80年代アイドル カルチャー ガイド (洋泉社MOOK) 監修・馬飼野元宏
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80年代アイドル カルチャー ガイド (洋泉社MOOK) 監修・馬飼野元宏
昭和歌謡ポップスアルバムガイド 1959-1979(シンコーミュージックエンターテイメント)  監修・馬飼野元宏
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昭和歌謡ポップスアルバムガイド 1959-1979(シンコーミュージックエンターテイメント)  監修・馬飼野元宏
「日本のフォーク完全読本」馬飼野元宏 (監修)、シンコーミュージックエンターテイメント
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「日本のフォーク完全読本」馬飼野元宏 (監修)、シンコーミュージックエンターテイメント
「砂漠のような東京で」いしだあゆみ
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「砂漠のような東京で」いしだあゆみ
「南沙織ファースト・アルバム 17才」南沙織
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「南沙織ファースト・アルバム 17才」南沙織
「花びらの涙」岡崎友紀
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「花びらの涙」岡崎友紀
「早春譜」キャンディーズ
「早春譜」キャンディーズ

<その2 70年代は70年代でアイドルの黄金時代だった>

 前回に続いて、馬飼野元宏さんと真鍋新一さんとの座談会をお送りしたい。おふたりとも音楽評論家であり、歌謡曲の研究家である。過去にアイドル・ポップスの洗礼を受け、今もアイドル・ポップスを聴き続けるということ。そこには何があるのか? アイドル歌謡の魅力とはなんなのか? キャンディーズの解散コンサートや山口百恵の引退コンサートに足を運んだ馬飼野さん、21世紀にキャンディーズの魅力を知って、そこから時代をさかのぼって昭和歌謡を聴き、岡崎友紀の素晴らしさに目覚めた真鍋さん。70年代と2016年を交錯させながら、トークは進む。

■南沙織に洋楽の基礎を教わった

―― 馬飼野さんが初めてファンになったアイドルは?

馬飼野 南沙織ですね(1971年デビュー)。あと中森明菜かな。

―― 南沙織の引退(78年)から中森明菜の登場(82年)まで、ちょっと時間があきますが……

馬飼野 常にアイドルのファンでいなくてはいけない、というわけではないので。でも僕が最初に好きになった歌手はいしだあゆみなんですよ。《ブルーライト・ヨコハマ》(68年12月リリース)をよくテレビで歌っていた記憶があって、その後かな、中ヒットが結構続いていた頃。《砂漠のような東京で》(71年5月リリース)がすごく好きで、この曲を歌っているひとがきれいだなと思って。その数年後、『日本沈没』という映画に女優として出てくるんですけど、子供には女優と歌手の区別がわからないので、「なんでこのひとが出てるのか、(劇中で)歌うのかな」ってずっと思ってた(笑)。沙織さんのファンになったのも、同じ頃ですね。辺見マリ、小柳ルミ子、水前寺清子、ちあきなおみ、黛ジュンなどがズラッと並んでる中に、ポコッとナチュラル系のひとがいる。それが南沙織だった。

―― 桜田淳子や山口百恵はどうでしたか?

馬飼野 歌手として聴いてましたね、百恵さんにしても桜田淳子にしても僕の場合は。当時、アイドルとしてのめりこんだのは沙織さんだけです。誕生日プレゼントというと普通はおもちゃとかになるんだろうけど、僕は南沙織のLPを買ってもらってました、誕生日とクリスマスに。洋楽のカヴァーも多くて、それで(洋楽を)覚えたところがありますね。「資生堂・サンデーヒットパレード」というテレビ番組があったんですよ(71年10月~73年3月放送)。日曜7時からの30分番組で、草刈正雄のモデル時代のデビュー作なんですけど、大石吾朗と和田アキ子の司会で、その週のヒット曲を洋楽邦楽込みでベスト10形式にして紹介するんです。洋楽の曲も日本のアーティストが歌って、たとえば《悲しき鉄道員》(オリジナル・アーティストはショッキング・ブルー)とか《気になる女の子》(同、メッセンジャーズ)とかを、フォーリーブスとか野口五郎とか当時のアイドルが歌っているのを見て覚えちゃうっていう。沙織さんも出ていました。だから僕は沙織さんに洋楽の基礎、ポピュラー・ミュージックを教えていただいたようなものです。
(※南沙織は沖縄出身で、返還前の71年に歌手デビュー。当初は日本語より英語が得意だった)

真鍋 沙織さんは英語で歌ったんですか?

馬飼野 英語で歌ってましたね。僕は割と(CBS)ソニー系が好きなんじゃないか、とまわりのひとにいわれるんですけど、確かにそうかもしれません。キャンディーズの解散コンサート(78年4月4日、後楽園球場)や百恵さんの引退コンサート(80年10月5日、日本武道館)も行きました。

―― まだチケットぴあもない頃、ファンは徹夜でプレイガイドに並んでいた時代です。チケットはどうやって入手したんですか?

馬飼野 キャンディーズに関しては偶然ですね。秋葉原のラオックスで親と一緒に家電を買いに行ったときに、「キャンディーズの解散コンサートのチケットが当たる」というくじ引きがあって、それで当てたんです。

真鍋 それは、どのへんの当たりだったんですか?

馬飼野 一等賞じゃないですか。

真鍋 大当たりじゃないですか!

―― いい席でした?

馬飼野 ひどい席でした。景品ですからね。

―― でも歴史的瞬間を目撃しています。

馬飼野 「歴史的瞬間を景品で見た」とは言いにくいんですが(笑)。百恵さん(の引退コンサートのチケット)に関しては、どこで買っていいかわからなかったから(彼女の所属事務所の)ホリプロまで行ったんです。うちはスポーツ新聞をとってたのでそこに発売日が載ったのかな、発売当日の朝、友達とホリプロに並んで、安い席をとったんですけど、それが2階のいちばん真ん前だった。真正面で、百恵さんがマイクを置くところも見ることができました。
(※もう芸能活動はしない、という意思を示すかのようにステージの床にマイクを置いて去った)

―― 公開放送は?

馬飼野 行きました。僕は越境入学で、住まいは墨田区なんですけど、千代田区の学校に通っていたんです。その中学の斜め向かいが赤坂プリンスホテルで、ちょっと外れたところに日本テレビがあった。月曜に日テレの前に行くと、「紅白歌のベストテン」(69~81年放送)の観覧券を配っていた。それで何度も見ましたね。プリンスホテルでは夏になると水泳大会も行なわれていたので、それも見ました。「あっ、ヒデキ(=西城秀樹)がいるよ」、みたいな感じで。

■アイドル時代の岡崎友紀にリアルタイムで会って、絶賛したかった

―― 今度は真鍋さんにうかがいます。自分が70年代にアイドル・ファンをやっていたら、誰を好きになっていたと思いますか?

真鍋 岡崎友紀かな……。僕が聴いたときには既に作品が出そろっていたから、夢中で追っかけて聴くということにはならなかったんですけど。ファースト・アルバム『花びらの涙』(1970年)はナレーションつきなんですよね。「これから私はあんなことやこんなことがしたい」と、意欲を曲の前に語るんですよ。「日本のフォーク完全読本」に載ってるんですけど、フォークソングのカヴァー集を出したりとか(『友紀の青春 ニューフォークを歌う』71年)、本人主導でプロジェクトが動いている気がします。

馬飼野 ある種、サブカル的な。

真鍋 「時流に乗っていこう」という意識の高さを非常に感じさせるひとだったんですよ。

馬飼野 元祖・小泉今日子みたいなね。加藤和彦プロデュースの『DO YOU REMEMBER ME』(80年、YUKI名義)があったり。

真鍋 その前にも『ミスター・ラブ 岡崎友紀スー・シフリンを唄う』(77年)でロンドン録音をやってたりして歌謡曲寄りのアーティストとしては意識が高い。女優活動と並行していて忙しかったのか、ちょっと散漫なアルバムもいくつかあったりするんですけど、でも本人のやる気みたいなのはすごく感じます。当時の自分が物の言える立場だったら、(岡崎友紀本人の前で)ほめたたえたかったなって思いましたね。

―― 真鍋さんが昭和歌謡にハマったきっかけは?

真鍋 大学生の時、「わが愛しのキャンディーズ」という1時間半の特番があったんですよ(2006年7月17日、BS2放送)。たいていの番組は、懐かしのVTRが再放送されても、まずフルコーラスはかけないし、ワイプ(で現在の本人のリアクションなど)が絶対に入る。でもその番組はフルでかけた。今のひとの回想とか、余計なものが殆ど入らない。過去の映像とニュースフィルムで構成されていて、最後の30分がファイナルカーニバル(=解散コンサート)の抜粋。非常に熱い番組だった。その時、初めて《その気にさせないで》を聴いて…

馬飼野 フィリー(=フィラデルフィア)・ソウルね。

真鍋 キャンディーズもちゃんと聴かなくちゃいけないと思って、すぐにレコードを買いに走りました。

馬飼野 歌はしっかりしてますよね、ナベプロ(=渡辺プロダクション)の伝統だから。ハモってもいるし。

真鍋 『早春譜』(78年3月リリース)というアルバムの全曲を自分たちで作詞・作曲しますよね。どれほど本人が書いているか、実際のところはわからないですけど、いちおう作詞作曲としてクレジットされているわけです。アイドルからスタートして、アーティスト化して、そして解散という流れがあまりにも美しすぎて。今のアイドルも自分たちで曲を作るようになったらどんなに素晴らしいかと思うわけです。それを70年代に、キャンディーズがやっていた。

―― リアルタイム派の馬飼野さんはいかがですか?

馬飼野 正直言って、僕はけっこうキャンディーズは、昨今の再評価で下駄をはかされている部分もあるんじゃないかな? と思っちゃうところもあります。ぼくは南沙織さんを追ってきたけど、アイドル・ポップスってそのアイドルの成長を歌から聴くところもあるでしょう? 沙織さんの場合《17才》から始まって、1曲ごとに、それがすごくきれいだった。キャンディーズってときどき「えっ、なんでこの曲?」というのがポコッと入っていて、そういう流れという意味ではギクシャクしたところがあるんです。《年下の男の子》(75年)のあとの《内気なあいつ》とか、《春一番》《夏が来た》と傑作を連打した後に《ハート泥棒》(76年)とか。何か、進化しないでちょっと前に戻っちゃう時があって、そういう曲だとがっかり感が強かったですね。まあ、勝手な「こうあってほしい」という僕の思い込みですが(笑)。だけど終わり方が見事だったから、伝説になって……。ピンク・レディーがきれいに終われなかったから、よけいにキャンディーズが伝説化されたというところもあるんでしょうね。

―― 「亡くなったメンバーがいる」「一度も再結成せずに終わってしまった」ところが、ビートルズと共通する“伝説の条件”を満たしているのだと思います。いまだに、3人組のアイドルがデビューするとキャンディーズの名前が引き合いに出されることもあります。40年近く前に歴史を閉じたグループなのに……。松田聖子や中森明菜のように80年代初頭から歌手活動を続行している方々も、大いにリスペクトされるべきだと思いますが。

馬飼野 松田聖子は次の曲が予測できるんですよ、なんとなく。でも中森明菜って作家が1個ずつ全部違うし、何が出てくるかわからない面白さがあった。「ザ・ベストテン」(78~89年、生放送)とか見てても、松田聖子は高いアベレージが出せるんだけど、明菜は歌唱のすごく良いときと良くないときの差があって、それが逆に、「大丈夫かしら」という気持ちにつながっていた。過剰な期待と過剰な不安をファンに抱かせるという意味では、沙織さんと真逆で、そこも好きだったですね。あと、昭和の歌番組の面白さって、生歌とビッグ・バンド伴奏にもあったと思いますよ。

―― 「夜のヒットスタジオ」(68~90年、生放送)も「8時だョ!全員集合」(69~85年、生放送。途中、半年間の充電を挟む)もそうでした。基本的に東京ユニオンとかニューハードとかゲイスターズとかジャズ系のビッグ・バンドの伴奏で、歌手は生歌で歌った。イヤモニもない。今のアイドル現場みたいに、トラック(=カラオケ)じゃなかった。だから生放送で、時間が押してくると、伴奏がものすごいアップ・テンポになって、歌手がリズムに乗れなかったり……

馬飼野 テンポが走ったりして、たまにギョッとするような歌になるんですけど、あれも込みで面白かったですね。
[次回3/14(月)更新予定]