今宵は中秋の名月。そして、明日28日は今年で一番大きな月が見られるスーパームーンです。
満月が大きくなる日は、普段では見ることの難しい小さなクレーターを見られるかもしれないチャンス!
実は、月面の数あるクレーターのなかに日本人名「Asada」と名づけられたクレーターがあります。
この直径12kmの小さなクレーターは、200年以上前に月面のクレーターを目撃した江戸時代の天文学者にちなんで名付けられたものなのです。いったいどんな人物だったのでしょう?
今宵、その謎の人物像に迫ります。

夜空に静かにたたずみ、数々の神話や童話のモチーフとなった月。月表面のでこぼこがクレーターです
夜空に静かにたたずみ、数々の神話や童話のモチーフとなった月。月表面のでこぼこがクレーターです

月に名前を刻まれた天文学の巨匠

月には“クレーター”と呼ばれる無数のくぼみがありますが、そのひとつひとつは隕石や彗星の衝突によって生まれた跡であり、一点ずつ細かく名前が定められています。
アリストテレス、コペルニクス、ケプラー、ボーア、アインシュタイン、このそうそうたる科学者たちの名前のなかに、アサダ (Asada)と呼ばれるクレーターが存在しています。月の東半球側、「豊かの海」と呼ばれる海域の北端に存在するこの小さなクレーターは、江戸時代を代表する天文学者の一人である麻田剛立(あさだごうりゅう)にちなんで名づけられたものなのです。
江戸の天文学者といえば、ベストセラー小説『天地明察』で話題になった渋川春海(安井算哲)が有名ですね。
V6の岡田准一さん主演で映画化もされ、非常に話題になったので記憶に新しいのではないでしょうか。麻田剛立は、渋川春海が活躍したおよそ100年後の18世紀半ばから末にかけて生きた、同じく近代日本を代表する天文学者として非常に大きな成果を残した人物です。
麻田剛立は数々の偉業を成し遂げましたが、なかでもとくに有名なのが「ケプラーの第三法則」を独自に発見した伝説です。
「遊星周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する」という17世紀ドイツの天文学者であるヨハネス・ケプラーの「第三法則」は、その後、ニュートンが「万有引力の法則」を発見する手がかりとなった科学的にきわめて重要な法則でした。
当時の日本では、この学説がまだ認知されていませんでしたが、剛立が独自の手法によって、この法則と同様の原理をみつけ、その著書『五星距地之奇法』に発表したといわれています。
日本の天文学の草分けともいえる剛立……。
月の“クレーター”にその名前を刻まれるまでにどんなエピソードがあったのでしょうか。あまりにも情熱的で一途な、その人生をふり返ってみましょう。

剛立は、天体の運行法則を解明したケプラーと そっくりな法則を発見!
剛立は、天体の運行法則を解明したケプラーと そっくりな法則を発見!

アマチュア時代に皆既日食を予言!

麻田剛立は、豊後国の杵築藩(現在の大分県杵築市)に誕生。幼少期から神童と呼ばれ、星の名前を正確に記憶し、庭先に竹の棒を立てて太陽が南北に移動する様子を、1年間記録し続けたといわれています。
「太陽は1年間ずっと同じところをまわっているわけではない」という原理に、少年時代にすでに気づいていたというのだから驚きです。
その名声が天下に轟いたのは、プロの天文学者ではなく、太陽の公転周期を独自に研究していたアマチュアの時代、宝暦4(1754年)年、剛立が20歳の頃。
幕府が基準にしていた「官暦」に記載されていなかった皆既日食を1年前に予言し、見ごと的中させたのです。
江戸時代の人びとは日食を吉凶と結びつけて考えており、この不思議な自然現象にとても興味をもっていました。幕府の天文方が予測してもはずれることが多かった日食を、アマチュアでありながら的中させた観測力に多くの人が驚嘆。この出来事は、若い剛立を一躍有名人にしました。

江戸時代の人々にとって皆既日食は、究極の謎であり神秘そのものだった
江戸時代の人々にとって皆既日食は、究極の謎であり神秘そのものだった

日本人として初めて月面の起伏を観測!

その後の剛立は、専門家として天文学を本格的に学ぶようになり、望遠鏡のガラスを自分で磨いて独自の観測装置を製作するなど、天体観測の精度を上げる試行錯誤を重ねます。しかし、当時一般的に用いられていた望遠鏡は口径の小さい屈折望遠鏡であり、観測の精度に限界があったため、天体の細部までを観察することはできませんでした。
安永7(1778)年、オランダ人から、より精度が高く、当時としては極めて珍しい口径の大きな鏡仕立ての反射式望遠鏡を購入することに成功した剛立に、再び転機が訪れます。
剛立は日本で初めてこの高性能な反射望遠鏡を使って月面を観測。西洋式の新しい方法によって、より詳細に月面の風景をとらえることが可能になり、その様子を事細かく図でスケッチ。このとき剛立は47歳、日本人として初めてクレーターを含む月面観測図を描くという二度目の偉業を成し遂げたのです。
反射望遠鏡を通して見た月の地表は、それまで遠目で見ていた月の外観とはまったく異なり、細かい起伏に富んだ驚くべきものでした。初めて月面を見た剛立は「まるで池のようだ」と感嘆していたと伝えられます。
日本人として初めてクレーターを観測した剛立。その偉業を称え、のちに国際天文学連合によって「タルンティウス - C」と呼ばれていたクレーターが、「Asada」として再命名されることになったのです。

剛立が観測した江戸時代も現在も、 月のでこぼこの形はまったく変わらない
剛立が観測した江戸時代も現在も、 月のでこぼこの形はまったく変わらない

リベラルな科学者として後進を育成!

晩年の剛立は、大阪で町医者として働きながら天体観測を続け、やがて「先事館」という天文学を教える私塾を開きました。この日本初の天文塾からは、多数の優秀な弟子が輩出され、弟子が日々天体観測の手法を探求し、議論を交わし合う活気あふれる雰囲気だったそう。
江戸幕府の改暦(寛政の改暦)で功績をあげることになった高橋至時や間重富、『夢の代』という著作で唯物論を展開した山片蟠桃などが代表的な弟子として知られています。実はその後の時代に実測測量による日本地図を作成した伊能忠敬もまた、麻田剛立の孫弟子にあたるとされます。
当時の学問は非常に閉鎖的なものでしたが、剛立の学者としての姿勢は非常にオープンなものだったようです。剛立は日本各地の研究者と交流し、知識を占有することなく進んで人びとに提供しました。ときには月食の観測を、一般の人びとが参加できるように公開イベントにすることもあったと伝えられます。
独学で探求し、自分の眼で観測し、その成果を惜しみなく提供した剛立の姿勢は、日本の科学者として非常に先駆的なものでした。
ちなみに、麻田剛立に関する研究書は多々あり、『月のえくぼを見た男 麻田剛立』鹿毛敏夫著(くもん出版)も麻田の生涯について詳述しています。児童書ですが、大人が読んでも深い内容なので、興味のある方は手にとってみてはいかがでしょう(巻末には剛立が観測した日食・月食記録の年譜も!)。
さあ、今宵は中秋の名月。運よく月を望めたら、クレーター「Asada」を探してみては?

月のクレーターを観察するなら、 この季節が最高!
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