俳句の祖というと松尾芭蕉が浮かびますが、芭蕉が俳諧の発句から俳句へ、進化させた後に開花させた、正岡子規(1867~1902年)の存在は外せないでしょう。
35年という短い人生において、数多くの作品を残しており、秋の花「鶏頭(けいとう)」の句だけで、48句を詠んでいます。中でも、「鶏頭論争」を巻き起こした一句をご紹介して、忌日を悼みたいと思います。

「鶏頭論争」を生んだ名句

【鶏頭の十四五本もありぬべし(けいとうのじゅうしごほんもありぬべし)】 子規
慶応3年に生まれ、明治35年短い人生を閉じた正岡子規(享年35歳)。
彼が明治33年に詠んだ句が【鶏頭の…】です。そのときすでに子規は病を患っており、『病床六尺』から見える限られた景色が、言葉を紡ぐ世界であったことが窺われる一句です。
なぜ、賛否両論を生んだのか…いくつかの説によると、否定派は「他の組み合わせでも作れてしまうのでは?」という意見が多く、肯定派は「病床から見える鶏頭の花とわが身のはかなさを対比した名句だ」と、句に対する視線の違いが見て取れます。どちらにせよ、賛否両論を呼ぶということは、それだけインパクトの強い一句であったことは間違いありません。

鶏頭の燃える色とはかない命

鶏頭の花は、秋に咲きます。最近では秋以外にも咲く品種があるようですが、子規が病床から見た花は、秋に咲く鮮やかな鶏頭だったでしょう。秋、病床に横たわって見える鶏頭の燃えるような色は、いつ果てるかもしれぬ恐れと闘っていた子規にとって、憧れを伴う命の色であり、わが身の内側で燃える心の色でもあったのではないでしょうか。
【鶏頭の十四五本もありぬべし】…実際に数えたわけでもなく、そのくらいたくさんの命の色が子規の心に迫るように咲いていた。強く、強く、この世の、今年の秋を彩って。その2年後、明治35年9月19日に辞世の句に「糸瓜(へちま)」を詠んで、静かに亡くなりました。
…辞世の句・三句の内一句
【糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな(へちまさいてたんのつまりしほとけかな)】 子規
子規の忌日を「糸瓜忌」と呼ぶのは辞世の句から。別に「獺祭忌(だっさいき)」という呼び名もあり、こちらは新聞に連載していた記事のタイトルからとられています。

子規庵とホトトギス

子規は若くして亡くなりましたが、その後の日本文学における多くの遺産を遺していました。
「ホトトギス」を継承した高浜虚子は、子規の写生という俳句の手法をさらに洗練させ、現代俳句の原型を作りました。
また、松山の「子規堂」や東京・根岸の「子規庵」など、子規が居住した場所は名所旧跡として残っています。
東京・台東区の「子規庵」の向かいには、子規に「写生=今、ここ」という概念を気づかせた、中村不折(画家・書家)創設の「書道博物館」もあり、訪ねるだけで明治時代にタイムトリップできそうですね。
近隣には子規が好んだ飲食店もあり、子規庵においては、9月30日まで「第15回特別展 子規の顔(2)」を開催中です。
秋の一日、明治文学散歩で「今、ここ」を感じてみませんか?

《参考》
「子規百句」 坪内稔典・小西昭夫編 創風社出版
「子規庵(東京都指定史蹟)」サイト