AERA dot. 5th anniversary

エラ・フィツジェラルド

文・内山繁

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 ニューヨーク、ハーレムのアポロ・シアター。

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 設立以来ハーレムの文化を見守ってきたこの劇場には、デューク・エリントン、カウント・ベイシーをはじめナット・キング・コール、サミー・デイビス・ジュニア、スティービー・ワンダー、シュプリームス、アレサ・フランクリン(数え上げたらキリがありません)。多くのビッグ・ネームが出演して、さながら黒人の音楽文化の変遷を物語るようです。

 経営難から一時期閉館して、1980年代に再開。近年では和田アキ子や坂本龍一ら日本人も出演者リストに名を連ね、復活した人気イベント「アマチュア・ナイト」の入賞者・優勝者に何人も日本人名を見つけることが出来ます。日本人大活躍ですね、中には強制退場&出入り禁止を食らった人もいるようですが(大きな字では書けませんけど、嘉門達夫という人らしいです)。

 アマチュア・コンテスト優勝者の歴史は、ジェームス・ブラウン、サラ・ボーン。マイケルわずか9歳の時のジャクソン・ファイブ等、こちらも錚々たる名前が並んでいます。明日のスターを夢見てダンスや歌を主にコンサートやボードビルなど、様々なパフォーマンスが繰り広げられ、そして、その夜の劇場の観客全員が大喝采やブーイングで出演者の合否を判定し、優勝者を決定するのです。

 ヘタな出演者が浴びせられるヤジ、罵声、ブーイングは凄まじい迫力、一方ウマイのが出ると満場割れんばかりの拍手喝采の渦、スタンディング・オベイションと紙吹雪でこれまた思いっきり盛り上がってしまうのです。演じる方も見る方も真剣そのもの、過激で楽しいイベントは今も毎週水曜の夜、アポロ・シアターを興奮の渦で包んでいます。

 1934年のアマチュア・コンテストで優勝したエラ・フィツジェラルドは、16歳でプロの道を歩み始め、楽団専属の歌手はやがてヒット曲に恵まれスター・シンガーとなって独立、たちまちトップに駆け上がって「ジャズ界のミシェル・オバマ、ではなく……ファースト・レディ」と称されました。

 のち'46年からは「J.A.T.P.=ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(コンサート・ホールでのジャズ興行)」に加わり、ワールド・ツアーにも参加して大活躍。

 '83年のJ.A.T.P.イン・ジャパンで元気な歌声を聴かせてくれたエラ。ぐんぐん加速するスピード感あふれるスキャットとスイング、歳をとっても変わらない可憐な歌声が最大の魅力です。晩年はぶ厚いメガネをかけるのが常で、白いハンカチを握りしめて歌うエラを、このとき初めてボクのカメラに収めたのです。

 後に糖尿病と診断され、'86年には心臓動脈バイパスの大手術を受けて、マスコミもファンも、もう二度と歌えないだろうと絶望視していました。

 ところが、エラは帰ってきた。奇跡的な復活を果たしたレディ・エラのカムバック・ステージ、ニューヨークのカーネギー・ホールはぼくにとっても思い出深い、忘れられない撮影になってしまいました。

 カーネギー・ホールの出演者リストに、加藤登紀子や高橋真梨子、加山雄三……、多くの日本人の名前が並びます。日本人、大活躍です。

 中には強制退場&出入り禁止を食らった人もいるようです。(大きな字では書けませんけど、内山繁という人らしいです。こっちはブラック・リストです。日本の恥です、すみません)。無許可の撮影を劇場係員に見つかってしまったのです……とほほ……です。

 ホール事務所に連行されて、こっぴどくお説教を食らいました。けれど、このホールの歴史は素晴らしい!音楽文化の歴史に触れられて最高に幸せです……etc.etc。
「もう二度としません・許して・ゴメンナサイ」を随所に織り交ぜながらヘタな英語で謝ったおかげで、フィルム没収は何とか免れました。

 200枚以上のアルバムを録音したジャズ界のファーストレディ。

 1991年、26度目のカーネギーホールのステージが彼女のラスト・コンサートになってしまった。


エラ・フィツジェラルド:Ella Jane Fitzgerald (allmusic.comへリンクします)
→ジャズ・シンガー/ 1917年4月25日 ~ 1996年6月15日


(更新 2009/6/ 4 )


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プロフィール

内山繁

 多数のレコードジャケット、音楽誌等に精力的に作品を提供。マイルスを10年間にわたって追った写真集「マイルス・スマイルズ」を93年に出版