元祖建築テーマパーク「三渓園」と、近代横浜の物語 〈tenki.jp〉|AERA dot. (アエラドット)

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元祖建築テーマパーク「三渓園」と、近代横浜の物語

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横浜・本牧の三渓園は、よく名の知られた名庭園。夏に向けても「蛍の夕べ」や「早朝観蓮会」など、季節を楽しめる催事が目白押しです。この風流な庭園は、横浜の近代史に大きく関わり、そして関東大震災後の復興に貢献した、事業家たちの魂の結晶でした。

遥かな時代に思いを馳せる、タイムスリップ気分満点の名庭園

ざっと散策するだけでも、たっぷり一時間はかかる三渓園。17.5haの敷地には、10棟の重要文化財、3棟の横浜市指定有形文化財を含む、由緒ある歴史的建造物が点在します。時代は室町から大正まで、施設は塔や本堂、地蔵堂などから別荘屋敷、茶室、邸宅、民家まで多岐にわたり、遥か京都をはじめ、鎌倉や岐阜からも移築されました。古い木造建築が青葉に映える光景は、まるで時代劇の舞台かと見まがうばかり。庭園の醸し出す、重厚さの中にも気取らない素朴な詫び寂びモードは、三渓園をつくりあげた実業家であり茶人でもあった、原三渓(1868-1939:本名富太郎)の世界観なのでしょう。

三渓園をつくりあげた、原家二代の波瀾万丈

富太郎は婿養子でした。岐阜の豪農・庄屋の家に生まれ、早くから絵画や漢詩を学んだ早熟な少年は、やがて大隈重信に政治・法律を学びます。ところが、助教師となった東京跡見学校で教え子・屋寿(やす)と恋におち結婚したことで、富太郎の人生は一変するのでした。妻の屋寿は、横浜一の生糸商となった原商店「亀屋」創業者、善三郎の孫娘だったのです。
開港直後の活況から横浜の繁栄を予測し、明治維新と共に三渓園一帯の土地を購入していた善三郎は、のちに衆議院・貴族院議員にまで登りつめます。後継者となった孫婿・富太郎は、原商店を会社に改組して近代的事業経営を次々に展開。横浜興信銀行(現横浜銀行)初代頭取に就任し、富岡製糸場を譲り受けるなど製糸業にも進出します。

芸術家のパトロンとして、太っ腹の事業家として

書画骨董の購入を始め、岡倉天心との出会いにより下村観山ら若手画家・歌人たちを手広く支援した富太郎。三渓園の造園や古建築の収集と移築を進めて1906年には、今の外苑エリアを「遊覧御随意」として開園しました。いわば自宅の庭を、市民に無料で開放したのです。画期的なことでしたが、富太郎は花見や紅葉狩りに訪れる人々を、喜んで歓迎したといいます。

「原は、どこまでも横浜と共に」

しかし内苑完成の直後、1923年に日本を襲ったのは、関東大震災。三渓園のみならず、事業にも大きな損害を受けた富太郎は、芸術家たちへの援助や古建築移築をぴたっと止め、横浜市復興会長として、横浜市の復興に全力を注ぐようになります。園内に夫婦で震災孤児のための孤児院も開設し、また生糸危機に直面した蚕糸業や銀行の救済にも奔走。すでに一帯の地名「本牧三之谷」から三渓と名乗るようになっていた富太郎は、「原は、どこまでも横浜と生死を共にしなければならないのです」と家族に語ったといいます。
富太郎の没後、大戦で大きな被害を受けた三渓園は、横浜市民の手で復旧され、2006年には開業百年を迎えました。季節ごとに催事や文化財古建築公開があり、施設を借りて結婚式や茶会もできます。時を経ていっそう見事な四季を彩る庭園を訪れたら、横浜をこよなく愛した事業家たちの、ノブレス・オブリージュに思いを馳せるのも一興かもしれません。

参考文献:
『三渓園―100周年』三渓園保勝会(編)神奈川新聞社 (2006/06)
『原 三溪: 偉大な茶人の知られざる真相』齋藤 清 (著) 淡交社 (2014/7/23)


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