第12回『ローリング・ストーンズ』写真:ゲレッド・マンコウィッツ/文:スキャン・イーガン |AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

第12回『ローリング・ストーンズ』写真:ゲレッド・マンコウィッツ/文:スキャン・イーガン

文・中山啓子

プロフィール   バックナンバー   ミュージック・ストリート トップへ

このエントリーをはてなブックマークに追加

■本書序文より抜粋

 この写真集は、チャド&ジェレミーを抜きにして語れない。チャド&ジェレミーは、イギリス本国よりもアメリカではるかに大きな成功を収めたが、彼らが、甘いサウンドのフォーク/ポップ・デュオとしてデビューした当時、僕は彼らの写真を撮っていた。そして、僕たちは親友になった。
 ジェレミーは、1960年代の「モテる男」の典型だった。つまり背が高くスリムで、面白くて魅力的で、貴族的な雰囲気があった。彼は実際、ウェリントン公爵の孫で、パブリック・スクールの教育を受けていた。
 チャド&ジェレミーは1964年の春に、ファースト・シングル《イエスタデイズ・ゴーン》のプロモーションのため、人気のあるテレビ番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』に出演した。ジェレミーはその時、マリアンヌ・フェイスフルと知り合った。マリアンヌは、デビュー曲《アズ・ティアーズ・ゴー・バイ》を歌っていたが、なぜか孤独で、どちらかといえば臆病だった。そこでジェレミーは、彼女を守るナイトになった。
 僕たちはその夜、ジェレミーのアパートで会う約束をしていた。ジェレミーとマリアンヌが、スタジオを出て、バーミンガムから列車に乗り、ようやく駅に着いた頃、僕は、彼のルームメートと話をしながら帰りを待っていた。
 僕は一目でマリアンヌに惹きつけられた。彼女は、美しく面白くて聡明だった。僕は、彼女の写真を翌日撮りたいと思い、すぐさま彼女を説得した。僕はそうして、気に入っていた野外の撮影地に彼女を連れて行った。初めての写真撮影は、本当にうまくいった。僕は、彼女を撮ることに大きな喜びを感じた。僕たちの間には、何か通じ合うものがあるように思えた。

 数日後、僕はマリアンヌに誘われて、デッカ・スタジオのレコーディング・セッションに立ち会った。そして、彼女がレコーディングする様子を撮った後、メイソンズ・ヤードの僕のスタジオに場所を変えて、2、3度、写真撮影をした。僕はその後、ウエスト・エンドのセント・マーティンズ・レイン(ロンドン)にある有名なパブ「ソールズベリー」で彼女のポートレイトを撮ることにした。彼女はファースト・アルバムに取り組んでいた。そこで僕は、アルバムのカヴァー・ジャケットにふさわしいイメージをモノにできればと思った。
 マリアンヌは、アンドリュー・ルーグ・オールダムによって見い出され、彼のオフィスによってマネージメントされていた。だがアンドリューは、彼女に付き添っていなかった。だから僕は、彼に会ったことがなかった。それでも彼の評判は聞いていた。
 アンドリューは僕が「ソールズベリー」で撮影したマリアンヌのポートレイトを気に入り、グロスター・プレイスの彼のオフィスに来てほしいと伝えてきた。僕たちはそうして、彼がもう一方でマネージメントするバンド、ローリング・ストーンズと仕事をする可能性について話し合うことができた。

 僕はその年、ローりング・ストーンズのメンバー、ブライアン・ジョーンズと、あるレストランで出会い、楽しく魅力的な男だと思っていた。僕は実際、バンドのファンだった。この機会を借りて言えば、テレビで初めて彼らを見た瞬間にファンになった。だから、カメラマンとして駆け出しの僕は、彼らと仕事ができるチャンスに胸を躍らせた。
 僕たちはアンドリューのオフィスで初めて顔を合わせた。僕は緊張していた。だが、バンドのメンバーは、僕に優しかった。僕たちはみんな、かなり気が合い、うまくやっていけそうに思えた。僕は、ほっとした。それが1964年の末期で、僕はまだ18歳だった!
 僕たちは、翌年の初期にメイソンズ・ヤードの僕のスタジオで初めて写真撮影をすることになった。彼らがオーストラリア・ツアーから戻った後、シングル《ザ・ラスト・タイム》がイギリスでリリースされた頃だ。
 僕はその後3年間、ほとんど彼らのカメラマンとして過ごし、コンサート・ツアーやレコーディング・スタジオや楽屋で、僕のスタジオや野外の撮影地や彼らの自宅で、シャッターを押し続けた。それは、とてつもなく刺激的で、並外れた体験だった。
 この写真集が、その高揚感を少しでも伝えられればと思う。[次回更新3月17日(月)予定]


(更新 2014.2.17 )


バックナンバー   コラム一覧   ミュージック・ストリート トップへ

このエントリーをはてなブックマークに追加
あわせて読みたい あわせて読みたい