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ナイツ・塙宣之が語る 「細野晴臣さんは神」であり「YMOが“ヤホー漫才”の原点」
ナイツ・塙宣之が語る 「細野晴臣さんは神」であり「YMOが“ヤホー漫才”の原点」 ナイツの塙宣之さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃) 「“ヤホー漫才”の原点はYMO」「自分にとっての神は、細野晴臣さん」と公言しているナイツの塙宣之さん。今年3月には『細野晴臣 夢十夜』(細野氏が見た夢を題材に、朝吹真理子、リリー・フランキー、塙が書いた短篇小説集)で小説家デビューも果たした塙さんに、細野さんの魅力を語ってもらった。 *  * *  1978年生まれの塙宣之さんが音楽家・細野晴臣を知ったのは、中学生の頃。実兄で芸人のはなわさんとともに、深夜ラジオ『電気グルーヴのオールナイトニッポン』(1991年~1994年)にハマったのがきっかけだった。 「ラジオもハチャメチャで面白かったんですけど、そのうち(テクノグループの)電気グルーヴの曲を聴くようになって、その流れでYMOを知って。特に細野さんが作るフックのあるテクノに惹かれたんですよね。リズムが一定で、いきなり音階が変わったり、転調するのがとにかく気持ち良くて。もともとファミコンのピコピコした音が好きだったし、自分の体質に合ってたんでしょうね」 ■ヤホー漫才のスタイルはテクノ音楽から発想した  高校時代はファミレスのバイトで貯めたお金でYMOのCDを買い揃え、はっぴいえんど(細野氏が70年代に参加していた伝説のロックバンド)や細野氏のソロ作品も聴くようになったという塙さん。 「佐賀に住んでいたので、1993年に東京ドームで行われたYMO再結成ライブには行けなかったのですが、ずっと細野さんの音楽を聴いてました。はっぴいえんどや、ソロの作品はYMOとはぜんぜん違うし、その後に細野さんがやりはじめたアンビエント(テクノと環境音楽を融合させた音楽)なんてわけがわからなかったけど(笑)、聴いてる時の気持良さは一緒でした」  2000年に相方の土屋伸之さんとナイツを結成。しばらくは売れない時期が続いたが、2007年頃から一気に注目を集めるようになった。そのきっかけは、現在のスタイルである“ヤホー漫才”を確立したこと。一定の会話のテンポをキープしながら、“塙が固有名詞を言い間違え、土屋がツッコミを入れる”スタイルは、細野のテクノ音楽から発想を得たという。 「この世でいちばん好きな人は細野晴臣さん」と語る塙さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃) 「ちょうどその頃にYMOを聴き直して、やっぱりいいなと。その時に、『テクノみたいに一定のテンポでボケとツッコミを繰り返すのはどうだろう?』と思い付いたんです。ヤホー漫才でいきなり下ネタを入れたり、急にテンションを下げるのは、細野さんの特徴であるメロディの展開や転調の影響かな(笑)。その前にやってた漫才はロック音楽に近いというか、柄にもなく叫んだりしてたんですけど、今考えると自分たちに合ってなかった気がして。ほら、細野さんもぜんぜんテンションが高くないでしょ。僕も目に力がないし(笑)、淡々としゃべったほうが面白いのかなと。とにかく気持ちよく聴いてもらえるのがいちばんだと思うので。それで僕らのYMO……、あ、ヤホー漫才オーケストラが誕生したんです(笑)」 ■細野晴臣さんのコンサートに出演も  ヤホー漫才で頭角を現し、瞬く間に人気コンビとなったナイツ。塙さんがとある媒体のインタビュー記事で、「この世でいちばん好きな人は細野晴臣さん」と公言したことをきっかけに両者の交流が生まれ、2017年11月にはなんと細野氏のコンサートにナイツとして出演した。  筆者はその公演を会場で観たのだが、「1969年にバンド“ほっぴいえんど”を結成し……」「“はっぴいえんど”ね。ホッピー飲み切ったみたいになってるから」「日本酒ロックの礎を築きました」「日本語ロック! 日本酒ロック、飲みづらいわ」という漫才は大ウケだった。  尊敬する細野氏の前で“細野ネタ”で披露するのはかなり緊張したはず……と思いきや、プロの矜持を感じられるこんな答えが返ってきた。 「漫才は仕事なので、そこは切り替えて、“ウケたい”という気持ちでやってましたね。会場のお客さんはみんな細野さんのファンで、ネタの背景についての説明が必要ないので、テレビや劇場でやる漫才よりもむしろやりやすかったです。東京ドームで巨人のネタをやればウケるのと同じですね(笑)」 「細野晴臣さんらしいポーズをしてください」と伝えたら、この表情に。「細野さんっていつも自然体でこんな感じなんですよ」と塙さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃) ■細野さんとの仕事でなければ断ってた  この春に刊行された書籍『細野晴臣 夢十夜』(KADOKAWA刊)は、細野氏が自身の見た夢を記した夢日記37篇と、その夢をモチーフに朝吹真理子、リリー・フランキー、塙の3氏が書き下ろした短篇小説9篇を収めたもの。塙さんは“もしも大谷翔平が〇〇〇だったら”をテーマにした「PLAYBALL」、師匠の内海桂子さんとの思い出を題材にした「うるせえ! くそジジイ!」、細野氏の夢に出てきた架空の沖縄の歌手を“ヤホー漫才”のネタにした「さとう龍平」の3篇を寄稿している。 「ここ何年かの仕事で、いちばん大変でしたね。夢ってツッコミようがないから、漫才のネタにもなりづらいし、何をどう書けばわからなくて。細野さんの仕事じゃなかったら、引き受けてないですね(笑)」  また現在開催されている細野晴臣デビュー50周年記念展「細野観光1969-2021」(埼玉県所沢市「ところざわサクラタウン」にて6/26まで開催予定)では、星野源さん、高橋幸宏さん、水原希子さんとともに塙さんも音声ガイドを担当するなど、両者の交流はさらに深まっている。  漫才、ラジオパーソナリティのほか、テレビドラマに出演したり、自ら主宰する劇団やYouTubeチャンネルを立ち上げるなど、精力的な活動を続ける塙さん。表現の幅を広げるのも、細野さんの影響だとか。 「細野さんは時期によってやってることが全然違うんですけど、ただずっと好きなことをやってるだけなんだろうなと思っていて。YMOは大ヒットしたけど、売れるかどうかは関係なく、他にやりたいことができたら、すぐにそっちにいっちゃう(笑)。それは理想だし、羨ましいですね。自分もまだ40代。“浅草の漫才師”というイメージがあるからこそ、自由にいろんなことをやってみたいですね。細野さんとも、もっと仲良くなりたいです(笑)」 (森 朋之) 塙宣之(はなわ・のぶゆき)/漫才師。漫才コンビ・ナイツでボケを担当。1978年千葉県生まれ。佐賀県育ち。2001年ツッコミ担当の土屋伸之とコンビを結成。03年の漫才新人大賞受賞をはじめとして数々の賞を得ている。08~10年に「M−1グランプリ」決勝進出、11年「THE MANZAI 2011」準優勝。2007年には史上最年少で漫才協会の理事に就任し、15年からは副会長をつとめている。多くのテレビ、ラジオ、舞台で活躍中。近著に「細野晴臣 夢十夜」(細野氏が見た夢を題材に、朝吹真理子、リリー・フランキー、塙が書いた短篇小説集)。現在、埼玉県所沢市の「ところざわサクラタウン」にて開催中の展覧会『細野観光1969-2021』では音声ガイドも担当している。 ■細野晴臣デビュー50周年記念展「細野観光1969‐2021」in ところざわサクラタウン https://tokorozawa-sakuratown.com/event/hosonokankou.html
ANA・JALのCAの苦境、出向先で大活躍する「コロナ美談」の陰で副業バイトに不合格の例も
ANA・JALのCAの苦境、出向先で大活躍する「コロナ美談」の陰で副業バイトに不合格の例も 写真はイメージです(Gettyimages)  コロナ禍は2年を超え、苦境が続く航空大手。大幅減収に見舞われたCA(キャビンアテンダント)が出向先の企業で活躍していると報じられる美談の裏で、生活のためのアルバイトにすら不合格となるほど悲惨な例もある。(ダイヤモンド編集部 岡田 悟) 各地の名物の調理動画をアップするCA出向先で大歓迎の“美談”は全員共通なのか?  北海道名物のおやつの「いももち」、北九州市の「焼きカレー」、熊本県の「だご汁」――。日本航空(JAL)は、航空機の客室乗務員(CA)を「JALふるさと応援隊」に起用。各地の名物料理を現役CAがエプロン姿で、「それでは早速作っていきましょー」などと楽しげに調理する動画をYouTubeで配信している。料理だけでなく、富山県の「越中和紙」でマスクケースを作る動画もある。  全日本空輸(ANA)でも、CAが地域貢献を目的として山形県酒田市に移住し、地元の観光PRや酒蔵との商品の共同開発に取り組んでいる。CAがバラエティー番組に出演して地元の飲食店を紹介したこともある。 「JALふるさとプロジェクト」のホームページにはこれらの活動について、「ふるさとへの想いを大切に地域とのつながりを育み 新たな価値創造に努めるとともに 持続可能な地域社会の実現とSDGsの達成に向けて活動してまいります」などと書かれている。  新型コロナウイルスの感染拡大で航空便が激減。基本給が少なく、収入の多くがフライト数に比例するCAが苦境にあると伝えられてきた。実際、こうした地域おこしの一環で地方自治体に出向し、収入を得るケースもある。  コロナ初期にはCAの出向先として、コールセンターや高級食品スーパー、家電量販店などが積極的に引き受けを表明。旅客機の保安要員として厳しい教育を受けている上に接客スキルが高いため、大歓迎されているとの報道もある。  会社側はもちろんCAの雇用確保に奔走してきたわけだが、それでもCAからは、年収がコロナ前には到底及ばないとの声が上がる。さらには会社側が、グループのLCC(格安航空会社)へ転籍を勧めていることも分かった。  メディアで喧伝される美談の裏側で進む、CAが直面する苦境にスポットを当てる。 「選べる出向先が本体よりも少ない。格差を感じる」――。ANAのグループ会社に所属するCAはこう訴える。コロナ前から、ボーナスの金額や、私的な海外旅行に使用可能なチケットの割り当てがANA本体所属のCAより少ないといった格差はあったが、国際線の勤務をこなせば年収は額面で700万~800万円に達する年もあった。 フライト予定読めず、バイト不合格会社の努力は理解しても「収入は3分の2」  だがコロナ後は、民間のコールセンターや地方自治体に出向してテレビのニュースなどに取り上げられる本体所属のCAがいる半面、グループ会社所属のCAの出向先は選択肢が少なく、「コールセンターに行けた人なんて、私の周囲にはいない」(前出のグループ会社CA)。親会社のANAホールディングス(HD)は取材に対し「ANA本体とグループ会社で同様に出向先への公募を行っている」と答えたが、伝わっていないのだろうか。  このグループ会社CAには、手取りの給料があまりに少なく、フライトのない日にアルバイトをして生活費を稼がざるを得ない同僚がいる。コンビニエンスストアや「スターバックスコーヒー」などコーヒーショップの店員、エステティシャンのアルバイトを探すが、先のフライト予定が分かるのは前月の月末。アルバイト先のシフトに入れる日が決められないため、面接で落とされることもあるという。  事務の仕事を探そうにも、特に新卒で入社したCAにはパソコンの使い方が分からない人がおり、容易ではないのだという。  日本を代表する航空大手2社だが、コロナ後の経営状態を見ると、ANAHDはJALより苦しい状況にある。  JALは2009年の経営破綻で公的資金を投入し、金融機関が債権放棄をした。財務面でスリム化できた上に、燃費の良い新しい機材への更新も進んだ。  一方でANAHDはJAL破綻の間隙を縫って国際線の拡大を進めたが、コロナ後に大きな負担となった。JALは人員削減を否定する半面、ANAHDは20年10月に希望退職の実施を表明した。  さらに21年10月には下図のように、グループ全体の社員を、20年度末の4万6580人から22年度末に約4万1500人に、そのうちLCCのピーチ・アビエーションや関連会社を除くANAブランドの運航に携わる社員を、20年度末の約3万8000人から、25年度末に約2万9000人に減らす方針を明らかにした。ANAHDは「追加の希望退職ではなく、自然減や業務の効率化で実現する」としている。  また今年3月には、中距離国際線キャリアのエアージャパンを、ピーチのようなLCCではないが、ANAのようなフルサービスキャリアでもない三つ目のブランドにする計画を公表。既存のANAブランドの路線より運航コストが引き下げられることになる。  前出のグループ会社CAは「エアージャパンがフルサービスキャリアではなくなるとの方針は報道で知った。不満を持つ同僚は多い。会社からはピーチへの転籍を勧める話も出ている」と話す。ピーチに転籍すれば当然、CAの待遇は下がる。  一方、ANAHDと比べ「良くも悪くも人を大事にする社風」とJAL社員が自ら称する同社では、本体所属のある若手CAが会社の雇用確保策におおむね理解を示す。  この若手CAによると、特に21年度になって社外に出向するCAが増えた。地方自治体の事務だけでなく、中央省庁幹部の秘書として働いている同僚もいるという。  CAの間で特に人気が高いのがコールセンターで、客とは電話で声のみのやりとりとなるが、接客スキルの活用や向上につながると考えられている。受け入れ側の繁忙期に募集が増える。  コールセンターと同じくらい人気なのが冒頭で紹介した「JALふるさと応援隊」だ。フライトのない日に動画の収録などをすればよく、応募が殺到しているというが、「ふるさと応援隊はCAの基本給の中で行う業務で、追加の給与の支払いはない」(JAL広報部)。  そのため、「同僚に聞くと、年収はコロナ発生直後は半減していたが、国内線の需要回復や出向先からの給与で、3分の2程度にはなっている」(前出のJAL本体の若手CA)。  さらにJALでは「CAよりグランドホステスなど地上職の待遇はより厳しい」(JAL関係者)との声がある上、「外資系航空会社なら、クビになって終わり」(前出のANAグループ会社CA)というもっと悲惨な現実もある。  経営へのダメージが比較的軽いJALは23年度入社の本体のCAの募集を再開するが、ANAHDはピーチは募集するものの、本体のCAは募集しない予定だ。  フライト激減という未曽有の事態で会社の対応も追い付かず、生活苦に陥ったCA。コロナの感染状況が再び悪化した場合、JALとANAHDは雇用を維持し続けられるだろうか。 Key Visual by Kaoru Kurata, Kanako Onda, Graphic:Daddy’s Home 岡田 悟記者おかだ・さとる/1984年大阪生まれ。2006年関西学院大学社会学部卒、毎日新聞社入社。秋田支局、甲府支局、東京本社経済部を経て、13年より週刊ダイヤモンド記者。証券、年金制度、建設、住宅、不動産、小売り業界を経て再び不動産、ゼネコン、物流などの担当に。過去に手掛けた特集は「ゼネコン 絶好調の先にある深淵」「不動産投資の甘い罠」「コンビニ地獄 セブン帝国の危機」「コンビニ搾取の連鎖」「地方エリートの没落 地銀・地方紙・百貨店」など。東京都政に関する記事も多数執筆。
ダーク・ヒューマンストーリー『夢喰い』配信開始! 博報堂ケトルSTOVEカンパニーが電子コミックの出版・配信をスタート
ダーク・ヒューマンストーリー『夢喰い』配信開始! 博報堂ケトルSTOVEカンパニーが電子コミックの出版・配信をスタート (写真:BOOKSTAND)  株式会社博報堂ケトルのSTOVEカンパニーが、新規事業として電子コミックの出版・配信をスタート。その第1弾となる新作電子コミック『夢喰い』が2022年3月22日(火)より、コミックシーモア、Kindle、Apple Books、Google Playブックス、Abemaマンガ、pixivコミック、DMM.comなどにて配信されました。  博報堂ケトルSTOVEカンパニーでは、成長を続ける電子コミック領域において独自のコンテンツ開発・展開を行っていくために、同社初となるオリジナルコミックの制作を行いました。『夢喰い』は、原作・シナリオをドラマ『お耳に合いましたら。』、『八月は夜のバッティングセンターで。』、『絶メシロード』(いずれもテレビ東京)などの原案・企画・プロデュースを手掛ける株式会社deaの畑中翔太さんが担当、作画は若手実力派の漫画家・こうや豆腐さんが担当しました。  『夢喰い』は、人々が抱く「夢」をテーマに、主人公の高海 準(たかみ・じゅん)が、古くより人の夢という想いを喰らうと言われている鬼霊"獏鬼"の力を使い、 "夢追う人々の想い"にとどめを刺していく新感覚のダーク・ヒューマンストーリー。人生において何かを成し遂げること、ひたすらに頑張ることだけが「正」とはいえない現代の中で、人が抱く「夢」という想いを通してその意味を問います。全9話で構成される完全オリジナルの連載コミックです。 ■ストーリー(あらすじ) 都会の喧騒の中にたたずむBar・サファイア。表向きはただの小さな店だが、 その裏の顔は「夢喰い屋」という、ターゲットが抱いている「夢」という願望や 希望を消し去る"闇稼業"を行っていた......。 古くより「人の夢を喰らう」と言い伝えられている鬼霊"獏鬼"の力を持った 青年・高海準(たかみじゅん)が、サファイアへとやってくる様々な人間からの依頼を受け、"夢追う人々の想い"にとどめを刺していく--――。 「くだらない夢なんて抱かない方が幸せだ」 夢を追うことが、何かを成し遂げることだけが正しいことなのか?人の想いに 終わりをもたらすことで人々にその意味を問う、ダーク・ヒューマンストーリー。 ■「夢喰い」概要 作品名:夢喰い 原作/シナリオ:畑中翔太  作画:こうや豆腐 価格:<分冊版> 1話100円(税別) 配信開始日:第1話 / 第2話 2022年3月22日(火) 出版元:博報堂ケトルSTOVEカンパニー 配信書店:コミックシーモア、Kindle、Apple Books、Google Playブックス、楽天Kobo、 Abemaマンガ、pixivコミック、DMM.com 他 コミックシーモア https://www.cmoa.jp/title/240828/ Google Play ブックス https://play.google.com/store/books/details/%E7%95%91%E4%B8%AD%E7%BF%94%E5%A4%AA_%E5%A4%A2%E5%96%B0%E3%81%84_%E5%88%86%E5%86%8A%E7%89%88_%EF%BC%91?id=6mhkEAAAQBAJ 楽天Kobo https://books.rakuten.co.jp/search?g=101&series=%E5%A4%A2%E5%96%B0%E3%81%84%E3%80%90%E5%88%86%E5%86%8A%E7%89%88%E3%80%91&maker=%E5%8D%9A%E5%A0%B1%E5%A0%82%E3%82%B1%E3%83%88%E3%83%AB&s=11&l-id=item-c-seriesitem Abemaマンガ https://dokusho-ojikan.jp/series_list/series_id=204012?ref=search_authors_result pixivコミック https://comic.pixiv.net/store/products/1104541 DMM.com https://book.dmm.com/series/?series_id=4167706
炎上した木村伊兵衛賞受賞から15年 ジオラマ風写真の名手・本城直季の「その後」
炎上した木村伊兵衛賞受賞から15年 ジオラマ風写真の名手・本城直季の「その後」 untitled/2002(撮影:本城直季) *   *   * 実際の風景をミニチュアのジオラマのように写す作風で知られる本城直季さん。  2006年、写真集『small planet』(リトルモア)でデビューすると、現実と虚構の合間を覗き込むような面白さが注目され、話題となった。  ところが翌年、本城さんがこの作品で木村伊兵衛写真賞を受賞すると、写真界はにわかに騒がしくなる。 「ふつうの人の目には斬新に映っても、こんな写真技法は昔からある」「ほかの写真家の作品のパクリじゃないか?」。辛辣な声が次々と上がり、受賞のニュースは瞬く間に炎上した。  しかし、同賞の選考委員たちにとって、そんな批判は想定内だったようで、新聞発表後に発売された「アサヒカメラ」(07年4月号)に、こう書いている。 <本城直季については「マーク・レイダーのパクリじゃないか」みたいな批判が当然出てくるだろう。大判カメラのアオリ機能を逆用するテクニックは、すでに先人がたくさんいるし、いまやフォトショップでもそっくりの画像が簡単に作れる>(都築響一さん) <一躍表舞台に躍り出た彼の周辺には雑音が多い。ネットではパクリ情報が流され、いっぱしの評論家が「面白がってやっている」などと貧相極まりない注釈をつけ、最近のお笑い芸人同様たぶん一発芸で終わるなどと自滅を期待する向きすらある>(藤原新也さん) industry/steel mill, Kanagawa/2014(撮影:本城直季) ■ジオラマよりも自分が住む世界への興味  あの騒動から15年。いまでは「ミニチュア/ジオラマふう写真」はすっかりおなじみのものとなった。インターネット上には撮影方法の詳しい解説記事が掲載されているし、そんな面倒なことをしなくてもスマホのアプリを使えば、誰でも簡単にそれっぽい写真がつくれる時代になった。  で、当の本城さんは、というと、そんな時代の変化をまったく意に介さず、いまも同じ手法でコツコツと作品をつくり続けている。  実は、これまであまり語られてこなかったことだが、本城さん自身は「それほどジオラマに対して強い思い入れがあるわけではなくて」と、打ち明ける。 「それよりもぼくは、自分たちが住んでいる世界、特に街にすごく興味があるんです。その興味の表れとして作品をずっと撮り続けてきた」 small planet/Tokyo, Japan/2005(撮影:本城直季)  そもそも、ジオラマふうの作品を撮るようになったのは、東京工芸大学で写真を学んでいた20年ほど前。学校から借りた「シノゴ」と呼ばれる大判カメラの使い方を習得するための試行錯誤がきっかけという。 「ふつうのカメラはレンズとフィルムの位置が固定されているんですが、シノゴのカメラは、その間が蛇腹なので自由に動かせるんです。通常、遠景を撮影すると、画面全体にピントが合いますけど、蛇腹の機能を使えば、画面の真ん中だけにピントを合わせて、上下をボカせる」  当時写した習作の写真がいまも残されている。学校の近くを流れる神田川を橋の上から写したもので、画面中央にはとなりの橋がシャープに写り、背景の超高層ビルと手前の川の流れがボケて写っている。 「このとき、画面の奥や手前をボカそうとか、何も考えていなくて、この蛇腹の状態で撮ると、どんなふうに写るのかな、と思い、シャッターを切った。まあ、この写真を見ても分かるように、最初はミニチュアのようには写らなかったんです。でも、いろいろやっているうちに、その面白さに気がついた」 kenya/giraffe/2008(撮影:本城直季) ■なぜ、こんなふうに撮れたのか?  その「原点です」と語る写真があある。02年に写した写真で、「たまたま撮影したうちの1枚がすごくミニチュアふうに見えた」。  撮影場所は羽田空港に近い京浜運河に架かる橋の上。岸辺の公園でくつろぐ人々の姿がミニチュアのように写っている。 「これを写した後、なぜこんなふうに撮れたのか? を考えていろいろ試していくうちに、高い場所から俯瞰して撮影するとこう写りやすいことに気づいたんです。それで、池袋のサンシャイン60展望台を訪れ、窓越しに街を見下ろして撮影した」  シノゴのカメラと格闘した約4年間。そんな作品をまとめたのが写真集『small planet』だった。一方、作品集としてはテーマやコンセプトに明瞭さが欠けていたことも自覚していた。  それ以降、本城さんは興味の対象を絞り、作品づくりに打ち込むようになる。08年に撮影した「kenya」もその一つ。 「この技法で動物の世界を撮ったら面白いだろうな、と思って、ケニアに出かけたんです」  作品にはゾウやキリン、カバなど、おなじみのアフリカの動物たちが箱庭のような画面に収められていて、とても楽しい。  しかし、撮影は予想以上に苦戦した。 small planet/Nakayama Racecourse/Chiba, Japan/2005(撮影:本城直季) ■いつも撮影はものすごく効率が悪い  アフリカの平原には俯瞰して撮れる場所がない。そのため、空撮にチャレンジした。 「ふつう、野生動物を撮るには超望遠レンズを使うと思うんです。でも、ぼくの作品は自然な感じに写る標準レンズを主に使っているので、すごく近づいて撮らなければならなかった。ところが、上空から動物が点のように見える状態でもヘリコプターが近づくと、逃げ出してしまった」  さらに空撮特有の問題も大きくのしかかった。 「初めて空撮したときは、撮りたいものに1枚もピントが合っていなかったくらい難しい。あらかじめ、画面の真ん中にピントが合うように設定しておくんですが、カメラが上下に動くし、機体は旋回するしで、ピントの位置と、写したい場所がまったくかみ合わない」  そんな悪条件が重なり、ケニアの取材では「30枚くらいしか、納得できるものは写っていなかった」。  しかし、大変なのは空撮だけではない。「いつも、撮影はものすごく効率が悪くて」と漏らす。  例えば、作品「small garden」。小学校の校庭での出来事を、四季を通じて近くのビルの上から写したものだが、「いくら待っても校庭に人が出てこない。そんな『空振り』がよくあります。だから、何十回も足を運んだ」と、振り返る。 「この写真は桜が咲いた校庭で少年野球をやっているんですけれど、そんな光景に出合うことなんて、めったになくて。毎年、桜の時期に行って、『ああ、今年は何もやってないな』と、シャッターを切らずに帰ってくる」 LIGHT HOUSE/Taito-ku, Tokyo/2011(撮影:本城直季) ■20年以上撮り続けている作品も  撮影には非常に手間がかかるため、「small garden」だけでなく、工業地帯を撮影した「industry」、人工ビーチとスキー場を写した「play room」など、長期間、撮影を続けているものがほとんどという。  なかでも、もっとも息長く取り組んでいるのは夜の路地裏を写した「LIGHT HOUSE」で、撮影を始めてから20年以上にもなる。ちなみに、この作品は本城さんとしては珍しく、ジオラマふうではない。 「ただ、ぼくからすれば、『LIGHT HOUSE』も、ジオラマの作品も、自分の住んでいる場所を知りたい、という動機で撮影しているんです。ジオラマの作品がすごくフィーチャーされて、そちらに作品の主軸が傾いたというのが、実際のところ」  3月19日から東京都写真美術館(目黒)で本城さん初の大規模展「(un)real utopia」が開催される。会場には試行錯誤を繰り返した学生時代の作品から、撮り下ろしの最新作が飾られる。世の中に膨大な類似作があふれるなか、なぜ、本城さんの作品がいまも輝きを失わないのか? その理由を実感できる。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】本城直季写真展「(un)real utopia」東京都写真美術館(東京・恵比寿) 3月19日~5月15日
ロシアを食い荒らす「オリガルヒ」が、ウクライナ侵攻後もプーチンを支え続ける理由
ロシアを食い荒らす「オリガルヒ」が、ウクライナ侵攻後もプーチンを支え続ける理由 ロシアのプーチン大統領(GettyImages)  ロシア軍のウクライナ侵攻に対する制裁措置として、日本政府は8日にロシアとベラルーシの政府関係者32名と12の団体に対する資産凍結の実施を発表した。欧米ではすでに新たな制裁対象をオリガルヒと呼ばれる新興財閥の有力者らにも拡大しており、アメリカのバイデン大統領は1日に行った一般教書演説の中でオリガルヒについても言及。「あなたたちが不正な手段によって得た利益を、われわれは取りに行くつもりだ」と厳しい言葉で語り、司法省傘下にオリガルヒ追及チームを設置することを発表した。オリガルヒ追及をめぐる動きは欧州連合(EU)でも活発化しており、議長国のフランスは9日にオリガルヒとロシアの高官に対する新たな制裁で合意に達したことを発表している。なぜビジネスパーソンであるはずのオリガルヒが一連の制裁で対象となっているのか。ロシアの社会や政治におけるオリガルヒの影響力とはどのようなものなのか。「少数による支配」を意味するギリシャ語が語源とされるオリガルヒについて、本稿では考えてみたい。(ジャーナリスト 仲野博文) ソ連崩壊後を牛耳ったオリガルヒのプーチン大統領就任後の明暗  国際通貨基金(IMF)の調べによると、ロシアの2021年の国内総生産(GDP)は約1兆4600億ドルで(世界11位)、ブラジルやオーストラリアと近い額になっている。アメリカや中国、日本はもちろんだが、ドイツやイタリア、韓国といった国も、GDPではロシアを超えている。一方、ロシア国内のビリオネア(10億ドル以上の資産を持つ者)は現在117人いるとされ、これだけを見ると世界第5位になる。  人口では日本より約2000万人多いが、GDPでは日本の3分の1以下となるロシアで、ビリオネアの数が日本の倍以上という現状から、ロシア国内の深刻な経済格差が垣間見える。だが、それ以上に興味深いのはロシアのビリオネアの大半が「オリガルヒ」に分類されている面々という点だ。  アメリカ財務省が作成した制裁対象者のリストには、約200人の政府関係者(プーチン大統領から官僚までが含まれる)と19人の国営企業トップ、そして96人のオリガルヒが含まれていた。  その中には、2003年にイングランド・プレミアリーグのサッカークラブ「チェルシーFC」を買収し、ポケットマネーで多くの有名選手を獲得し、クラブを強豪の一つに押し上げた実業家のロマン・アブラモビッチ氏の名前も記載されていた。  プーチン大統領と近い関係にあるとされる同氏だが、3日にはチェルシーFCの経営権を売却する意向を表明。売却の純益は新たに創設する財団に全て寄付し、ウクライナにおける戦争の犠牲者を支援するために使うのだという。  一部のオリガルヒは1991年のソ連崩壊前から大金を稼いでいたが、当時は大富豪になるだけのビジネスを展開していたわけではなく、規制が厳しかった西側諸国の製品を輸入し(その多くは密輸)、コンピューターなどは一般人の稼ぎでは購入できない金額で販売していたという。  だが、ソ連崩壊後に発足したロシアのエリツィン政権でオリガルヒの力は一気に増大。オリガルヒやマフィアがロシアの政治に頻繁に絡んでくるようになった。ソ連崩壊後のロシアにおける政治環境が混沌としていたことも理由ではあるが、カネ(賄賂)で物事が決まる傾向がより強くなった時代でもあった。  1998年に財政危機に見舞われたロシアでは、前年に発生したアジア通貨危機とのダブルパンチで、デフォルトが発生した。この際に巨額の財産を失ったオリガルヒもいたが、財政危機を乗り越えたオリガルヒや新たに生まれたオリガルヒは、これまで以上に影響力を持つようになっていたのだ。  順風満帆に見えたオリガルヒだが、2000年に大きな転換期を迎える。ゲームチェンジャーとなったのは、同年5月に第2代ロシア大統領に就任したウラジミール・プーチンであった。  プーチン大統領は大統領就任から2カ月ほどたった2000年7月28日、21人のオリガルヒを集め、プーチン政権の経済政策などについて話し合いを行った。しかし、話の中心は今後の経済政策ではなく、実際にはプーチン大統領に忠誠を誓うかどうかの踏み絵をさせ、残す者と排除する者を決めたとされる。この会談の様子を記録したニュース映像は現在も残っているが、多くのオリガルヒが文字通り顔面蒼白(そうはく)の状態であった。  プーチン大統領と距離を置いたり、反プーチンを声高に叫ぶオリガルヒもいた。2006年8月に経営破綻したロシアの石油会社「ユコス」の元社長で、2003年時点で1兆5000億円以上の資産を保有し、ロシア一の大富豪とされたミハイル・ホドルコフスキー氏はプーチン政権の政策を公然と批判し、野党への政治献金を繰り返した。 しかし、ホドルコフスキー氏は2003年に脱税の容疑で逮捕。2005年に禁錮10年の刑を科せられ、2013年12月にプーチン大統領による恩赦で釈放され、国を追われる形でイギリスに移住。現在も生活の中心はイギリスだ。  プーチン大統領によるアメとムチによって、多くのオルガリヒがプーチン大統領と一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係となり、同時に個人の資産もさらに増やしていくようになったのだ。 オリガルヒが造反してもプーチン政権への影響は限定的  昨年4月に経済誌フォーブスが発表した世界のビリオネアの保有資産額に目を向けると、ロシアのオリガルヒで最もリッチな人物とされるアレクセイ・モルダショフ氏の資産が約3兆円で(世界第51位)、それにウラジミール・ポターニン氏(約2兆8000億円)、ウラジミール・リシン氏(約2兆7000億円)という順に続く。  ロシア国内で少なくとも18人が1兆円以上の資産を保有し、そのうちオリガルヒと無関係なのは、ロシア最大のSNS「VK」や通信アプリ「テレグラム」の創設者として知られるパーヴェル・ドゥーロフ氏や、ロシア最大のECサイト「ワイルドベリーズ」の創設者で、唯一の女性でもある韓国系ロシア人のタチヤーナ・バカルチュク氏ら数名に限られる。  ドゥーロフ氏とバカルチュク氏に共通するのは、ロシア以外の国でも見られるIT企業を自分で創設して億万長者になったことだ。  また、プーチン大統領やロシア政府の中枢に近付きすぎないスタンスを取っていることも共通している。  ドゥーロフ氏はフェイスブックにインスパイアされてVKの開発を始めたが、クリミア危機が発生した2014年4月にVKの最高経営責任者を解任されている。  解任の1週間前、ドゥーロフ氏はロシアの治安機関から反プーチンデモに参加しているウクライナ人ユーザーの個人データを提出するように求められたが、これを拒否。さらにロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の個人ページを削除するようにも求められたが、こちらも断固として拒否していた。  バカルチュク氏はECサイトの代表ということもあり、ドゥーロフ氏のように治安機関から何らかの要請を受けたという話は無い。大学卒業後に英語教師として働いていた彼女は2004年、28歳の時に産休で多くの時間を自宅のアパートで過ごしていた。その際にネットでほしいものが購入できれば便利だと考え、700ドル相当の貯金を切り崩して、ワイルドベリーズを立ち上げた。IT企業でエンジニアとして働いていた夫の助けもあり、ワイルドベリーは順調に業績を上げ、2017年にロシア最大のECサイトとなった。  プーチン政権と親密な関係にある実業家がより多くの利益を手にしてきたロシアの社会構造について、アメリカのサウスカロライナ大学で准教授として経済を専門に教鞭をとるスタニスラフ・マルクス氏にオリガルヒが社会に与える影響について聞いた。  マルクス氏は幼少期をロシアとウクライナで過ごし、ドイツに移住。これまでに、ロシア経済やオリガルヒに関する論文や著作を発表している。マルクス氏はオルガリヒが大きな影響力を持つロシア経済に、次のように警鐘を鳴らす。 「(米アマゾン・ドット・コムの創業者である)ジェフ・ベゾス氏や(米テスラ最高経営責任者の)イーロン・マスク氏のように、一般人とは比較できないくらいの資産を持つ人はたくさんいますし、アメリカでは経済格差も大きな問題となっています。ただし、ロシアと大きく違うのは、ベゾス氏やマスク氏といった実業家はゼロからのスタートで、世界的な企業を作り上げたということです。大統領やその側近らによって、成功を確約された状態でビジネスをしてきたわけではないのです。これがロシアとの大きな違いです。ロシアではベゾス氏やマスク氏のような実業家が誕生するのは、構造的に非常に難しいのです」  オリガルヒはロシアだけではなく、ウクライナにも存在するが、彼らに対する世論はそれぞれの国で異なっていたとマルクス氏は語る。 「ロシアでもウクライナでも、ソ連崩壊後に国営企業の民営化の過程で、うまくチャンスを手にした者がオリガルヒになりました。ロシアでは90年代にオリガルヒが莫大な資金力を背景に政治に介入するようになり、それぞれの事業に有利な法案を通過させ、自治体のトップになる人物もいました。この構造を変えようとしたのがプーチンですが、結果的に自らにとって都合のいいオリガルヒを残すだけになりました。ウクライナではゼレンスキー大統領が誕生するまで、オリガルヒに対する規制などがほとんど行われてきませんでした。前任のポロシェンコ大統領やティモシェンコ元首相は有名なオリガルヒです」  経済制裁対策との見方もあるが、プーチン大統領と親密な関係にあるオリガルヒから、ロシア軍の軍事侵攻に反対すると声を上げる者や、ロシア国籍を捨てる意向があると表明した者もいる。しかし、マルクス氏は、オルガリヒが造反したとしてもプーチン政権の基盤に大きな影響は出ないと語る。 「オリガルヒが結束して反プーチンの姿勢を明確にしたとしても、それがすぐにプーチン政権の終わりを意味するとは思えません。また、プーチン大統領に背を向けることは、彼らの将来の終わりも意味するため、リスクが非常に高いのです。現実的ではないですね。ただし、確率としては非常に低いですが、オリガルヒではなく、軍のような大きな力を持つ組織がプーチン大統領に背を向け始めた場合は、話は大きく変わってきます」  ロシア軍のウクライナ侵攻がいつどのような形で終わるのかは誰にも分からない。しかし、オリガルヒへの規制と徹底した汚職対策は、ロシアとウクライナの両方で「待ったなし」の状態だ。マルクス氏が語る。 「私はソ連崩壊後のロシアとウクライナが『ピラニア資本主義』の犠牲になってきたと考えています。政府や自治体、民間企業がまとまった予算を出しても、オリガルヒや官僚がピラニアのように集まり、中抜きや賄賂という形で食い荒らしていくのです。ピラニアに食い荒らされた社会が30年も続いているのです」  ロシアでは2007年に国防大臣に就任したアナトーリ・セルジュコフ氏が、国防省やロシア軍部隊にまん延していた汚職の摘発を積極的に行い、ロシア軍の組織改革や兵力削減に向けて動いていたが、2012年に国防省傘下企業との間で横領事件に関与したとして、突然国防相を解任されている。オリガルヒが関与しない領域でも、ロシア社会の至る所に無数のピラニアが生息しているようだ。 仲野博文ジャーナリスト甲南大学卒業、米エマーソン大学でジャーナリズムの修士号を取得。ワシントンDCで日本の報道機関に勤務後、フリーに転身。2007年冬まで、日本のメディアに向けてアメリカの様々な情報を発信する。08年より東京を拠点にジャーナリストとしての活動を開始。アメリカや西ヨーロッパの軍事・犯罪・人種問題を得意とする。ツイッター:twitter.com/hirofuminakano
NHK大河に初出演する市川染五郎 “美しい”と評判も「まつげが長いとめんどくさい(笑)」
NHK大河に初出演する市川染五郎 “美しい”と評判も「まつげが長いとめんどくさい(笑)」 市川染五郎 [撮影/舞山秀一、ヘアメイク/AKANE、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO]  祖父は松本白鸚、父は松本幸四郎、叔母は松たか子。華麗なる一族に生まれ、次世代の歌舞伎スターを約束された市川染五郎に、各界から熱視線が注がれている。声優やモデルなど活躍の幅を広げ、放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では悲劇の美少年、木曽義高を演じる。大河での学びや歌舞伎俳優としてのビジョンについて、16歳とは思えぬ思慮深さで言葉を紡いだ。 *  *  * ──初の大河出演ですが、撮影で感じたことは?  映像の作品は、ノンストップで進んでいく舞台と違ってシーンごとに撮影しますし、順撮りもできない。台本も全話一気にもらえるわけではないので、義高がどんな人でどう変化していくのか、最初は全然つかめませんでした。  回ごとに監督が違ったりもするんですけど、指示をいただいたり、気持ちの流れを整理したりするなかで、少しずつ人物像ができあがっていきました。  義高は、尊敬する父親である(木曽)義仲のために生きている人。すごくまっすぐで、「父上のためなら」って迷いなく敵の人質になる。そして、源頼朝の娘である大姫のいいなずけになるわけです。自分だったらいやですね(笑)。  大河で描かれている義高は大人っぽいんですけど、史実で考えると11歳くらいなんです。父親と離れ離れのまま12歳で亡くなるまで、いろいろな思いを抱えて、それを周りに見せようとしなかった。すごいと思います。  でも、ふっと素に戻って真顔になる、怖さを感じさせる場面もあります。監督からは「能面のような顔で」と言われました。やっぱり人質として大姫と出会っているわけなので、そういう複雑な思いが垣間見えるような役作りを心がけました。 市川染五郎 [撮影/舞山秀一、ヘアメイク/AKANE、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO] ──義高に共感できる部分はありましたか?  大人に囲まれた世界にぽっと送りこまれて、っていうところは自分も同じだなあと思いました。歌舞伎の世界も大人ばかりですから、やはり不安や緊張を感じることも多いです。 市川染五郎 [撮影/舞山秀一、ヘアメイク/AKANE、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO]  初めて新作歌舞伎(2019年の「三谷かぶき月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち」)に出させていただいたときのことが重なりました。周りは経験がある年上の方しかいなかったので、ギャップを感じて心細かったです。 ──父への尊敬の念という点での共感は?  父(松本幸四郎)は、仕事のときも家にいるときもまったく一緒なんです。常にお芝居のことを考えている「お芝居人間」という感じで、もはやプライベートがないというか。趣味もあんまりないだろうし。 「これをしたら面白いだろうな」っていう妄想を実現させるのはすごいなと思います。自分の場合は、アイデアがあってもまだ想像の域から出ていない。でも父は、隈取(くまど)りの柄をデザインした「歌舞伎フェイスパック」を監修して商品化したり、アイススケートと歌舞伎でコラボしたり、ちゃんと形にしています。 ◆まつげが長いとめんどくさい(笑) ──大河の撮影で、歌舞伎の経験が役に立った場面はありましたか?  やっぱり小さいころから着物を着ているっていうのは大きかったと思います。でも、所作については知らないことだらけでした。歌舞伎とちがって、時代劇になると所作指導の先生がいるので、立ち座りだけでもすごく細かく指導していただきました。この大河での経験が歌舞伎にも生きてくるだろうなと感じます。 ──今回の義高役ふくめ、ビジュアルがいつも「美しい」と反響を呼びます。  不思議です、本当に。自分に自信がないから、ビジュアルも好きじゃないですし、何が美しいんだろうっていう感じで。パーツとして、たとえばまつげが長いっていうのは自分でも思います。でも白塗りの化粧がまつげについていちいちめんどくさいので、嫌です(笑)。 ──歌舞伎俳優としての夢や目標は?  自分なんかはまだまだいろんな経験をして学んでいかなきゃいけない時期なので、まずは基本的な型を体に染み込ませることが大事だなと思います。 市川染五郎 [撮影/舞山秀一、ヘアメイク/AKANE、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO]  でもゆくゆくは、型を身につけたうえでそれを破るようなこともしたいです。高麗屋は新しいことに挑戦してきた家なので、自分も代々の人たちとはちがうことをしたいなっていうのは常に思っています。  今の時代に合う歌舞伎の形はなんなんだろうって模索していきたい。それに、今だけじゃなくてちょっと先の未来を予測して、先取りすることもできたらいいですよね。  たとえば、今は歌舞伎を動画で配信することが多くなっているので、映像作品とか。舞台だと伝えたいことを直接伝えられるし、お客様の反応を見られるので、自分としては舞台が一番好きです。でも若い方に知っていただく機会としては映像も使えたらいいなと。  日常生活では、見るものすべて、無意識に歌舞伎につなげています。映画を見て「これを歌舞伎にしたらどうなるかな」って考えたり、かっこいい響きの言葉を見つけたら「何かのタイトルに使えそうだな」って携帯にメモしたり。そういう頭になっちゃっています。 ──現在高校2年生。仕事と学業の両立は大変?  学業ができれば苦労はないと思うんですけど、できないので苦労しています(笑)。特に数学は中学生のころから苦手です。勉強しなきゃと焦ってはいるんですけど、まだまだ勉強の面白さにたどりつけていないのかもしれません。授業中は真面目に聞いているのですが……。 ──歌舞伎以外に、挑戦してみたい仕事は?  具体的な目標はないですね。いろんなことをやっていきたいですし、歌舞伎以外のお仕事で興味を持ってくださった方も、それをきっかけに歌舞伎を見に来てくださったらうれしいです。  どんなお仕事でも、「この経験が自分のお芝居に生かせればいいな」と思って臨んでいるんです。自分が歌舞伎俳優であることは、常に忘れないようにしています。 (構成/本誌・大谷百合絵) 市川染五郎(いちかわ・そめごろう)/2005年、東京都生まれ。松本白鸚を祖父に、松本幸四郎を父に持つ。18年に八代目市川染五郎を襲名。昨年はアニメーション映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」で主人公の声優を務めた。放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に木曽義高役で出演。※週刊朝日  2022年3月4日号
「怖いけど、きれい」 グロテスクでなまめかしい魚の目に魅せられた写真家・今道子
「怖いけど、きれい」 グロテスクでなまめかしい魚の目に魅せられた写真家・今道子 撮影:今道子  写真家・今道子(こんみちこ)さんの作品展「フィリア」が神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で開かれている。今さんに聞いた。 *   *   * コハダのランジェリー、アジの帽子、ウルメイワシのエプロン、イカのスニーカー……。 「よく、こんな発想が思い浮かぶものですねえ」。作品を目にしながら筆者が言うと、「ふふっ。ふつう、こういうものを作ろうとは思わないですよね。そういう人なんでしょう」。今さんはまるで他人を評するように答える。  新鮮な魚の美しさがオブジェのグロテスクさを際立たせる。さらに作品からはユーモアさえも感じる。 「ただ、きれい、というだけじゃあ、つまらない。生物って、グロテスクさやなまめかしさもある。それに引かれますね」  ただ、ユーモアについては「別に意図していない」とキッパリ。けれど、「作品を見る人からすると、ちょっと笑えるようなところもあるみたいですけれど」と、付け加える。 「生の魚の感触を手に感じながらオブジェをつくるのが面白くって。例えば、サバを筆と絵の具で描くんじゃなくて、そのまま使いたい。それを写真に写して残してあげたいという気持ちが強くあります」  魚好きが高じてこのような作品をつくるようになった、というわけではない。むしろ逆だ。 「うちの母も父も、あまり魚が好きじゃなかったんですよ。生臭いと言って、魚をおろすのを忌み嫌っていた。だから私も、魚をつかんだこととか、なかった」 撮影:今道子 ■キャベツが人間の脳に  1955年、鎌倉市生まれ。東京・国立の創形美術学校で版画を学んでいたとき、「写真製版」と呼ばれる技法を使ったことをきっかけに写真を意識するようになった。 「最初は絵を描きたかったんです。それが版画に変わり、写真になった。絵はシュールレアリスムみたいな、超現実的な作品が好きだった。それを描くんじゃなくて、自分の手でほんとうに作っちゃう。さらにそれを『真実を写す機械』みたいなカメラで、ストレートに撮ることで、超現実的なものがリアルになる。その面白さに気がついた」  78年、美術学校を卒業すると同時に東京写真専門学校に入学。カメラの使い方やプリントの方法を学んだ。  すると、もう翌年から現在につながる作品を発表し始めた。 撮影:今道子  最初のモチーフはキャベツだった。 「近所の直売所に行ったら、春キャベツがいっぱい積んであったんです。それを買って、皮を1枚1枚剥がしていったら、人間の脳のような物体がたくさんあるように見えた。それが面白くて。でも、野菜をテーマに写していたのは短かったですね」  今さんはすぐに魚の魅力に引かれていった。 「サバとか、模様がちょっとグロテスクで、それが枕から出てきたら面白いと思ったんです(笑)。でも、触るとヌルヌルしていて怖かった。最初は、キャーとか言いながらやっていました。いまでも、『怖いけれど、きれい』みたいなところがあります」  最初はシンプルな作品だったが、「見た人が喜んでくれると、今度はもっと手の込んだものをつくろうと思って」、モチーフは次第に複雑なオブジェになっていった。 撮影:今道子 ■新鮮な魚を見るとつくりたくなる  今さんの作品づくりのモチベーションの源は、捕れたての魚だ。 「新鮮な魚を見ると、作品をつくりたくなる。イワシ、アジ、サバとか。あの、光っているのが好きなんです。ああ、きれいだな、と。金属質な輝きがモノクロ写真と合っているのも好き」  それにしても、いったい、どのような発想の流れでこんなオブジェがつくられるのだろうか? 「拾ってきた椅子、古道具屋で買ってきた昔の家電とか、そういう面白そうなものを集めながら、あれとこれをこうしたらいいかな、と。ノートなんかに書き留めて、それが頭の中でうまく出来上がったら撮影するんです。朝、魚を買ってきて、オブジェをつくり、夕方、日が落ちるまでに撮り終える」  オブジェの土台と組み合わせる魚は「夕食の材料を買ってくるような」地元の鮮魚店で手に入れる。 「できれば、鎌倉の『地魚』。鮮度のいい朝捕れのイワシやサバがいちばん。イカなんか、まだ生きていたりする。ただ、入荷するかは漁師さん次第なので、『入ったら、お願いします』とか、店に頼んでおくこともある。それがけっこうたいへんなんです」  花や果物などの素材は、ある程度、前もって用意しておく。 「でも魚は、朝、買いに行って、いいものが手に入らなかったら、その日は撮影を諦める。きれいと思えなかったら、やりたくない」 撮影:今道子 ■特に好きなのは魚の目  購入した魚を自宅まで持ち帰るまでがひと苦労。 「みなさんが想像する以上の量を買ってくると思います。もう、持てないくらい。私は車の運転ができないから、持って帰るだけでかなり疲れる」  しかし休む間もなく、台所に立ち、魚をさばき、テーブルの上にオブジェをつくり上げていく。  作業は時間との勝負だ。時間をかければオブジェの作り込みは増す一方、魚の鮮度は落ちてしまう。  今さんがこだわるのは魚の目。 「私は特に魚の目が好きなんです。その目が、鮮度にいちばん左右されると思う。だから、オブジェをつくっているときだけは、もうひたすら、人が変わったようにがんばる。特に冬なんかは、日が暮れるのが早いですから、ものすごく急ぎます」  照明の道具は、太陽の光を反射してオブジェに当てる「レフ板」くらいしか使わない。 「ものをいちばんきれいに見せる光は、自然光だと思いますから。そんなわけで、時間に追われて、相当ヤバい感じで撮ったのものもある。傾きつつある光に向けてオブジェを動かし、整えながら、シャッターを切る。もう、まわりなんか、構っていられないから、さんさんたる状態。後の掃除が大変で(笑)」 撮影:今道子 ■築地では変な人?  今回、大きな作品を間近で見て、改めて実感したのは、今さんの包丁さばきの巧みさだ。魚の表面は傷つきやすいので、これほどきれいに皮を剥ぐのはかなり難しい。時間をかければ、指先から熱が伝わり、あっという間に鮮度が落ちてしまう。 「身は傷ついても、皮は破れないように(笑)。生きて動いているタコとかも、なんとかやっちゃいました。けっこう、残酷ですね。でも、吸盤とか、透明感があって、きれいでした」  東京・築地市場の近くに部屋を借りて作品づくりに打ち込んだこともある。 「特に30代のときが多かったかな。男性の仲買人しかいないようなところに混じって、突き飛ばされながら魚を買っていました。『マグロの頭をください』とか。そういう、なかなか手に入らないようなものを撮っていたんですけれど、変な人だと思われたでしょうね(笑)。でも、この撮影の後、どうしようかと思いましたよ。生ごみとして捨てるにしてもすごく大きい(笑)」  昔はあまり好きではなかった魚だが、「いまでは好きですね。食べるのも」。  そこで、「何が好きですか?」とたずねると、「スルメイカの目、ウルメイワシの目とか」。  そして一瞬、間をおいて、「あっ、食べるほう?(笑)。いつも好きなのはシャケです」。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】今道子写真展「フィリア」展神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 11月23日~2022年1月30日
本屋「B&B」×English Studio Tokyo、早朝英語ワークショップがオンラインにて再スタート!
本屋「B&B」×English Studio Tokyo、早朝英語ワークショップがオンラインにて再スタート! (写真:BOOKSTAND) 下北沢の本屋「B&B」とEST Holdings 株式会社が、早朝英語ワークショップ「EST×B&B モーニング・イングリッシュ・アカデミー」を、コロナ禍により中止していた対面式レッスンからオンラインへと業態を変え、12 月3 日(金)より開講します。 「EST×B&B モーニング・イングリッシュ・アカデミー」では、毎週金曜日の2つの時間帯(6時25分~7時55分/8時~9時30分)で同じ内容のセッションが実施され、その週の予定に合わせて参加するセッションを自由に選択することができます。 また、以前は10週間完結プログラムでしたが、今回から継続型の4週間サイクルになりました。そのため、新規申し込み者は翌月1週目からすぐにスタートできます。さらに、初回参加日までの期間には「申込者限定の無料コンテンツ」が用意されているので、受講までの意欲や期待感を維持し続けられます。 入会金やテキスト代は完全無料! オンラインだから自宅やオフィスなど場所を選ばず学べて、英語トレーニングを開始するハードルが低くなっているのもうれしいポイントです。 当プログラムは、都内企業のトップCEOや行政機関のメンバーを20年に渡ってサポートしてきた熟練トレーナーによって構成され、発展してきました。トレーナー自身に多分野のビジネス経験や知識が備わっているからこそ成り立つプロフェッショナルのためのアカデミーを体験できます。 セッション内でのアウトプットを繰り返すことがそのまま実際のビジネスシーンで発揮できるスキルにつながります。国際レベルで活躍できるビジネスプロフェッショナルを目指したい人にもおすすめです。 12月3日(金)開講のセッションから参加したい人は、11月30日(火)が申し込み締め切り日です。この機会に「金曜日の朝を自分磨きの時間」に変えるチャレンジをスタートしてみてはいかがでしょうか。 ■スケジュールと受講料 *毎週金曜日(第1~第4)の早朝に90分のオンラインセッションを実施。 ・[Slot 1]6時25分~7時55分 ・[Slot 2]8時~9時30分 *その都度予定に合わせて時間帯を選択できます。 *プログラムは1テーマあたり4週間サイクルとなりますので、申し込み日に直近する第1金曜日が初日となります。 ・11月中に申し込みの場合 ⇒12月3日(金)開始 ・12月中に申し込みの場合 ⇒1月7日(金)開始 ・1月中に申し込みの場合⇒2月4日(金)開始月申し込み可能 *事前に申し込みした場合でも、初回セッションへ参加する月までは料金が発生いたしませんのでご安心ください。 *なお、事前申し込み者は一部コンテンツへの無料アクセスが可能となります。 【月額】11,000円(税込12,100円) 公式サイトURL:https://estonlineseries.com/pages/bookandbeer ■B&B×English Studio Tokyoとは 2013年9月よりEnglish Studio Tokyo(EST)と本屋B&Bが共同でスタートした早朝英語ワークショップシリーズ「EST×B&B モーニング・イングリッシュ・アカデミー」の新シリーズです。18年以上に渡り、日本の地方政府や大企業、ベンチャー企業まで英語トレーニングを行ってきたプロ講師陣から、出勤・通学前の朝時間を有効活用し、無駄なく本当に使える英語を学びましょう。クラスの85%が受講生同士のポジティブでアクティブな会話時間。黙って座って聴くだけの時代は終わり! 合言葉は「Up!Up!Up!」
ポイント投資の前に効率的な“ポイ活”を 経済圏の選択は「携帯キャリア」がカギ
ポイント投資の前に効率的な“ポイ活”を 経済圏の選択は「携帯キャリア」がカギ (イラスト 西田ヒロコ)  貯まったポイントを利用して、投資信託や株などを買い付けできるポイント投資。始めるなら、ポイントが貯まる環境を整えることが必須。効率的な“ポイ活”にはどんなワザがあるのか。AERA 2021年11月22日の記事を紹介。 *  *  *  フットワークの軽い人なら、さっそく証券会社のサイトにアクセスを試みたかもしれない。だが、ポイント投資を始める前に、まずは整えておきたい環境がある。それは、より有利にポイントが貯まる仕組みを構築しておくことだ。  まずはポイントの還元率を通常よりもアップさせるために、所定の条件を満たしておこう。効率的にポイントを貯められるワザは数多く存在しているし、新しいお得なサービスもどんどん登場している。  たとえば、10月18日から始まったのが「楽天ポイント利息」。自分が保有している通常ポイントを預けておくというものだ。預け入れるポイント数(100ポイント~)を設定するだけで手続き完了。月末時点の預け入れポイント数に応じて、毎月5日に年利0.1%以上に相当する利息がつく。ポイントを貯める名人はこうしたサービスを見逃さず、効率的に獲得できるワザを駆使する。いわゆる“ポイ活”に力を注いでいるわけだ。  インスタグラムのフォロワー数が11万人を超え、インフルエンサーとして高い支持を獲得する「くぅちゃん」さん(https://www.instagram.com/megum.nakano/)もその一人。浪費気味だった家計を改め、さらに節約とポイ活を徹底して、6年目に1千万円を貯めた。 「節約するにしても限界があるし、資格を取っても必ず収入が増える保証はありません。そこで、ポイントを上手に貯めて現金の代わりに使い、その分だけ支出を減らしています」 ■カードと口座を連携  いろいろと試した結果、一番貯めやすかったのは楽天ポイントだった。より効率的に獲得するために楽天グループの他のサービスと連携。たとえば、楽天カードの引き落とし口座を楽天銀行に設定して楽天市場で買い物をすると、「通常のポイント付与率+1倍」にアップする。 (AERA 2021年11月22日号より) 「楽天カードを使って獲得したポイントをQR決済の楽天ペイで支払いに充てると、さらに1%の還元が受けられます。獲得倍率がアップするキャンペーンのスケジュールをチェックしておき、貯まりやすいタイミングで必需品をまとめ買いするのが効果的です」(くぅちゃんさん)  SNSで32万人超のフォロワーを抱える「ののこ」さん(https://www.instagram.com/nonoko_16/)も、やはり楽天ポイントの経済圏を中心に位置づけて、ポイ活に励んでいる。 「選んだ理由は、サービス内容が充実しているからです。楽天銀行、楽天証券、楽天カード、楽天モバイルを連携させてポイントを貯めています。投資信託への積み立て投資も楽天カードで支払うと、購入金額の1%に相当するポイントを獲得することができます」  ののこさんの場合、獲得したポイントはしばらく貯めておき、ポイント投資や後述のポイント運用サービスでさらに増やしている。夫が300万円の借金を抱えていたことがポイ活の出発点となった。だが地道な積み重ねの結果、わずか3年で500万円の蓄えを確保するまでに家計を改善させた。現在はマイホームの購入も計画中という。 ■携帯電話に着目しよう  すでに複数のポイントサービスを利用中で、どのポイントに的を絞るべきかで迷ってしまう人もいるだろう。  ののこさんは次のようにアドバイスする。 「自分が使っている携帯電話で貯まるポイントを選ぶのが一つの手です。各携帯電話会社(キャリア)は、自社ユーザーへの還元に力を入れていますから」  ここまでは楽天ポイントの経済圏を中心に紹介してきた。ほかの主要ポイントも効果的に貯められる特典などを用意している。  dカード(ドコモのクレジットカード)のポイント還元率は通常1%で、QR決済のd払いだと0.5%だ。しかし、d払いの支払い方法としてdカードを選ぶと、「0.5%+1%=1.5%」となり、ポイントの2重取りが可能となる。また、auPAYマーケットの利用で獲得できるPontaポイントは通常1%だが、auPAYカード払いなら6%にアップする。  話が少々ややこしくなるのは、ソフトバンクのユーザーだろう。携帯電話ではTポイントが貯められるが、ソフトバンクと系列のヤフーが設立したQR決済のPayPayだと、獲得できるのはPayPayボーナスになる。  ここでネックとなるのは、二つのポイントは相互交換できないことだ。PayPayボーナスでは、ポイント投資を行えないのも難点といえる(次に説明するポイント運用は可能)。それぞれ還元率アップなどの特典が設けられているものの、ほかのポイント経済圏と比べると複雑な構造となっていることも否めない。  一方、貯めたポイントに“働いてもらう”ことも考えよう。先に登場した「ポイント運用」と呼ばれるサービスを利用するのだ。 ■ポイントで疑似体験  ポイント運用では、ポイントを現金化しない。このサービスを利用すると、自分が選んだ投資信託などに連動してポイントの残高が増減する。いわば投資を疑似体験できるわけだ。  序盤で触れた「楽天ポイント利息」が所定の利息を着実に受け取れるのに対し、ポイント運用は投資対象の値動き次第で、より大きな成果を期待できる。現時点でこのサービスを実施しているのは、楽天ポイントとPontaポイント(auPAYポイント運用)、dポイント、PayPayボーナス、永久不滅ポイント(セゾンカード)、エポスポイント(丸井)の六つだ。  ポイント投資について、楽天証券経済研究所ファンドアナリストの篠田尚子さんがこう助言する。 「毎月1万ポイント以上を獲得する人もいますが、そこまで達しない人も少なくないはずです。自己資金にポイント分を充当させる方法で、より効果的な積み立て投資を始めるのが基本でしょう」  身銭も惜しむべからずか。(金融ジャーナリスト・大西洋平)※AERA 2021年11月22日号より抜粋
【Vol.6】状況に応じて柔軟に付き合っていこう。信頼できる先生や仲間と、乾癬を温かく見守る社会を目指して
【PR】【Vol.6】状況に応じて柔軟に付き合っていこう。信頼できる先生や仲間と、乾癬を温かく見守る社会を目指して *一般社団法人INSPIRE JAPAN WPD乾癬啓発普及協会 https://www.inspirejapan-wpd.net/ 治療により症状が改善するも、 別の病気により治療を中断  奥瀬さんが乾癬を発症したのは16~17年前。治りにくい病気であることはなんとなく理解していたが、予想以上に難しい病気だと感じたという。 「診断時に医師からも治りにくいとは言われましたが、きちんと治療をすればよくなるだろうと想像していたんです。でも、処方された薬を塗ってもなかなかよくならないどころか、徐々に体のあちこちに広がっていきました」(奥瀬さん)  横浜市立大学附属病院皮膚科の渡邉裕子先生は、奥瀬さんのように、症状が改善した後に患者さんが話す言葉に気づかされることも多いと話す。 「乾癬患者さんは、日常生活のさまざまな場面、こまごまとしたことで困ることが多くあると思います。でも、困っていることを診察のときに話してくれる患者さんは少ない。ですから、医師が一歩踏み込んで、患者さんの困っていることをすくい上げる気持ちを持つことが大切だと考えています」(渡邉先生) 「このまま治療を続けていけばいい」と考えていた奥瀬さん。しかし、別の病気が見つかり、乾癬の治療を中断せざるを得なくなる。そして、治療をやめると再び乾癬の症状が現れた。 「予想はしていましたが、やはりショックでした。最初のときより、一度よくなった後にまた悪くなったときのほうが精神的なダメージは大きくて、つらかったですね」(奥瀬さん) 患者さんと医師だけではなく “チーム”で乾癬と向き合う  心身共につらい時期が続いたが、苦しいときも奥瀬さんは常に自身の希望を率直に医師に話し、医師も奥瀬さんの気持ちを十分に理解し、いっしょに考えて治療を提案してくれた。皮膚科の主治医だけでなく、別の病気をみてくれる診療科の医師も含め、「みんなで考えてくれている」と感じたと話す。 「先生はいつも『どうしたい?』と聞いてくれたので、自分の思いを素直に話すことができ、心強かったです。なかなかよくならなくても、先生がなんとかよくしようとそのときにできる最良のことを考えてくれていると感じて、信頼できた。だから、つらくても治療をやめようとは一度も考えませんでした」(奥瀬さん)  病気の治療を終えてから4年後、奥瀬さんは乾癬の新たな治療を再開し、現在では症状が落ち着いている。「患者が求めることは十人十色」と言う奥瀬さん。自身がどうしたいかわかるまでに時間がかかる人もいる。自分のように治療中に予期せぬことが起こることもある。長くつきあう病気だからこそ、その時々の自分の気持ちを、その都度医師に伝え、相談していければと考えている。  渡邉先生は「乾癬の治療に向き合うのは主治医と患者さんの二人だけではない」と話す。「病気について悩んだときは、皮膚科の他の医師や、患者さんに他の疾患がある場合にはその診療科の先生に相談する方法もあります。そうやって、他の皮膚科医や看護師、必要なら他科の先生方や患者さんのご家族など周囲も巻き込んで、みんなで“チーム”として乾癬と向き合っていけたらいいですね」(渡邉先生) 社会に広く乾癬を知ってもらうために 情報を発信し続けたい  あるとき、奥瀬さんは主治医に勧められて乾癬の患者会が主催する勉強会に参加し、衝撃を受ける。「私はそれまで自分以外の乾癬患者と会ったことがなかったのですが、そこには多くの患者がいて、『こんなにいるんだ!』と。それに、同じ患者同士だからでしょうが、皆さんとてもおおらかで、隠すことなく何でも話していたので驚きました」(奥瀬さん)  そして、「こういう環境が患者には必要なのでは」と思い、自らも患者会「神奈川乾癬友の会」を立ち上げる。患者会の活動を通し、奥瀬さんは、同じ病気の患者さんと関わりを持ちたいと考える人、病気や治療の正しい情報を求める人は多いと感じたという。その言葉に渡邉先生も同意する。 「正確な情報が届いていない方や患者会があることを知らない方も、まだたくさんいらっしゃいます。乾癬治療の選択肢は増えていること、患者さんのための場所があることなどを、できるだけ多くの方に知っていただきたいですね」(渡邉先生)  また、奥瀬さんは、患者さんに情報を発信するだけでなく、「社会の人々にもっと乾癬を知ってもらいたい」とも考えた。日本ではまだ乾癬という病気の認知度は低く、そのために周囲の理解を得られず一人で悩み苦しむ患者さんも多い。そこで、乾癬の社会における認知度向上を目指し、乾癬啓発普及協会「INSPIRE JAPAN WPD」を設立。動画や市民公開講座などによる情報発信のほか、毎年、世界乾癬デーに合わせて東京タワーでのイベントやキャンペーンなどを実施している。 「『INSPIRE』には、『鼓舞する』という意味もあり、患者さんを元気づけたいという思いも込めています。時間はかかるでしょうが、少しずつでも乾癬という病気への理解を社会に広めていきたい。それが、患者さんが乾癬と共に明るい気持ちで生きていけることにつながると思うから。これからも取り組みを続けていきたいと考えています」(奥瀬さん) 疾患についてのさらに詳しい情報はこちら https://kansen-chiryo.net/line/ *  *  * コミュニケーションのヒント このページは日本イーライリリー 株式会社が提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
三十三回忌松田優作のシナリオ「真夜中に挽歌」を43年ぶりに再演するわけ
三十三回忌松田優作のシナリオ「真夜中に挽歌」を43年ぶりに再演するわけ 1978年の「真夜中に挽歌」初演楽日終演後に撮影。前列中央のサングラス姿が松田優作さん(渡邉俊夫さん提供)  11月6日に三十三回忌を迎える俳優・松田優作が遺したシナリオ「真夜中に挽歌」が11月3~7日、東京・サンモールスタジオで43年ぶりに再演される。三十三回忌に向けて公演を準備した文学座演劇研究所同期の野瀬哲男さん(69)に、思いを語ってもらった。  文学座付属演劇研究所の1次試験が新宿の文化服装学院であって、そこに集まっていた1200人の中で見かけたのが最初なんですが、やたら目立ってました。休憩時間にタバコを吸いに出たら人だかりができてて、その中にアニキがいまして、身長が高かったのとアフロで、すっげーデカく見えてね。《アイツは誰だ?》というのが第一印象です。はなっから存在感が並外れてました。芝居以前の話です。  約200人が1次を通過して文学座のアトリエで2次試験があり、そのときアニキは入り口に近いところに座ってて「おう、合格したのか。頑張ろうな」と声掛けてきたんです。1次で目立ってた記憶が残ってたんで《あ、あの時の……》と、それが第2印象です。既にその時点で何人かが周りを囲んでて、その中心にいました。その頃のアニキは、どこいくにもジーパンに下駄というスタイルで、僕もまねしました。文学座の後輩になる中村雅俊がドラマでそういう格好をしてましたけど、それは、そのずっと後のことです。  最終的に40人が合格(12期生)し、その中に僕もアニキもいました。信濃町の文学座のアトリエの反対方向に歩くと文学座の練習所があるんです。入所して3日くらいしたとき、授業が終わってから「飲もうじゃないか」となって、先生の許可を得て練習場でゴザひいて、酒を買いに行ってね。ちょうどそれが僕の二十歳の誕生日で、酔っ払っちゃって、僕は割れたビール瓶で首を切ってしまったんです。大けがではなかったけど血がバーッと出たとき、「おーい、何か持って来い」って言って最初に動いてくれて、介抱してくれたのがアニキです。傷口を押さえてるだけで包帯なんか巻きませんでしたし、病院にも行ってませんけどね。そのあと喫茶店に入って「お前、ゆっくりしとけ」と。で、「血が止まったな」と言うと、また仲間集めてどっかに飲みに行っちゃて……僕は置いてけぼり(笑)。 松田優作さんの墓前に、今回の公演の報告をした野瀬哲男さん(後列右から2人目)ら=提供写真  文学座時代、教室でも目立ってました。授業でラブシーンを演じたとき、その稽古でホントにブチューッとキスしたんで、皆びっくりしたんです。うわーっ、となりました。本番でやるのは分かるんですけど、普通、稽古ではしません。まねするだけです。アニキは練習のときから本気なんです。相手の女性はビックリして、そのあと、惚れてましたね。  格好良かったし、アニキはモテましたよ、メチャクチャ。本気度が分かるんじゃないですか。それは何事に対してもで、芝居に対しても、勝負事に対しても……麻雀ひとつ取ってもね。当時、授業が終わると、雀荘に行って麻雀するか飲むかで、僕もバイトが始まるまでの時間に麻雀しましたけど、バイトの給料の半分はアニキの財布の中です。強いんです。アニキが一番強くて、皆から巻き上げてたって印象です。  めっちゃくちゃ負けん気が強いんですよ。負けず嫌いです。たとえば、僕がオセロを持ってったとき。アニキはそれまでやったことがなくて、僕が勝ったんです。そうすると、「もう一回」「もう一回」となって、本人が勝つまで止めさせない。で、アニキが勝つようになったら僕は二度と勝てませんでした。  将棋でも、僕、サウナで意識不明になりましたからね。「すみません。水飲ませて下さい」って言っても「まだ勝負がついてねぇ」って言って、出してくれないんです。で、勝負がついて「テツ、水風呂でも浴びて来い」って言われて「ありがとうございます」と言ったあと、脱水で意識不明になって……気が付いたときは「テツ、大丈夫か」って言いながらボンボンたたかれてて、そこまで僕は記憶がないんです、危ないでしょ。見境ないですよ。二度とサウナで将棋しませんでした。  何であんなに勝負事が強かったかって言うと、そういうことだと思うんです。僕が勝ったのはオセロぐらいですよ(笑)。  日テレのプロデューサーたちが「太陽にほえろ!」の、ショーケン(萩原健一)のあとの刑事を文学座に探しに来るらしい、って情報が流れたことがあってね。皆、緊張してたんですが、アニキ一人だけ緊張してなかったなぁ。 「真夜中に挽歌」(作・松田優作)の公演ポスター  まだ若いときから言ってたのが「現場には最低20分前には入ってろ。で、先に入ることで周りに気を遣え」でした。僕が運転するときも「30分前に着けるように俺はお前を呼んでる。そうしとけば、道が混んでも20分前には着くだろう」と。で、遅れそうになると「おい、20分前には着くぞ。これ、着かんぞ。あっち、あっち」「おい野瀬、出せ、出せ」って感じで後ろからせかされて、警察に捕まったことがあります。ワーッとスピード出したらそこでネズミ捕りをやってまして(笑)。  時間を守ることにうるさかった。キッチリしてるんです。遅刻なんて、自分も他人も許さない。だから、アニキがキャストだったり、監督だったりしたら、現場は張り詰めた空気でした。初めてきた役者さんは僕に「おい、優作ちゃんの現場って、こんなに緊張感あふれる感じでいつも始まるの」と聞いてきて「そうだよ。心地いいでしょ」と答えると「いや、オレ、どうやっていたらいいかわからん」と言ってましたね。  アニキは、ハッキリしてるんです。道理に合うか合わないかにものすごくこだわる人でした。その辺が分かれば付き合えるんですが、それが分からなくて離れていく人も多かったですね。最後の頃は「人として、どうか」と言い出して、こだわってました。「その行動は、人として成り立っているのか」とかね。  愛情深い人なんです。ただ、それに甘えるやつは、殴られる(笑)。ある時期、あの人は、気を遣え、ではなく、「心を遣え」と言ってました。「気を遣っておべんちゃらを言うのではなく、心を遣って接しろ」と。そういう色んなことを飲みながら聞かされました。  皆さん、何それ、と思われるかもしれないけど、飲んでる最中に「オレ、昨日、月を1周してきた」とか「この前、ジュピターに行ったらな」なんて話をするんです。有り得ないけど、そのときの僕らは《この人は行ってる》《幽体離脱でもして行ってきたんじゃないか》と思ったんです。そう思わせるものがありました。だから「どうでした?」って真剣に聞きました。  仲間が死んだときの悲しみ方もすごかった。  何と言ったらいいんでしょう……次元が違うんですよ、アニキは。スポーツで言うなら大リーグで活躍してる大谷翔平。彼は次元が違うと言われてますよね。似たようなものです。  一緒に芝居するようになってから、10年先行ってる、と思いました。付き合えば付き合うほど、もっと先行ってると思いました。だから、飲んでて言ったことがあるんです。 「アニキは、追い付け、って言うけど、追い付こうと思って頑張ってると、そのまた先へ行く。一生かかっても追い付けない。ゆっくり進んでくれませんか」と。それは芝居の話じゃないんです。あの人は、僕にはまねできない、色んなアンテナを張り巡らせてて、生き方が先行ってるんです。感覚だから説明できないけど、2、3年分追い付いてきたかな、と思うと、さらに10年先に進んじゃってて、つまりは17、8年先行ってることになる。というぐらい、どんどん開いていく……そういう感覚にさせられるんですよ。  カリスマって、神に一番近い人のことですが、僕にとってのカリスマはアニキです。  僕が「アニキ」って言い出したのは、一緒に芝居するようになって、2本目くらいのときです。  アニキは原田芳雄さんのことを「アニキ」、渡哲也さんのことを「あにい」、勝新太郎さんのことを「師匠」って呼んでました。で、アニキのことを周りは「優作」とか「松田」とか呼んでて、同期(年齢は向こうが3歳上)の僕もそう言っていいんだけど、言えなくて、文学座当時に僕が付けたあだ名の「ジャンボ」と呼んでたんです。で、あるとき「やめてくれよ。呼び方、変えてくれないか」と言われて、「俺にとってジャンボはアニキだよね」「いいね、その響き」。次の日から「アニキ」で、「お前が俺をアニキと呼ぶなら、俺はお前のことをテツと呼ぶ」と。  ある年齢になったとき、急にカヌーの練習に付き合わされました。「今から、あるところに行く。一緒に行こう」と言われてね。  埼玉の戸田ボート場の横に学生が練習する場所があって、そこに行ったんです。何すんだ? と思ってたら、若い男の子が2人来て「優作さん、本当にやりますか」「おう、お願い」。訳が分からないまま付いてくとカヌーが用意されてて、「今から練習をします」「え、聞いてねえよ」ってやつです。  だけど、ひっくり返ったらどうやって抜け出すか、どうやってカヌーを起こすか、ってところから始まって、アニキも一緒に1日中カヌーの練習でした。で、その帰り、「俺、ちょっと寄りたいところがある」と。「いいっすよ」と言った俺は、どこかの飲み屋に行くのかと思ってたら池袋の西武デパートのスポーツ売り場に行って、その場でカヌーを買ったんです。1日しか練習してないのに。  で、ちょっと仕事が落ち着いた日、「テツ、行くぞ」。「は?」「乗れ。1泊で行くから」「は?」。着いたのは秩父の奥の方。カヌーで川下りすると……。平坦なところは何とかなっても、急流とかゴツゴツした岩場とか、危ないでしょ、1日しか練習してないんですから……。だけど行くんです、アニキは。実際、僕には死にそうなことが起きて「助けてくれ~」と言ったんですが、釣り人に「邪魔だぁ」とか言われてねぇ。アニキは振り返らないですから。先に降りて待ってて、「おう、テツ、大丈夫か」(笑)。そういうこともありました。  やろうと思ったらすぐやって、それもトコトンなんですよ。手を抜くとか気を抜くことがないんです。遊びでも一生懸命で、本気。何に対しても前向き。それが皆さんにも伝わってたと思うんです。  あるコンサートで、暴走族が集まったんです。アニキは、そういう人たちにも人気がありましたから。で、会場で騒ぎまくって、松田優作の歌を聞きに来てた他のお客さんの迷惑になってたんです。そしたら舞台の上から観客席の暴走族たちに「てめーら、この野郎! おとなしくできねーのか。黙ってろ」。見事に静かになりました。その暴走族たち、コンサートが終わったあと、出待ちのところで整列してました。本気で怒るから、向こうにも、その本気が伝わるんです。  彼らにとっても憧れになっちゃってたというか、別のとき、アニキが渋谷でファンに取り囲まれて歩けなくなっちゃってたら、バッと人を分けて「どうぞ」ってやってくれたのも暴走族たちでした。  男にも女にも惚れられた人でしたね。 「ブラック・レイン」に出られたことはうれしかったと思います。アニキは日本という枠から外れちゃってましたから。昔から大陸願望が強くて、大陸に行って勝負したい、って気持ちが強かったと思います。ブラックレインが最後になってるのが惜しい。次の作品までやって欲しかった。デニーロと共演の話があったようですからね。大好きな俳優さんがデニーロで、いつかデニーロ共演するって気持ちを持ってたと思いますし。  僕と、本公演のプロデューサーである西田聖志郎くんとで作った四月館という劇団がありまして、それを解散するとき、アニキに言われたんです。 「お前、今、一番やりたいものは何だ?」と。 「『真夜中に挽歌』を、僕の手で再演したい」って言ったんです。そしたらアニキが「やめろ。恥ずかしいから」というので止めて、それを題材にして作ったのが『マオモ』という作品で、それが四月館の最後の上演になりました。  その後、僕は義父の会社を引き継ぐために役者を辞めました。アニキが亡くなる年です。で、アニキの七回忌が近付いてきたころ、《芝居やりたいな、『真夜中に挽歌』を》と思ったんですが、義父の会社の経営が傾いてそれどころじゃなくなって、結果、会社は潰れ、保証人になってたので借金を負い、芝居どころじゃなくなって、その状態が20年以上続いてました。  そんな中で4年前、膵臓(すいぞう)に腫瘍(しゅよう)が見つかって、《これで終わるのかも……やり残してることがある》と思ったとき、一番に浮かんだのが、《この作品を、どうしてもやりたい》ということでした。《やらないままでは逝けない》と。あのときできなかったことをやりたい、というより、アニキに近付くためにね。近付ける訳がないんですけどね。それで(松田優作の妻)美由紀さんに「三十三回忌までに上演したい」と相談して、その翌年、聖志郎くんに話したんです。  アニキの作った作品で、台本が残っているのがこれしかないんですよ。それも1978年の初演の本番の10日ぐらい前にアニキが「テツ、どうだ、まとまってきたよな」って言うから「随分まとまりましたね」と答えると、「じゃあ、本にしとけ」と。それまでは、皆がアニキの口にする言葉をノートに書きながらやってたんです。アニキはそういう作り方でしたが、普通は台本がありますから例外的な話です。  で、今回、演出は僕。勝てないんですけど、僕は僕なりに、この『~挽歌』を、こういう風に理解して作り上げます。それを天国のアニキに見せたい。《つたないけど、観て下さい》。そういう感じです。  発病から5年目を迎える来年12月、僕はがん再発の不安から一応開放されます。だけど、《この芝居で、怒り心頭になったら、僕を連れて行ってください。もし、やったな!と思ったら、もう少し生かして下さい》……この前、そういう気持ちでアニキのお墓参りに行ってきました。だから必死です。 (聞き手・構成 渡辺勘郎) 「真夜中に挽歌」(作・松田優作、演出・野瀬哲男)公演。11月3~7日、東京・サンモールスタジオ。出演=松永涼平、野元空、藍梨、崔哲浩。4500円(全席自由)。予約=CoRich/問い合わせ=パディハウス(電話03-3385-2256)。公式HP(https://mayonakanibanka.com/) ※週刊朝日 2021年11月5日号の記事に加筆
【Vol.5】 自分を気遣ってくれる人がいた。その思いに支えられて、先生と治療の一歩を踏み出した
【PR】【Vol.5】 自分を気遣ってくれる人がいた。その思いに支えられて、先生と治療の一歩を踏み出した 治りたい気持ちはあるものの、 あまり深刻に考えていなかった  田中さんが乾癬を発症したのは38歳のころ。紅斑で顔が真っ赤に、鱗屑で髪の生え際が真っ白になったが、田中さんは「ただフケが多いだけだろう」とあまり気にしていなかったという。仕事は営業職で出張や外食も多く、忙しく不規則な生活が続いていた。  大阪急性期・総合医療センターの大畑千佳先生は、いわゆる「働き盛り世代」の壮年期に乾癬を発症する人も少なくないと話す。「生活習慣だけが乾癬を発症させる原因ではありませんが、ストレスや過労、食生活の乱れなどが乾癬の症状を悪化させる要因にはなり得ると考えられます」  田中さんが症状を気にするようになったのは、爪の変形が見られたとき。仕事で名刺交換をするとき、相手に必ず「どうしたの?」と聞かれたからだ。周囲の人たちも心配し、受診を勧めてくれた。「お客さま相手の仕事だから身だしなみも大事」という言葉に背中を押され、皮膚科を受診した。  「最初の受診で尋常性乾癬と診断され、完治は難しいと言われました。さすがにショックでしたが、一方で『でも皮膚の病気でしょ』と、あまり深刻に考えていない自分もいたのです」(田中さん)  診断後も生活は変わらなかった。しかし、心のどこかに「治したい」という気持ちもあったという。そのため受診はしていたが、積極的に治療をしていたとは言えず、症状は改善しなかった。 治療の進歩と自身の経験を伝えたいと 患者会を設立  重症化し、当時の住居地のクリニックから他の方法を試してみては、と大学病院を紹介された田中さん。受診すると、医師からそれまでとは別の治療法を提案され、取り組むことを決めたという。そして、大学病院での治療により田中さんの症状は改善し、その身体の変化は気持ちまで大きく変化させることとなる。  「完治は難しいと言われていたのに、治療によって、病気そのものは治らなくても症状はよくなるとわかり、とても驚きました。それからは病気や治療について正しく知るために情報を集め、治療にも積極的に取り組むようになりました」(田中さん)  乾癬の治療は近年大きく進歩していると大畑先生は話す。薬の種類も、治療の方法も増え、患者さんの選択肢は広がっているという。 「治療により症状が改善することで、患者さんの気持ちや行動が変化することは少なくありません。よくなると日常生活のあらゆることに対して積極的になる人が多く、表情も全く変わる。それは医師にとってもうれしいことです」(大畑先生)  そのような中で田中さんは、大学病院の主治医から患者会を作ることを勧められる。最初は「自分はそんな器ではない」と辞退していたが、何度も主治医と話すうち、「正しい知識と適切な対応によって、乾癬の症状はよくなることを、もっと多くの人に知ってほしい」という気持ちが芽生えたという。 「乾癬という病気は完治が難しいからと、さまざまなことをあきらめている人は多い。自分もそうでした。でも、私は変わった。『あなたもきっと変われる』と伝えたいと思ったのです」(田中さん)  そして、「ふくおか乾癬友の会」を設立。乾癬を正しく知ってもらうための勉強会や会報の発行に加え、「あきらめないで」というメッセージを患者さんに伝え続けている。  大畑先生は、患者会の意義について「ネットでは得られない、患者さんの実体験を聞けること」と話す。 「若い患者さんは病気や治療の情報をネットで得る人も増えています。ただ、実際にどういった悩みを抱えているか、どのような治療をしてどう変わったかなど、先輩患者さんのリアルな話を聞けることは、特にまだ通院していない患者さんにとっては有益な機会だと思います」 自分なりの「治療のゴール」を 先生に伝えることが大切  治療により、症状が消失する「寛解」の状態を約10年間維持している田中さん。自ら病気や治療について調べ、医師に自分の考えをしっかり伝えてきた。  患者会でも、例えば「4カ月後に娘の結婚式があるから、顔だけでも症状を目立たないようにしたい」など、自分なりのゴールを決め、「自分の希望をはっきり先生に伝えよう」と話しているという。  一方で、「医師に遠慮してしまう気持ちも理解できる」と、自分の希望や本音を伝えられない患者さんの気持ちにも共感する。 「患者は先生の前でうそをつくことがあります。『ちゃんと薬を塗っていますか?』と聞かれ、本当は2日に一度しか塗っていなくても『毎日塗っています』と言ってしまうのです。やはり、ちょっといい格好をしてしまうところがあるのでしょうね」(田中さん)  そんな患者さんに対して、大畑先生は「そういう時に、もし『仕事が忙しくて塗れない日もある』などと言っていただくことができたら、一緒に別の方法や工夫を考えることもできるかもしれません」と話す。 「働き盛りの世代は、どうしても仕事優先になるのは仕方ないこと。『生活習慣の改善を』『ストレスをためないで』と言っても、難しいことも多いでしょう。できるだけ患者さんに負担の少ない治療法を提案し、症状の改善を目指すことも医師の役割と考えています。症状がよくなれば日常生活も楽になり、ストレスも軽減する。そんなよいサイクルを目指せればいいですね」(大畑先生)  田中さんは、ご自身の経験から得た教訓として患者会では患者さんたちに食事や生活習慣などのアドバイスもしている。 「私は生活習慣がよくないことを自覚していたのに改善しなかった。心身の健康によくないことは、乾癬にもよくない。そう思って生活することの大切さを伝えていきたいと思っています」(田中さん) 疾患についてのさらに詳しい情報はこちら https://kansen-chiryo.net/line/ *  *  * コミュニケーションのヒント このページは日本イーライリリー 株式会社 が提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
出先や自宅で社食? 会社が仕送り、電子マネー、チケットレストラン…家計や家事の負担も軽減
出先や自宅で社食? 会社が仕送り、電子マネー、チケットレストラン…家計や家事の負担も軽減 「オフィスおかん仕送り便」は「内定式のオンライン懇親会(写真)など、社内のちょっとしたイベントでのスポット利用も増えています」とOKAN代表の沢木恵太さん。離れていても同じ食事を通じて会話のきっかけができると好評だ(OKAN提供)  テレワークが増えるなか、旧来の「社食」を従業員が活用できないケースが出てきた。より柔軟な形で、従業員のおなかも健康も満たすサービスが広がり始めている。AERA2021年10月25日号の記事を紹介する。 *  *  * 「オフィスおかん」は職場にお総菜の入った冷蔵庫を設置するタイプの食事補助サービスだ。24時間利用可能な「置くだけ社食」として2014年のサービス開始以降、全国で3千を超える事業所が導入してきた。 「テレワークでオフィスにいない社員が増えた」という導入企業の声を受けて、昨年5月から新たに「オフィスおかん仕送り便」を開始した。  実家からの“仕送り”のように、箱に入ったお総菜セットが従業員の自宅に届けられる。1件3980円。豚バラ大根煮、さばの煮付け、牛蒡(ごぼう)とひじきのサラダなど、100グラムほどの主菜・副菜が10品含まれる。  賞味期限が比較的長いチルド保存のお総菜なので、冷蔵庫に常備しておけば、自宅での家族の食事に1品追加する、などの使い方もできる。 「オフィスおかん仕送り便」(OKAN提供) ■自由度高い電子マネー  従来、食事補助の福利厚生は企業側にとって離職防止、従業員側にとって健康的な生活習慣の維持などのメリットがあったが、ここに家事負担の軽減が加わったわけだ。  物理的な食事の提供のほか、全国の飲食店やコンビニで利用できる電子マネー型の食事補助サービスも注目を浴びている。「チケットレストラン」を展開するエデンレッドジャパンへの問い合わせはコロナ前後で10倍に増えたという。  電気通信工事業のクイックイタレート(東京都足立区)では先月からチケットレストランを導入。従業員の5人はパート勤務の事務職で、事務所に通勤する人もいればフルリモートで働く人もいる。働き方が混在する中で、居心地のいい働き方をどう作り上げていくか模索していたところ、従業員側から提案されたのが同サービスだった。  子連れで出勤したり、緊急連絡時の電話対応が発生したりすることもある。ちょっと一息つきたいときに、コンビニで飲み物やデザートも買える。 (写真:OKAN提供) ■生活に直結する補助を 「いつ使うか、何を食べるか、どのように誰と楽しい時間を過ごすか、自由度が高いサービス。従業員に改めて感謝を伝える機会は少ないなか、経営側の思いを伝えるいい媒体になってくれたと思います」  と代表の菅原由美さん。  コロナ禍で家計が厳しくなり、福利厚生の中でも特に生活に直結する補助のニーズが増したとエデンレッドジャパンは見ている。同社が昨年、全国の20~40代の働く男女600人を対象に行った調査では、仕事中のランチタイムに食べたいものを食べられていない人は約5割。その4割以上が「お金がかかるから」と回答したという。一般的に、節約でまず思いつくのが食費だ。代表取締役のマリック・ルマーヌさんはこう語る。 「ちゃんとした食事をしないとちゃんとした仕事はできません。デスクに座ったまま5分で食事を済ませるのではなく、歩いて外食に出る、1時間しっかりリフレッシュする、同僚とコミュニケーションする、そういう食習慣をチケットレストランを通じて提供したいのです」  そのためには「個人に任せるのでなく企業や政府が支援するべき」と強調する。だが、日本では食事補助の非課税枠が30年間変わっていないこともあり、企業が導入に消極的な面もある。 「食事補助はヨーロッパでは社会保障の制度として確立しています。物価や平均給与の変動に合わせて毎年、額が決められます」(ルマーヌさん)  食事補助の充実は当然、飲食業界の支援にもなる。生産性が向上すれば、経済の活性化にもつながる。いまこそ「食事」を見直すべきだ。(編集部・高橋有紀)※AERA 2021年10月25日号
眞子さまと小室さんの結婚を宮内庁が発表へ 3年2カ月の「リモート愛」どうして燃え上がるのか?
眞子さまと小室さんの結婚を宮内庁が発表へ 3年2カ月の「リモート愛」どうして燃え上がるのか? 秋篠宮家の長女眞子さまと小室さん(C)朝日新聞社  秋篠宮家の長女、眞子さま(29)と小室圭さん(29)との結婚が1日午後宮内庁から正式に発表される。小室さんが米国へ留学した2018年8月から今回の帰国の隔離期間の2週間後まで3年2カ月もの間、眞子さまはリアルで会うことなくリモート愛で燃え上がり、結婚までたどり着くことに。現代の恋愛に詳しい恋愛事情専門家の神崎桃子さんがコロナ禍で急増している「リモート愛」について語った。  *  *  *  今の恋愛・結婚を取り巻く環境にもコロナの影響は大きい。  「コロナ禍になってからは男女の関係で“会わない”というケースは多いんですよ。婚活でも、大手の結婚相談所でさえオンラインで面談や登録している会員の男女を引き合わせるセッティングもしてくれます。オンライン通話で婚活の相手とおしゃべりできるサービスをしているところもあります。なので、オンラインだけのつながりでリモートだからといって全く問題ない状態です。眞子さまと小室さんがオンラインでの愛を育むというのは大いにあり得ることです。結婚相談所でさえもコロナに対応していく、そういう時代です」  眞子さまと小室さんがリアルで会えない3年2カ月の間、相次ぐ週刊誌報道などで祝福ムードとは程遠いためかどのように連絡を取り合っていたかなどのエピソードは全く聞こえてこない。神崎さんはSNSの普及も恋愛・結婚を大きく後押しするツールになっているという。 「婚活市場だけでなくて、SNSで愛を育む方もいらっしゃる。そういう方の中には1度もお相手と会ったことがないという人もいるんです。SNS上での投稿だけを見て、“この投稿の考え方に共感が持てる”から趣味が同じなどの共通項を見つけて好きになる。また、落ち込んでいる時に、会ったことがない人からのコメントが心に刺さり、恋愛に進展するんです。考え方に共感が持てたりだとか、共通項が見い出せれば、リアルで会ったことがなくても好感を持つことができる。相手の発信する投稿で“この人、いいな”と感じ取れてしまう」 婚約内定会見で小室圭さんを優しく見つめる眞子さま(C)朝日新聞社  さらに、最近の恋愛・結婚ではリアルではないリモートにメリットを感じている人も。  「リモートでも声は聞こえるし動く姿は見られるし、相手の事がだいたいわかりますよね。だから、“生理的に受け付けない人”の見分けに使われることもあります。マッチングアプリやSNSで出会って、意気投合したものの、リアルで会うと話し方が気にくわないとか、声がタイプじゃないとかが気になる。そういった事を事前に解消するために、リアルで会う前にある程度の確実な情報を集められると思うんですよね。恋に欠かせないのはフィールングなのです。話し方、言葉の選び方、間の取り方って、恋愛・結婚に意外と大事。あえて、リモートで会ってからリアルで会うようにしている人もいるくらいです。SNSで仲良くなって、いきなりデートしてお互いがっかりしたくないからあえてリモートで会う。そうすることでリアルで会った時に誤差がない、ギャップがない。そういうステップを選んだりすることもできるので恋愛においてリモートはいいですよね」  恋愛・結婚においてもリモート環境が整っている現代だからこそ、眞子さまと小室さんも関係を続けてこられたのではと神崎桃子さんは見ている。  「リアルで1度も会ったことがない人たちでも恋に落ちる時代ですから、眞子さまと小室さんがお互いに好意を寄せる関係を続けていくことは容易い。4年前の婚約内定会見を見て、私の印象は『このお二人は、本当に惹かれ合ってるのだな』と思いました。それは誰が見ても感じ取られたのではないでしょうか。婚約内定会見前まではリアルで恋愛をされているお二人がオンラインで愛を育むことは、何の障壁もないし、全く不思議な事ではないのです」  たしかに、2017年9月の婚約内定会見の時点では、小室さんのお母さんの金銭問題などが報じられるはるか前のことで、会見は祝福ムードであふれ、眞子さまから小室さんへ、小室さんから眞子さまへ向けられる眼差しは微笑ましいものだった。  「婚約内定会見をお二人の姿が真実なのではないのかなと思っています。婚約内定会見で見つめ合うお二人の目ですよね、特に眞子さまが小室さんに投げかける眼差し。眞子さまの目は明らかに“恋して輝いている女性の目”でしたよね(笑)。自分の気持ちに正直に“好きなものは好き”を貫くというのがすごくイマドキな恋愛・結婚の傾向だと思います」 帰国直後の小室圭さん(C)朝日新聞社  神崎桃子さんは婚約内定会見の発言をメモ取りながら見ていたそうで、小室さんもリモート愛を続けられるだけの覚悟を読み取っていた。  「小室さんが『きれいな月を見ると、眞子さま(宮さま)を思い出してしまう』と会見で話をしているのを見て、『小室さんは眞子さまをきちんと尊敬なさっているんだな』と思いました。月に例えられたのを聞いて、そうだ! そうだ!わかると心の中で叫んでましたね(笑)。だって恋愛ってそういうものなんです。夕陽が真っ赤に美しく見えるのも、月がきれいに見えるのも、恋をしていると特に景色の素晴らしさに気付く。また、その感動を好きな相手と共有したいと思う。だから、あの会見の時の小室さんはしっかり恋をしていたんですよ」  もう、こうなると誰も止められない――。  「お二人がリモートで3年間愛を育んだのはロミオとジュリエット効果もあると思う。人を好きになることは誰かに『やめろ!』といわれても止められるものではないでしょう。障害があればあるほど結びつきが強くなっていったのかもしれません。アメリカと日本で離れていればあきらめるのではなくて二人の愛が逆に強まったのではないか。3年2カ月の間リアルで会わなければ冷めるようなものであれば、そこまで相手を好きではなかったということになる。お二人は“令和のロミオとジュリエット”かもしれません」  ロミオとジュリエット効果とは、恋愛などにおいて障害を乗り越えて目的を達成しようとする心理現象を米国の心理学者が名付けたもの。国民の不安や心配の声がお二人をゴールへ導いてしまったのか……。  神崎桃子/恋愛事情専門家・コラムニスト。男女問わず"恋愛初心者から上級者まで"あらゆるカテゴリの恋愛にフォーカスし文筆に励む。「文章を通じて男女関係や恋に悩める人たちに元気と勇気を与えたい」という熱い思いから執筆活動をはじめ、恋愛コラムニストとしてデビュー。プロライター、コラムニスト歴は10年以上。映画のコメンテーターも務める。※神崎桃子オフィシャルサイトhttps://www.kanzakimomoko.com/
BABYMETALプロデューサーKOBAMETALに直撃 改めて「BABYMETALはメタルか否か」を考える
BABYMETALプロデューサーKOBAMETALに直撃 改めて「BABYMETALはメタルか否か」を考える ... 「10 BABYMETAL BUDOKAN」Photo by Takeshi Yao  メタルのバンドを組んでいましたが、メタル以外の音楽も好んでいたので、さまざまな音楽に触れていました。ただ、いろんな音楽を聴く中でも、一貫して好きだったのがヘヴィメタルで、それは大人になった今で...
ビジネスパーソンも学べる!関西学院大学のAI活用人材育成プログラム
【PR】ビジネスパーソンも学べる!関西学院大学のAI活用人材育成プログラム 大学生だけでなくビジネスパーソンも学べる!  関西学院大学は2019年から「AI活用人材育成プログラム」を全学で開講。 社会のあらゆる人が学べるようにバーチャルラーニング化を進めるなど、画期的なAI教育で注目される。 関西学院大学の「AI活用人材育成プログラム」はこちら > 企業や自治体・教育機関向けバーチャルラーニング版詳細はこちら > ■POINT1 日本IBMと共同開発。AI活用最前線のノウハウが満載 「AI活用人材育成プログラム」は、最新技術を誇るAI「Watson(ワトソン)」を擁する日本IBMとの共同開発で実現した。社会で求められる課題解決や新事業創出の手段としてAIを使いこなす人を「AI活用人材」と定義。AI活用事例を豊富に持つ日本IBMの知見を生かし、ビジネスの現場で即戦力となれるように高度なカリキュラムが設計された。 ■POINT2 文系理系関係なし! 初学者でも段階的・体系的に学べる  このプログラムは関西学院大学の全学生を対象に開講されている。文系理系の区別なく、初学者が入門科目から段階を踏み、体系的・実践的に学べるよう、10科目を用意(上図)。 履修者はPBL(課題解決型授業)によって実際に手を動かして学ぶことで、AIをツールとして修得できる。受講する学生たちは、授業外でのAIを活用したプロジェクトにも強い参加意欲を示すという。「AIを使って何をするのか」というビジネス視点が育まれている証だ。 ■POINT3 いつでもどこでも学べるオンデマンド型科目も  2019年の開講以来、履修希望者が定員の3倍を超えており、希望者全員が受講できるようにするため、21年度から入門科目(上図の緑色の科目)をオンラインで受講できる「バーチャルラーニング科目」に。手を動かすワークやオンラインテストを導入し、質の高いフルオンライン教育を実現した。22年度以降、AI活用実践演習(上図の青色の3科目)も順次、バーチャルラーニング化する。 *  *  * 企業や自治体、教育機関向けに バーチャルラーニング版を提供開始  2021年7月から企業などに有償で提供されているのは入門3科目(上図の緑色の科目)で、各20時間以上ある学習内容は大学の正課科目と同じ。1科目2万円(税抜)という取り組みやすい価格とした。修了者には国際通用性のあるデジタル修了証「オープンバッジ」を発行する。22年度から個人の学習者向けにも提供を予定する。 詳細はこちら > ※記載されている会社名、サービス名、商品名は、各社・各法人の商標または登録商標です。 提供:関西学院大学
【Vol.4】「私らしい乾癬との付き合い方」を見つけられたら、きっと、日々の生活はもっと充実する
【PR】【Vol.4】「私らしい乾癬との付き合い方」を見つけられたら、きっと、日々の生活はもっと充実する 【Vol.4】一人ひとりに個性があるように、乾癬との付き合い方もそれぞれでいい。自分がどうしたいかを伝え、「私らしい乾癬との付き合い方」を見つけられたら、きっと、日々の生活はもっと充実する。 「治りにくい」と聞き、 治療をあきらめたことも  上野さんが乾癬を発症したのは31歳のとき。会社経営を始めたばかりで、そのストレスからか、額にできた発疹があっという間に頭やからだに広がった。乾癬と診断され、「治りにくい」と言われたときのあきらめのような、なんともいえない気持ちは今も忘れられない。  皮膚症状を人に「見られたくない」というより、「見せてしまう」ことへのストレスで家族と温泉にも行けなくなり、治りにくいなら意味はないと治療もやめてしまった。  そんな上野さんが治療を再開したきっかけは、趣味で始めたゴルフだった。「プレー後に仲間と風呂に入りたい」と思い、乾癬治療に積極的な医師を必死に調べて受診。その先生は、自らもアトピー性皮膚炎で苦しんだ経験を持っていた。 「診療の効率より患者さんを大事にし、気持ちに寄り添ってくれる先生だと感じました。その先生と出会えたことで、もう一度前向きに治療に取り組めるようになったのです」(上野さん)  藤井さんは、勤めていた会社をやめて司法書士になった32歳のときに乾癬を発症。上野さんと同じく、医師から「治りにくい」と言われて治療をあきらめてしまう。  一方で、藤井さんには「なぜ自分の身体を隠して生きていかなければならないのか」という葛藤もあった。病気を理解してもらえたら環境も変わるのではという思いもあり、親しい人には病気の説明をしていた。しかし、周囲の人は目立つ皮疹を見て「それ何?」とは聞くが、乾癬という病気に興味は示さなかった。 「一生懸命説明しても、ちゃんと聞いてもらえない。相手が受け取る準備をしていないのに伝わるはずがないですよね。互いのギャップに気づき、隠すほうが楽と考えるようになりました」(藤井さん)  その後、いろいろ試したが、結局断念した。今は多くの治療法があることを理解しているが、治療費が高額になる場合があることや、治療を続けられるかどうかの不安などから、まだ治療に踏み切れずにいる。  浜松医科大学医学部附属病院で乾癬の診療や研究に携わる本田哲也先生は、自身も皮膚疾患を経験しており、医師の言葉が患者に大きな影響を与えることを、身をもって知る医師のひとりだ。乾癬は、単純に「治る」とはいえない慢性疾患だが、「今は治療で非常によくコントロールできるようになっているので希望を持ってほしい」と患者に伝えている。 乾癬をきっかけに 絆を深めた同志として患者会を設立  会社経営者の上野さんと司法書士の藤井さんは、数年に一度、仕事で会う関係だった。あるとき、互いに乾癬の患者であることを知り、意気投合する。  その後、東京で行われた「世界乾癬デー」のイベントに参加した藤井さんは、乾癬の患者会があることを知り、「京都で一緒にやりませんか」と上野さんを誘った。藤井さんと一緒に東京の患者会「東京乾癬の会 P-PAT」の理事長である大蔵由美さんに話を聞きに行った上野さんは、「大蔵さんのポジティブさに魅了されてしまった」と振り返る。 「それまでは乾癬をハンディキャップだと思っていたのが、大蔵さんと話してそうではないと思えたのです。この出会いも乾癬になったからこそ。悪いことばかりじゃないと実感できて、この気持ちの変化を多くの人に広めたいと思いました」(上野さん)  そして、上野さんと藤井さんは「Psoriasis of Kyoto ~京都乾癬の会~」を設立した。  藤井さんは、患者会の活動を通して社会における乾癬の認知度を上げたいと考えていた。症状を見たときに説明しなくてもすむほど、乾癬という病気を多くの人に知ってもらいたい。そのための啓発が患者会設立の目的だったが、実際に活動を始め、患者本人も病気や治療の正しい知識を得た上で、自分で乾癬とのつきあい方を選択する力、つまり「患者力」を上げることが必要だと考えるようになった。 「患者が知識を持ち、医師に『こういう治療法があると聞いたのですが』と言えるだけで、その先に進めるかもしれない。患者力を上げることも、患者会の意義と考えています」(藤井さん)  乾癬をとり巻く医療の環境は、この10年で大きく進化していると本田先生は言う。だからこそ、「医師と患者さんが意思の統一を図ることは大切」と話す。乾癬とのつきあい方や望む治療は患者それぞれであり、生活や経済的な背景なども考慮した上で個々に応じた診療が求められるからだ。 「治療で目指すのは検査結果の数値ではなく、患者さんがどこまで求めるか、何をしたいかなどを総合的に考えて、その状態をキープできること。患者さんと一緒にそこを目指すのが医師の役割と考えています」(本田先生) 治療の選択はそれぞれでも、 これからも共に進み、人生を楽しんでいく  治療の選択について、本田先生はこう話す。 「患者さんは、今後の不安や経済的な問題など多くのことと折り合いをつけなければなりませんが、そうしたことも含めて医師に相談してもらえたらと思います。医師と患者さんがコミュニケーションを図りながら、患者さんが納得できる方法を探していけるといいですね」  藤井さんは、「患者会で医師に最新の情報の話を聞くことや、症状が改善してイキイキと暮らす人と出会うことで、多くのことを学んでいる」と話す。今では自分の個性のひとつになっている乾癬と、今後どう向き合っていくか。いつ、どういう治療を選択するか。「前向きに考えていきたい」と話す。  乾癬になったからこそ出会えたものもたくさんあるという藤井さん。「乾癬は完治がむずかしい病気だけど、人生を豊かにするアイテムにもなる」と考えている。  上野さんも、乾癬になったことで得たものは多いと考えている。そのひとつが患者会だ。乾癬の患者はとても仲間意識が強い。「海外で日本人に会ったときのように、初対面でもすぐ友達になってしまう」と話す。患者会の仲間や先生方、多くの知識や経験、それらは乾癬になったからこそ出会えたものだ。患者会の活動を通して、悩んでいる人たちに「乾癬になっても楽しめる」と伝えていきたいと思っている。 疾患についてのさらに詳しい情報はこちら https://kansen-chiryo.net/line/ *  *  * コミュニケーションのヒント このページは日本イーライリリー株式会社が提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
渋谷から出る生ごみで「渋谷肥料」 栽培キットやコスメ、コーラまで循環型の新商品開発
渋谷から出る生ごみで「渋谷肥料」 栽培キットやコスメ、コーラまで循環型の新商品開発 「渋谷肥料」が生み出した手作りせっけん「cre-cle」。体験型のワークショップを通じて参加者も実際に作ることができる photo Hiroshi Takano(cre-cle) 生ごみからできた堆肥に植物の種と土を組み合わせた栽培キット。渋谷のビルの屋上で植物を育てコミュニティーで収穫を楽しむこともできる(渋谷肥料提供 渋谷の生ごみから生まれた肥料。これで育ったハーブからコスメやコーラを生み出す(渋谷肥料提供)  世界有数の繁華街、東京・渋谷。生ごみの量も膨大で、「消費の終着点」の顔ものぞかせる。そんな状況を変えようと、若手の有志が立ち上がった。AERA2021年9月6日号の記事を紹介する。 *  *  *  東京・渋谷を「消費の終着点」から「新しい循環の出発点」にシフトできないか。そんな問いを掲げるプロジェクトを10~30代が中心となって進めている。渋谷の飲食店などが出す生ごみから、新たなサーキュラーエコノミー(循環型経済)のモデルをつくり出す「渋谷肥料」という取り組みだ。代表の坪沼敬広さん(35)は言う。 「ネガティブな面もクリエーティブな視点で捉え直すことで、ポジティブな循環に変えることができます」  坪沼さんは大学卒業後、デザイン業界での下積みを経たのち独立。クリエイティブディレクターとしてさまざまな商品企画を手掛けてきた。 ■生ごみを堆肥に変える  渋谷はきらびやかな国際都市の顔を持つ半面、ハロウィーンで集まった人が大量のごみを残すなど「消費の終着点」という負のイメージもある。坪沼さんはこうした課題に向き合おうと、渋谷スクランブルスクエアの交流施設「SHIBUYA QWS(キューズ)」のイベントで知り合ったメンバーと共に構想を提案。20年2月に「未知の価値に挑戦するプロジェクト」として採択されたのを機に、キューズを拠点に取り組みを始めた。  渋谷区内から出るごみの7割が事業系。うち半分近くが生ごみと推計される。坪沼さんらが生ごみを肥料化し、これを活用して商品を生み出して渋谷の中で循環させる仕組みづくりだ。これまでに「サーキュラーキット」「サーキュラーコスメ」「サーキュラースイーツ」の3分野の商品開発に取り組んだ。  サーキュラーキットは生ごみを堆肥(たいひ)化して、植物の種や土と組み合わせた栽培キット。購入者が渋谷の自社ビルでベビーリーフなどを栽培し、地域のコミュニティーづくりにも活用されている。サーキュラーコスメは渋谷のビルの屋上で栽培したハーブを用いた雑貨やコスメ。現在はハーブをブレンドしたオリジナルのクラフトコーラ「渋谷コーラ」の商品開発も進む。 ■「エコ」に甘えない  サーキュラースイーツは生ごみの再利用とともに、地方で生産した農作物を加工・販売する取り組み。渋谷スクランブルスクエアから出た生ごみは、日立セメントのバイオプラント(茨城県土浦市)で肥料になり、茨城大学でサツマイモ栽培に使われている。それを原料に渋谷発のスイーツを商品化した。  これらの商品はセンスの良さも評価され、パートナー企業とともに来年1月をめどに量産化が決まっている。「エコという言葉に甘えず、信念を持って創意工夫を重ねたものが生活者の心に響くはず。渋谷に集う優秀なクリエーターや感度の高い人たちの協力を得て推進できるのは大きな強みです」(坪沼さん)  その一人が、渋谷肥料の商品開発ディレクターを務める慶應大学総合政策学部1年生の清水虹希さん(19)。中学時代、洋菓子店の職場体験で大量のお菓子が捨てられているのを目の当たりにし、食品ロスに関心をもった。清水さんは「自分はどんな未来で生活したいのか」という感覚を大事にしている。  渋谷肥料では、代表の坪沼さんと最年少の清水さんも強みを生かし合う関係だ。 「経験や技術よりも、物事をどういった目線で見ているかという視点が大事。世の中をより深く、鋭く捉えようとしている人が社会を動かす原動力になると思っています」(坪沼さん)  坪沼さんは今後、渋谷肥料で培ったビジネスモデルを他地域にも応用し、循環型経済の輪を広げたいと考えている。来年中には株式会社化も視野に入る。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2021年9月6日号
【Vol.3】まずは病気を受け入れて進もう。自分も情報を持って動けば、道を開いてくれる先生や仲間にきっと出会える
【PR】【Vol.3】まずは病気を受け入れて進もう。自分も情報を持って動けば、道を開いてくれる先生や仲間にきっと出会える 症状が悪化し、不安と絶望で情報も 人との交流もシャットダウンした日々  おなかに発疹がみられ、木戸さんが近所の皮膚科を受診したのは高校生のとき。「脂漏性皮膚炎」といわれ、塗り薬を処方されたものの改善せず、皮膚科を転々とした。不安が募るなか、1年後に大学病院で「尋常性乾癬」と診断をされる。乾癬という病気はまったく知らず、医師の「長いつきあいになる」という言葉がショックだったという。 「ニキビみたいなもので、すぐ治るだろうと思っていたんです。当時は、病気のことを知ることより、とにかく早く治したくて必死に薬を塗っていました」(木戸さん)  埼玉医科大学病院で乾癬治療に取り組む常深祐一郎先生は、診断時の伝え方についてこう話す。「診断のときに『治らない病気です』と言ってしまうと、患者さんは治療への希望を失ってしまいます。乾癬は慢性疾患ですが、適切に治療することで、よくなる病気です。治療をきちんと続けていただくためにも油断はしないように、でも、あきらめもしないようにバランスを考えて伝えることが大切だと考えています」  診断後、木戸さんの症状は悪化する。好きな洋服を着ることや美容院に行くこと、アルバイト、おしゃれなどできないことが増えた。友人に隠すことや、医師の何気ない言葉に傷つくことなども重なり、「心が疲れていった」という。  その後、乾癬性関節炎も発症し、手指の痛みから関節の変形、足の痛みへと症状が進行。仕事もできず、絶望感と病院への不信感から治療もやめてしまう。友人との交流もシャットダウンし、自宅に引きこもる日々が2年も続いた。 乾癬を取り巻く環境の変化を知り、 もう一度治療を受けようと決意  木戸さんが再び治療と向き合うきっかけとなったのは、知人から届いた新聞記事だった。乾癬治療の進歩について書かれたその記事を読み、自宅に引きこもっている間も時間は流れており「浦島太郎状態になってしまった」と感じた木戸さんは、「人生80年といわれる時代に、このままではもったいない。もう一度病院に行ってみよう」と思ったという。  常深先生は、「乾癬の治療の進化を患者さんに知っていただきたい」と話す。 「昔は有用な治療法が少なかったため、今も『治療をしてもよくならないだろう』とあきらめている患者さんもいると思われます。しかし近年、乾癬の治療は大きく進歩し、治療の選択肢も増えています。ぜひ、ご自身に合う治療法を医師と相談していただきたいと思います」(常深先生)  新聞記事を参考に、近くの大学病院を受診した木戸さん。不信感をあらわにする自分を自然に受け入れ、笑顔で話してくれる医師の姿に「これまでとは違う」と感じたという。関節の症状が進んでいたため、同じ病院のリウマチ科の医師も紹介してもらい、その日のうちに受診することができた。治療について、この治療をすればどういう効果が期待できるのかを具体的に説明してもらえたことで納得でき、「この先生を信じてもう一度治療してみよう」と思えた。 「今まで言えなかった自分の気持ちを、その先生には言うことができたのです。先生からも、『どこがつらい?』『まず何から治したい?』と聞いてくれたので、希望を伝えて、ひとつずつ治療していくという感じでした」(木戸さん)  常深先生のもとにも、なかなか症状が改善せず、治療をあきらめかけた患者さんが訪れる。そのような患者さんに対し、常深先生は「とりあえず治療しましょう」とは言わない。それでは、せっかく受診した患者さんが「これまでの治療と変わらない」と思ってしまうからだ。  治療の考え方から話をし、「こういう治療をしましょう。すると、こうなることが予測できます」と伝え、これまでとは違う結果が待っていると患者さんが思えることで、治療へのモチベーションにつながるという。 「実際に治療をして症状がよくなると、患者さんは『やればできる』と自信が持て、それが次の治療ステップにつながります。さらに、症状が改善すれば生活も変わり、患者さんはより積極的に治療に取り組めるようになります」(常深先生) 正しい情報を得ることが、 新しい世界を開くきっかけに  木戸さんは、皮膚科とリウマチ科、二人の主治医と治療を続け、症状が改善。体調がよくなると気持ちも明るくなり、友人から教えてもらった患者会に参加するようになる。 「患者会でいろいろな先生の話を聞いたり、同じ病気の仲間と話したりするなかで、病気や治療の正しい知識を得ること、病気と向き合うことの大切さを実感しました」(木戸さん)  常深先生は、病気と向き合う患者さんの思いと、治療の意義についてこう話す。 「患者さんは、自らのつらい経験を診察室で医師に話すことはあまりありません。ただ、治療によって症状が改善した後に、『20年ぶりに半袖の服を買いました』『30年ぶりにプールを楽しめました』と話してくださることがあります。その言葉に患者さんのそれまでのつらい経験と、できるようになった喜びを感じ、これが乾癬治療の意義なのだろうと感じます。乾癬治療の最終目標は皮疹を消すことではなく、その一歩先の、患者さんの生活をよりよいものにすることだと考えています」  今、木戸さんは患者会の副理事長として、患者さんをサポートする活動に携わっている。正しい知識を得て、信頼できる医師とともに治療に取り組めばよくなることを知った自分だからこそ、「治療の選択肢は広がった。早く行動することで、悩んでいる時間が少なくなる」と伝えることができると考えている。 疾患についてのさらに詳しい情報はこちら https://kansen-chiryo.net/line/ *  *  * コミュニケーションのヒント このページは日本イーライリリー株式会社が提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
作品は衝撃的でも…漫画家は“気遣いの人” 漫画界のアカデミー賞受賞のホラー漫画家・伊藤潤二の穏やかな人柄
作品は衝撃的でも…漫画家は“気遣いの人” 漫画界のアカデミー賞受賞のホラー漫画家・伊藤潤二の穏やかな人柄 伊藤潤二(いとう・じゅんじ)/1963年、岐阜県生まれ。87年、『富江』でデビュー。2021年に『幻怪地帯』。19年、21年にアイズナー賞受賞(撮影/写真部・東川哲也) アイズナー賞の「最優秀アジア作品賞」を受賞した『地獄星レミナ』から。この緻密な絵にファンが多い(JIGOKUSEI REMINA (c) 2005 JI Inc./SHOGAKUKAN 2019年にアイズナー賞を受賞した『フランケンシュタイン』の本とフィギュア。おぞましくも美しい伊藤ワールドの人気は世界レベルだ(撮影/写真部・辻菜々子)  ホラー漫画家・伊藤潤二さんが漫画界のアカデミー賞「アイズナー賞」を受賞した。「最優秀アジア作品賞」と「Best Writer/Artist部門」の2部門での受賞で、中でも後者の日本人受賞は初。AERA 2021年8月9日号では、海外でも高く評価された伊藤作品、そして伊藤さんの魅力に迫った。 *  *  *  伊藤さんは1986年、歯科技工士の仕事の傍ら描いた『富江』で「楳図賞」に佳作入選し、翌年デビューした。35年にわたる漫画家生活において、奇想天外なアイデアと緻密でありながらおぞましくも美しい絵で多くのファンを魅了し、200タイトル近い作品を世に送り出してきた。  伊藤作品はフランス、スペイン、台湾や中国など20を超える国・地域で翻訳されている。海外での人気が高まりだしたのは、2015年ごろだ。フランスのアングレーム国際漫画祭にゲスト出演し、台湾をはじめ北京や上海など8カ所を回る個展も大盛況。SNSには代表作「富江」や「うずまき」の登場人物のコスプレをする世界中のファンの写真がアップされている。 ■1枚絵のインパクト  アイズナー賞受賞の発表に先駆けてツイッターで「#伊藤潤二」「#首吊り気球」がトレンド入りしたことも話題になった。東京・渋谷の代々木公園上空に出現した巨大な顔のアート。それを見た人々が一斉に伊藤さんの人気短編「『首吊り気球』のようだ!」と投稿したのだ。アイズナー賞受賞作『伊藤潤二短編集 BEST OF BEST』に収録されている『阿彌殻断層の怪』もまた高い人気を誇る作品だ。 「『阿彌殻~』は特にアメリカで人気が高いようで、ツイッターでときどき『自分の穴に入っていく』というシチュエーションを画像にして、つぶやいている方を見ます(笑)」(伊藤さん)  自身は海外での人気の理由をどう捉えているのだろう。 「1枚の絵でバーンと見せるインパクトや、頭をひねって生み出したアイデアを評価してもらっているのかな、とも思います。昔から海外の怪奇小説をよく読んでいたことも一因かもしれません。特に世界の古典作品を集めた『怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)が好きで、秀逸なアイデアで徐々に恐怖を盛り上げていく物語にかなり影響を受けてきた。そのあたりも海外の方に受け入れていただけた理由かもしれません」 ■コレクターを刺激する  作画作業は一人で行い、ときに1コマに9時間をかけることもある。その絵の美しさから「アート作品」として捉えられている部分もあると、日本漫画の翻訳・出版を手がけるVIZメディアの門脇ひろみさん(48)は言う。 「アメリカでは“きちんと描かれた綺麗な絵柄”が好まれる傾向があると感じます。伊藤作品は短編を集めたハードカバーのシリーズで、値段も1冊22.99USドル(約2500円)前後と一般の漫画より高め。画集のような感覚で買う方もいるようです」  伊藤さんも冗談ともつかない笑顔で言う。 「装丁も大変に美しく作っていただいているので、コレクター心を刺激するのかも。アメリカの家は広いので全集のようにずらっと並べて、ぜひインテリアとして飾っていただきたい」  世界の“Junji Ito”になっても会う人を魅了する穏やかな人柄やそこから生み出される衝撃のホラー世界は変わらない。唯一、気をつけていることは、 「最近は吹き出しの形をあまり縦長にしないように気をつけています。英文にしたときに読みにくくなってしまうので」  とことん、気遣いの人なのだ。現在は最新刊『幻怪地帯』の新たなシリーズを制作中。 「奇想天外で恐ろしい、私が本来描きたい欧米の怪奇小説のようなテイストの作品を描きたいなと思っています」  混沌とする世界に、これからも伊藤潤二ワールドが沁み渡っていくに違いない。(フリーランス記者 中村千晶) ※AERA 2021年8月9日号より抜粋

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