ベース その1 |AERA dot. (アエラドット)

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ベース その1

文・林建紀

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●ジャズ・ベース前史

無くても困らない楽器だった

 ジャズ創世記からベースは使われていたが(注1)、発展は大きく遅れた。30年代末に天才ジミー・ブラントン(後述)が出現するまで、他の楽器で現れたような革新者は出ていない。それは置かれた地位に起因する。ベースのコードを供給する機能はピアノやバンジョーで、ビートについてはベース・ドラムの4ツ踏みでまかなえた。実際、ベースを入れていない録音(注2)も少なくないのだ。音量とインパクトに乏しいベースは、“無くても困らない”楽器だったように思える。そんな地位から革新者が出てくる確立は低い。

 当初、ベースはアルコ奏法(弓弾き)によって、チューバ流にツー・ビート(注3)で弾かれていた。ピチカート奏法(指弾き)は、演奏中に弓が折れ、とっさに指で弾いたことが起こりだとされる。いかにもジャズらしい話だが、事実は躍動的なビートを求めた結果だろう。さらに、音量とインパクトを増すため、スラップ奏法(注4)が編み出された。デューク・エリントン楽団のウェルマン・ブロー(1891‐1966)とルイ・ラッセル楽団のジョージ・フォスター(1892‐1969)は、こうした初期のベース奏法を伝える名手だ。

ウォーキング・ベースの誕生

 ダンス向けに編成が大型化するなか、チューバが重用され、音量の乏しいベースは日陰の身になっていく。チューバからベースへの移行は、バンジョーがギターに置き換えられたのと同様に、サウンドの洗練とマイクロフォンの進歩によるものだろう。エリントン楽団がチューバをベースに置き換えたのは27年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団は30年だ。しかし、しばらくはアルコが併用され、ツー・ビート基調だった。ピチカート奏法もスタッカート感が強く、コードは単純な分散や単一音で、打楽器の類に聴こえなくもない。

 30年代に入ると、アルコ奏法から(スラップ奏法を使わない)ピチカート奏法への移行と、ツー・ビート基調からフォー・ビート基調への移行が並行して進む。カウント・ベイシー楽団のウォルター・ペイジ(1900‐1957)は、カンサス・シティ・ジャズ伝来のオフ・ビート感をともなう、ウォーキング・ベース(コード・スケールを順次進行させる)を打ち出す。それは多くのベーシストが倣う業界標準となり、今日まで続いている。そんななかからブラントンが出現し、ベースのソロ楽器としての機能を真の意味で切り拓いた。

 注1:1894年頃に撮られた、初代ジャズ王バディ・ボールデン(コルネット)が率いたバンドの写真にベーシストが写っている。もちろん、録音はない。

 注2:オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドによる史上初のジャズ録音や、ルイ・アームストロング(トランペット)の史上名高い“ホット・ファイヴ”の録音にベースは入っていない。

 注3:4拍子の1拍目と3拍目を弾き、何小節かおきにオカズを入れることが多い。

 注4:弦を指板にたたきつけるか、弦を指板に弾きかえすパーカッシヴな奏法だ。アーリー・ジャズの粗末な録音技術では、ドラマーのリム・ショットやウッド・ブロックと紛らわしいことがある。

●ジミー・ブラントン(1918‐1942)

時代と隔絶した革命児

 初めてジミー・ブラントンを聴かれた方は一様に驚かれる。力強くソリッドなトーンによる、的確で柔軟なバッキングとホーンライクなソロに圧倒されるのだ。しかも、それが日米開戦前後の録音と知れば、驚かないほうがどうかしている。時代と隔絶した正真正銘の天才だ。史上最高のベーシストに推していいとさえ思っている。だからといって、ブラントンの演奏がモダン・ジャズだったということにはならない。発展の遅れていたベースは、ブラントンの天才によって、ようやく他の楽器のレベルに並んだと見るべきだろう。

 テネシー州チャタヌーガで生まれる。母親のバンドでプロ入り、テネシー州立大学で学んだあとセントルイスに移り、ジェター=ピラーズ楽団、フェイト・マラブル楽団で演奏した。39年の秋、同地を訪れたエリントン楽団のメンバーに見い出される。その報せで演奏を聴いた御大も感銘を受け、自楽団に招く。初録音は10月だ。出来あがっているというほかない。もう1人の天才チャーリー・クリスチャン(ギター)と同様に、夭逝していなければ、さらなる発展を見せていたかもしれないからだ。両者の歩み(注)は似ている。

ベース・ソロの創始者

 ブラントンのバッキングは、ペイジのスタイルを発展させたものではないか。今日に通じるフォー・ビート感覚と高音域の使用は、ペイジ以外の先輩ベーシストには見当たらないのだ。ソロはといえば、前代未聞というほかない。サックスにインスパイアーされたものと思うが、見事にベースの言語になっている。ブラントン以前にソロをとった者がいないわけではない。わずか2小節のブレイクや、せいぜい1コーラスのウォーキングをソロと認めればだが。ソロと呼ぶに値する演奏を創始したのは、ブラントンにほかならない。

 真のジャズ・ベース史はブラントンに始まったといっても過言ではないだろう。その出現を境として、ベース界でブラントン化が進んだ。進歩的なベーシストは、後進といわず先輩といわず追随した。重要人物はオスカー・ペティフォード、レイ・ブラウン、チャールズ・ミンガスの3人だ。同世代ではレッド・カレンダーとアル・マッキボンを、先輩ではミルト・ヒントンをあげておく。いち早く成果を出したのはオスカーだ。ブラントンのスタイルを発展させ、折から勃興したビ・バップにアダプトし、自らも影響源となった。

 注:両者の略歴は、同じ構文で記述できる。クリスチャンは16年7月生まれ、39年8月に地方のバンドからベニー・グッドマン楽団に招かれ、42年3月に結核で逝った。ブラントンは18年10月生まれ、39年10月に地方のバンドからエリンントン楽団に招かれ、42年7月に結核で逝った。さらに、実働期間は短かったが、名門バンドに在籍したことで短期間に名が広まり、絶大な影響をおよぼしたことも共通する。

●オスカー・ペティフォード(1922‐1960)

バップ・ベースを確立

 オスカー・ペティフォードがジャズ・ベース史上の巨人であることを否定するつもりはないが、その功績とは何だったのか。曰く、ケニー・クラーク(ドラムス)とともにビ・バップのリズムの基礎を形作り、ディジー・ガレスピー(トランペット)とともに史上初のバップ・コンボを結成し、多くの後進に影響をおよぼした。史実はそうだ。しかし虚心に演奏に耳を傾けると、オスカーの確立したスタイルがスウィング・ベース(注1)の高速化と高域化にすぎないことがわかる。50年代のベース・スタイルとの隔たりは大きい。

 オクラホマ州オクマルギーで音楽一家に生まれる。ピアノから始め、14歳でベースに替え、ファミリー・バンドに加わって、41年まで中西部で演奏した。39年9月にミネアポリスで録られた私的録音が残っている。なんと、クリスチャンとの共演だ。純フォー・ビート感覚(注2)とツー・ビート奏法でのオカズはペイジに近いが、古臭いスラップ奏法を使ってもいる。当時の中西部の標準的なスタイルと見るべきかもしれない。ともあれ、ブラントンの影はうかがえず、その登場時期に照らしても未体験だったと見ていいだろう。

進歩的なスウィンガー

 ブラントン摂取の過程を追える記録はない。43年2月、ビ・バップ勃興前夜にガレスピー、チャーリー・パーカー(アルト)と共演した私的録音が残っている。アップ・テンポでの起伏に富んだラインと高音域の使用はブラントンの奏法を進化させたものだ。こうしたビ・バップ向けに高速化・高域化した演奏を見せた録音は意外に少ない。45年10月までに参加したバップ系セッションはスウィング系の3分の1に満たず、多くはブラントン直系のスウィング・スタイルで通しているのだ。そのあとはエリントン楽団に馳せ参じた。

 48年まで同楽団に在籍、録音の上で絶頂期のビ・バップとは無縁だ。ベースの発展が遅れたのは、オスカーが前衛を退いたことも大きいと思う。ベースは進化した“コードとビートの供給装置”で足踏みし、“音楽の推進装置”に革新されるまで数年を要した。オスカーも、52年5月のマイルス・デイヴィス(トランペット)の録音あたりでモダンになる。影響源はミンガスだろう。ブラントンのところであげた者は、多かれ少なかれオスカーの進歩的スウィング・スタイルの影響も受けている。重要人物はブラウンとミンガスだ。

 注1:スウィングは隣りあう音と小節の独立性が高い。スタッカート基調でヴァーティカル志向といえる。モダン(ビ・バップ)は隣りあう音の関係が密接で、小節意識が希薄だ。レガート基調でホリゾンタル志向といえる。それが長いラインを生みだす。他の楽器がそうした進化をとげるなかで、ベースだけは旧来のイディオムに拠っていた。 注2:詳述しているスペースがないので、下記の拙文を併読していただければ幸いだ。 「純フォー・ビート誕生の謎」(→林建紀のHPへリンク)

●レイ・ブラウン(1926‐2002)

シンデレラ・ストーリー

 オスカー・ピーターソン(ピアノ)を「どうもね・・・」という半可通は見かけるが、その女房役を務めたレイ・ブラウンを「どうもね・・・」という方に会ったことはない。ベーシストの鑑というべき男性的な堂々たるスタイルが、好みを超えて支持されるのだろう。たとえソロをとらなくても、やや前のめりの大股で「ドス、ドス」と歩を進めていくウォーキング・ベースだけで、十分に酔わせてくれる。まさしく、もう一つの“ジャイアント・ステップス”だ。しかし、そのスタイルが一朝一夕に出来あがったわけではない。

 ペンシルバニア州ピッツバーグに生まれた。8歳でピアノを始めるが、高校に進むとライバルが多く、ベースに転向する。アイドルはブラントンだった。一度だけ見たことがあると語っている。すぐに地元で演奏活動に入った。卒業後、ビ・バップの噂を聞きつけ、45年の暮れにニューヨークに向かう。その夜のうちに初対面のガレスピーに雇われた。大抜擢に映るが、ガレスピーは西海岸へのツアーに向けてベーシストを探していたのだ。オスカーがエリントン楽団に就職していなければ、どうだったかわからない。強運である。

モダン・ベースの開拓者

 その時と翌年の録音でのブラウンは、ビート感といい高音域の使用といい、既にバップ・ベーシストだ。ブラントンに似た演奏は数例しかない。ピッツバーグでバップ・ベースを習得していたにちがいなく、ガレスピーに即決させたのも“オスカーみたいに弾けた”からだろう。ただし、その影が指摘できるのはソロをとり始めてからだ。46年7月の《ワン・ベース・ヒット》と47年8月の《ツー・ベース・ヒット》で、オスカー流のソロが聴ける。ここからが長い。進化したスウィング・ベースから長らく抜け出せなかったのだ。

 49年9月、アメリカに進出したピーターソンの相方を務め、転機が訪れる。共演を重ねるなかで、音がブツからない対位的奏法の修得を余儀なくされたのだ。過渡期の姿は50年8月の録音に、ブラウンそのものの姿は51年8月のミルト・ジャクソン(ヴァイブ)の録音にとらえられている。2人のO.P.がスタイル形成に寄与したわけだ。同世代ではリロイ・ヴィネガーとモンティ・バドウィッグが影響を受けている。“普通に弾いた”ときのスコット・ラファロも近い。ブラウンが晩年にチームを組んだ、息子の世代のジョン・クレイトンと孫の世代のクリスチャン・マクブライドは、実の子供や孫のように似ている。

●参考音源(抜粋)

[The Prehistory of the Jazz Bass]
George Foster: Luis Russell and his Orchestra 1930-1934 (Classics 30.1-34.8)
Wellman Braud: Early Ellington 1927-1934/Duke Ellington (Bluebird 27.10-34.1)
Walter Page : The Kid from Red Bank/Count Basie (Difinitive 38.6-47.5)

[Jimmy Blanton]
The Blanton-Webster Band/Duke Ellington (Bluebird 40.3-41.9)
Solos, Duets and Trios/Duke Ellington (Bluebird 40.10)

[Oscar Pettiford]
Early Bird/Charlie Parker (Jazz Archives 43.2)
Bass Hits/Oscar Pettiford (Topaz Jazz 43.12-46.10)

[Ray Brown]
Algo Bueno/Dizzy Gillespie Big Band (Difinitive 46.6-47.8)
Oscar Peterson 1950 (Classics 50.5-9)
Modern Jazz Quartet (Savoy 51.8) Recorded under the name of Milt Jackson.


(更新 2008/2/14 )


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プロフィール

林建紀

 1950年兵庫生まれ。システム開発会社などを経て独立。零細企業経営のかたわら、ジャズ研究にいそしんでいる。訳書に『ローランド・カーク伝』、共著に『JAZZ“名盤”入門!』などがある。

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