規は、東京に出てきて(受験勉強のために共立学校〈現・開成高〉に入学)、新聞社に勤務しながら、まずは俳句の革新から始めます。
それまでの俳句は、「月並俳句」と呼ばれ、パターン化した言葉を形式的に並べるものが多く、マンネリ化していたのですが、子規は物事を素直に見つめる「写生」という方法論を提唱し、日常の風物の新鮮な感性でとらえ直すことを主張しました。
その後もやはり江戸時代以来形式的になっていた短歌の革新に着手します。
それまで歌人たちがバイブルとしてあがめていた『古今和歌集』を否定するなど、次々に過激な持論を発表します。

子規が晩年に詠んだ〈柿くふも今年ばかりと思ひけり〉
子規が晩年に詠んだ〈柿くふも今年ばかりと思ひけり〉

根岸の子規庵と書道博物館

子規は30歳頃から、結核を発症し、33歳頃からは寝たきりになってしまうのですが、病床でも、子規の文学への熱意は収まることなく、病床での日常をつづった「墨汁一滴」「仰臥漫録」などの随筆を書き続けます。これらの随筆は、裸の人間の飾りのない叫びのようなもので、現在の私たちの心も打ちます。
そんな子規が過ごした「子規庵」が山手線の鶯谷から歩いて5分ほどの住宅街の中に残っています。
建物は空襲で焼けてしまったため、戦後の復元になりますが、現在一般に公開されており、子規の生活ぶりを偲ぶことができます。
小さいながら、子規が楽しんだ草花が植えられた庭も見ることができます。
子規が亡くなったのはちょうどこの季節、9月17日でした。

秋の好天日は文学散歩に最適

子規庵の前に立っているのは「書道博物館」。 中国・日本の書道資料数万点を保存公開する書道専門の美術館です。
この資料を収集したのは、子規と親交が深く、夏目漱石の小説の挿絵を担当したことでも知られ、画家・書家としても活躍した中村不折(なかむら・ふせつ 1866-1943)です。不折の書いた新宿・中村屋のロゴは有名でしょう。
根岸からすこし足を伸ばすと、上野公園、根津神社、明治の文学者や芸術家らが多く眠る谷中墓地があり、近辺には豆腐料理の名店などもあります。
週末、空が爽やかに晴れ渡ったら、明治の文学や美術などの分野でさまざまに苦闘した人物を偲んで、秋の文学散歩を楽しんでみてはいかかでしょう。
【子規庵】
住所 : 東京都台東区根岸2-5-11   電話 : 03-3876-8218
アクセス : JR山手線、京浜東北線 鶯谷駅北口より徒歩5分
開庵時間 : 10時30分~12時 (11時40分までに受付)、13時~16時 (15時40分までに受付)
休日 : 月曜(ただし月曜が祝日等の場合、翌火曜)