第60回 わたしが一番好きな時期のポール・マッカートニー |AERA dot. (アエラドット)

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第60回 わたしが一番好きな時期のポール・マッカートニー

文・小熊一実

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 ポールがまだ日本にいるという情報が入った。しかも入院している病院が、わたしの仕事場・築地という噂もあり、近いうちにお見舞いにでも行こうかと思っていた矢先、5月26日に極秘に離日していたとのニュースが流れた。お見舞いは早めがよいですね。
 というわけで、ポールに会うことがかなわなかったので、ポールへの思いを書いてみたいと思う。

 ポール・マッカートニーの存在を意識したのは、1966年のビートルズ来日の時だと思う。 はっぴ姿で、その4人は飛行機から降りてきた。日本中が盛り上がっていたのを今でも覚えているが、正直言って小学校4年生だったわたしには、特に気になるニュースでもなかった。だから武道館公演をテレビで放送したときも、家族ではじめの何曲かを観ただけで、チャンネルを変えてしまった。たぶん見た番組は「オバケのQ太郎」だったと思うのだが、曖昧で自信はない。
 父が、「やっぱり興味ないか」とすこしがっかりしたように言ったと記憶しているが、これもはっきりとはわからない。ただ、演奏風景を見て、それからチャンネルを変えたことは間違いない。
 
 ビートルズの音楽をリアルタイムで聴き、いいなと思ったのは、70年の《レット・イット・ビー》だ。中学2年生だった。
 歌っている歌詞が「エルピー、エルピー」と聞こえたので、音楽はシングル盤ではなく、LPを買えと言っているのだ、などと言っていたおばかな子供だった。

 東京の大学に行っている兄を持つK堀君の家に、ビートルズのレコードがあるというので聴きに行った。今でも覚えているのは、『アビー・ロード』と『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の2枚で、当時持っていたモノラルのオープン・テープ・レコーダーに録音させてもらって聴いた。そのすこし後にカセットのラジカセを買い、カセットに録音し直して聴いた。これもまだモノラルのカセットだった。『サージェント・ペパーズ』のジャケットの印象が、特に強かった。バックに写っている人の名前や、福助さんなど、気になることがいっぱいあって、それまでの人生の中で、初めて出会った感覚だった。

 高校に入ると、ビートルズ・マニアの友達ができて、すべてのアルバムを聴くことができた。それどころか、彼らは日本盤と米国盤と英国盤の曲目の違い、音の違いなども教えてくれた。そして、これがジョンの声だ、今のはポールだ、とジョージやリンゴも含め、4人の声を聞き分けられるようになるまで鍛えてくれた。
 今ではひと声聞けば、ジョンの声かポールの声か簡単に聞き分けられるけれど、はじめはどちらの声なのか、まるで区別がつかなかった。聞き分けられるようにならなければ話にならん、と言われた。

 70年4月、ポールがビートルズ脱退を発表したというニュースが流れた。わたしたちの間では、素直に信じることはできないのではないか、という意見が大勢を占めた。
 ジョージもリンゴもレコーディング中に出て行ってしまったことがあると聞いていた。今回も、そんな流れの一つなのではないか。解散するにしても、なぜジョンが発表するのではなく、ポールが言うのだ、などなど。
 そうしてしばらくして、ポールのソロ・アルバム『マッカートニー』が発表された。ポールの熱烈なファンのI泉君が、すぐに買った。そしてみんなに感想を聞かれ、首をひねっていた。「いい曲もあるんだよ……それは認める。でも、かなり散漫かな」

 この頃のことをポール・マッカートニーが語っている映像がある。
『夢の翼』だ。この映像は、ポールの娘のメアリー・マッカートニーが、父、ポール・マッカートニーにインタビューするという構成でできている。

 メアリーは、最初のソロ・アルバム『マッカートニー』のジャケットの裏側で、ポールの革ジャンのなかでぬくぬくしていた赤ちゃんだ。素敵な大人になっているけれど、顔には面影がある。
 それから、ウイングスの2枚目のシングル『メアリーの子羊』のメアリーも、この子のことだ。この曲のバック・コーラスに、メアリー本人も参加している。
 メアリーは母親のリンダと同じ写真家になった。2000年5月、ブレア首相の赤ん坊お披露目の公式フォトグラファーにも選ばれ、活躍しているようだ。

 ポールはメアリーに「これはパパの歴史だ。よく聞きなさい」と言って、リンダとの出会いから話が始まる。
 話は、ポールやリンダのインタビューやプライベートな録音、録画を使った構成で進められる。そこに、ポールとメアリー親子の会話が入るので、マッカートニー家のアルバムを見ながら思い出話を聞いているような気持ちになる。リンダは写真家だが、家族の写真を撮るときには、母や妻の視線が入り、やさしく、楽しい写真になる。

 二人はパーティーで出会い、その後、ビバリーヒルズでいけない週末を過ごす。ポールの家は典型的な独身男の家で、冷蔵庫の中には、飲み残しの腐った牛乳と干からびたチーズしか入っていなかった、などの思い出話が続く。

 その後、ビートルズの『ホワイト・アルバム』の録音の時の話が始まる。ポールはヨーコがスタジオに入り浸っていたが、文句は言えなかったと話している。でも当てこすりを言い、ますます気まずくなっていった。ヨーコはスタジオにベッドまで持ち込んだんだ、と語る。

 そういえば村上春樹が『村上ラヂオ』の中で、ジョン・レノンのインタビューを紹介していた。引っ越しをしたときに1970年前後の古い「平凡パンチ」を読んでいたら、ジョンが怒りをぶちまけたという記事を見つけたそうだ。ビートルズが解散したすぐ後くらいのインタビューだろうか。なにをそんなに怒っているのかというと、「俺たち(ビートルズの)四人はこれまでだいたいにおいて、女をみんなでまわして共有してきたんだ。なのに、あいつら三人は、ヨーコにだけは一度も手を出さなかった。それってひどい侮辱じゃないか。そのことで俺はずいぶん頭にきてるんだ」
 村上春樹はこのくだりを、「でもほかのみんながヨーコさんに手を出さなかった気持ちもなんとなくわかるなあ」と結んでいる。

 その後、結婚までのいきさつが語られる。《トゥ・オブ・アス》が、ポールとリンダ二人のことを歌った歌なんだということを知る。それからメアリーに、できちゃった婚でしょうと聞かれ、ポールが認めている。
 そして、ポールのビートルズ脱退、解散、ソロ・アルバム『マッカートニー』の制作について語られる。

 神経衰弱になったポールは、すべてから逃げ出すため、ギターとおまるを車に積んで、家族と犬と過ごすためにスコットランドへとやってくる。
 その頃のことをポールは、こう語っている。
「ぼくは不安になり、パラノイドになってた。仕事もなく、役立たずに思えた。イカレてたね。朝はいつまでも起きず。起きてもひげも剃らず。なにもせず。起きるやウィスキーに手を伸ばす。」
 しかも、法的問題で資産を凍結されてしまい、リンダの貯金で生活していたと語る。メアリーが、材木置き場に住んでいたことを話す。ポールは覚えていないというが、掘っ立て小屋で、ねずみがいて、お湯も出なかったとリンダは語る。でも家族にとって、最良の時だったとも言う。

『ラム』を作り、「ウイングス」を結成する。『ワイルド・ライフ』を発表し、ライヴを始める。
 最初は、ホテルも決めず、メンバーと家族と犬を車に乗せて、演奏場所を探しながら、あちこち回ったと語る。

 その後のウイングスの活躍は、皆さんが知っていると思う。
 ポールは、いけない種を育てていて罰金を取られたことや、《ハイ・ハイ・ハイ》をわるいこととは思わなかったと語る。そして、ウイングスの成功物語。もっともメンバー・チェンジの連続で、楽な道ではなかったようだし、メアリーからは「パパ、テレビを観ているときにギターを弾くのはやめて」などとも言われている。

 ワールド・ツアーの成功は、ライヴ映像『ロックショウ』を観るのがよいだろう。そして、幻の日本公演。
 ポールの持っていた大麻の映像、泣き叫ぶ日本のファンたち、9日間の拘留、そして、ウイングスの解散。
 ビートルズを脱退したとき、ポールは、まだ20代の終わりだった。大人になっていくポールを見ていると、生きていくのって(スターにとっても)大変だけれど、でも、それが人生なんだなって思う。そう思わせるから、スターなのかもしれないけれど。
 ポール、また来日公演、楽しみに待っています。お願いします。[次回6/4(水)更新予定]


(更新 2014.5.28 )


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プロフィール

小熊一実(こぐま・かずみ)

 1956年生まれ。プロデューサー。このサイトの前身「JAZZ STREET」に引き続き、「Music Street」の企画編集を担当。ジャズ、ロックはもちろん、クラシック、歌謡曲からアヴァンギャルドまで、聴きまくっている音楽狂。音楽以外にも、落語会やロボット・イベント、映画も製作している。ここでは、ジャンルを超えて、趣味に走ったライヴ情報をお届けしたい。補足情報をfacebookに掲載します、見て下さい。https://www.facebook.com/kazumi.koguma

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